#22 Regulus

「はぁ……はぁ……っはぁ……」


 全身に吹き抜ける風を感じ、無我夢中になって今までで一番の全速力で走っていたことに巧人は気付く。しかし、今更止まれない。おもむくままに走り続けていると、だんだん息が苦しくなり途端に足がなまりのように重くなる。

 やがて、足が上がらなくなり視界もかすみ始めたところで近くの壁に倒れるようにもたれかかりしゃがみ込んだ。駅まで戻ってきたらしい。帰宅ラッシュでばらばらと足音の不協和音ふきょうわおんが響いて呼吸のリズムが崩され掻き消されていく。

 息が全く整わず単なる汗に混じり冷や汗も噴き出してくる。酸素が足りていないのか頭もぼーっとしたままで、足先や指先までしびれてきた。まさに満身創痍まんしんそうい。このまま気を失って倒れてしまってもおかしくない状態であるのにも関わらず、意識だけはいつまでも鮮明で耐え難い苦痛に支配される。


(……しんどい……苦しい……)


 あまりの辛さに涙まで出てくる。誠弥に気持ちは伝わらない、秋のように走ることもできない。全てが嫌になってもういっそ死んでしまいたい、そんな考えがぽつりと浮かんできたそのとき、雑音に紛れ遠くからかすかにたしかな足音が聞こえてきた。それは狭い間隔で巧人に近付いてくる。


「タク!」


 名前を叫びながら誠弥が駆け寄ってきた。肩を揺らし何度も名前を呼ぶが、巧人は息が上手くできず応答できない。


「タク、兄ちゃんだよ分かる?」

「……っ」


 誠弥の呼びかけに巧人はやっとの思いで小さく頷く。背中をさすられ、肩を大きく上下しながらもなんとか息をしようと口を大きく開けた。


「大丈夫、大丈夫だから。今は息することだけに集中して」


 誠弥が優しく声をかけられ続けていると、不思議なくらい落ち着いてくる。浅いがだんだん息は整ってきて、巧人は少し顔を上げ誠弥の顔を見た。


「……兄、さん……っ」

「落ち着いてきた?」

「…………ああ……。でも……力、入ら……ない……っ」


 巧人はそのまま崩れるように誠弥に寄りかかる。誠弥は身体を支え汗を拭ってやった。


「回復するまでどこか落ち着ける場所で休もうか」


 誠弥は人混みの中辺りを見回し空いているベンチを見つけた。「ちょっと動くね」と声をかけ巧人を背負ってベンチまで運んでやる。


「横になった方が楽かな?」

「……いや……、たぶん、座ってた……方が、楽……」

「そっか。しんどくなってきたら無理しないでいつでも横になっていいからね」


 そう言って誠弥は自分の膝を差し出す。それが巧人を余計にどきどきさせ息を乱れさせることになるとは思ってもいない。


「はぁ……はぁ……」

「胸とか苦しくない? かなり脈上がってるね」


 誠弥は苦しそうにしている巧人の背中をさすりながら、手首にもう片方の手の指を当て脈を測る。


「……大、丈夫……。もう、だいぶ……落ち着いてきた……」

「良かった。冷たいお水買ってくるから、ちょっと離れるけどいい?」

「ああ……ありがと……」


 一人でも楽な姿勢に身体を支えてやり、誠弥は駆け足で近くの自販機へ向かう。その姿を巧人はまだちかちかする視界に捉え目で追いかけた。


(……兄さんの隣にいると、どきどきするのに落ち着いてくる。不思議だな……)


 買い終え振り返った誠弥と目が合い、また呼吸が乱れようとするのを巧人は胸を押さえて落ち着かせた。


「おまたせ。はいどうぞ……って、ペットボトル持てる?」


 そう言われて巧人は手を握ったり開いたりしてみる。まだ痺れが残っていてぎこちなくなってしまう。


「うーん、ちょっと心配かな? よし、俺が飲ませてあげる」

「えっ、待って……それくらい、自分でできる……から……」

「だめ。うっかりペットボトル落としちゃったら大変でしょ」

「でも、だからって……っ」


 口移し。巧人はそう思い込んでいて、こんな公衆の面前では恥ずかしくてとてもできないと必死で拒絶しようとしている。しかし当然そんなはずはなく、誠弥はペットボトルのキャップを開け巧人の口元へ近付けた。


「大丈夫だから、ね? 苦しくならないように、もういいよって思ったらなんでもいいから合図して。そうしたら離すようにするから」

「え……。ああ、分かった……」


 いざ違うと分かるとそれはそれで悲しい。巧人は肩を落としながらも少し顎を上げペットボトルを迎えた。

 傾けられた容器から口の中に冷たい水がゆっくりと入ってくる。ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ……と三回飲み込んだところでペットボトルを持つ誠弥の手に軽く触れて合図した。


「なんとか上手くできたね、良かった」

「っ…………」


 これでも十分恥ずかしかった。母親にミルクを飲ませてもらっている赤ちゃんの気分だ。口の中に残っていた水を飲み込むと、口元を手で押さえ目線を下へ逸らした。


「水分摂ったらかなり楽になったんじゃないかな?」

「それは、そうだが……。次からは自分で飲む……」

「無理はさせないからね。ちゃんとグーパーってスムーズにできなきゃペットボトルは渡さないよ」


 巧人は少しでも血液の巡りが良くなるようにと手を握っては開いてを繰り返した。誰も見ていない室内ならそれも歓迎だったのにと、握る拳に悔しさが滲む。


「え、そんなにいやだった?」

「……いや、というか……こんな誰が見てるかも分からないところで、恥ずかしいだろ……」

「あー……そっかぁ。ごめんね、全然気が付かなかった。タクはもうそんなちっちゃい子じゃないもんね」


 本当に分かっているのか、誠弥は幼い子供を相手にするようににこにこ笑いながら巧人の頭にぽんぽんと触れる。一回りも歳下ではいつまで経っても子供に見えるのは仕方ないのかもしれないと巧人は甘んじて受け入れるが、仮に誰も見ていないとしても周りの視線が気になった。


「タクはもう子供じゃないんだ、ちゃんと大人の男の人として見ないとってずっと思ってるのになかなか上手くいかないね」

「……冷たくするつもりなら、今のままでいい」

「そんなつもりはないよ。ただ、もっとタクのことを尊重しないとなって。タクがどんなこと考えてるのか、何をしたいって思ってるのか、自分では何も分からないなんてことはもうないでしょ?」


 巧人は静かに頷く。分かりたくもないと思っていても自分の気持ちは分かってしまって、その度苦しめられる。誠弥が好きで誠弥を愛していて誠弥のことでいつも頭はいっぱいで自分のことなんてほとんど考えないのに、自我は無意識に確実に存在しているのだ。

 誠弥にこれ以上心配をかけさせるわけにはいかない。介抱はもういらないと、巧人はつま先を何度か動かしてから立ち上がった。


「もう大丈夫だ、そろそろ帰ろう」

「そう? でも、タクがそういうならそうなんだね。しんどいのに大丈夫だなんて嘘、つかないよね」


 信頼してくれているからこそ出てきたその言葉が巧人に突き刺さる。今こそ本当に大丈夫だが、そんな嘘なら平気でついてしまいそうだったのだ。




 * * *


 タイミング良くやってきた電車に乗り込む。行きとは違って快速電車で車内は人で溢れている。


「タク、大丈夫? 俺に掴まってていいからね」

「ああ……」


 吊り革も手すりも空いておらず、支えがないと人波と車輌の揺れであっさりはぐれてしまいそうになる。巧人は誠弥のリュックのベルトを両手で軽く掴んだ。

 お互いに顔が見えない状態で沈黙が続く。ガタンゴトンと車輪がレールの継ぎ目を通過する度車内に音が響く。一定のリズムと対比するように、巧人の耳にカップルらしき男女が楽しそうに話している声が聞こえてきた。周囲も気にせず膝を突き合わせ肩を寄せて笑い合っている姿が見えると、身体の奥の方がざわざわとしだして良い気分がしない。

 ベルトを掴む手が強くなり、誠弥を引っ張る形になる。


「ん、人酔いしてきた?」

「いや、平気だ……」

「でも、次の駅で各停に乗り換えた方がいいかな。座ってた方が楽だもんね」


 ずっと何も言わずに気遣ってくれる誠弥は一体今何を思っているのだろう。自分勝手に飛び出してへたってしまったのは自業自得じごうじとくなのに、責めるどころか献身的に看病してくれて。車窓から流れていく住宅街の景色を眺めているだけの誠弥の考えが巧人には分からず、雑踏ざっとうに吐き捨てるように尋ねる。


「……なんでさっき突然走って逃げ出したのか、訊かないんだな」

「その理由を話したくないから逃げ出したんじゃないの? 体育の授業すら受けられない身体であんなに全力で走ればどうなるのかくらい分かってたはずなのにそうしたってことは、それだけ俺に言いたくない何かがあったってこと。そうじゃない?」

「…………。兄さんは、全部分かってるんだな……」


 身体を張って逃げ出したのが馬鹿みたいだ。分かっているならどうして想いは伝わらないのか、もどかしくて堪らない。巧人は誠弥のリュックにかけていた手を力なく離す。


「俺は何も分かってなんかないよ。俺、何かタクがいやな気持ちになるようなことしちゃったかな?」

「え?」


 満員電車、ほんの僅かに生まれた誠弥との隙間に冷たい風が吹き抜けたような気がした。


「冗談半分の笑い話をしてたつもりだったのに、あんなに悲しそうな顔して急に走って行っちゃうから何が起こったのか分かんなくて。やっぱり俺からそんなこと言っちゃだめって言ったのに、タクのこと女の子だったら〜とか言っちゃったのがいけなかった?」

「それは、別に……」

「そうじゃなかったらさ、タクに申し訳ない勘違いしちゃいそうなんだ」

「?」

「タク、もしかして俺のこと――」


 誠弥が何か言いかけたのと同時に「まもなく電車大きく揺れますのでお立ちのお客様はご注意下さい」というアナウンスが聞こえ、直後にガタンと揺れてはぐれそうになる。巧人は咄嗟に誠弥に抱きついた。


「……っと、大丈夫?」

「ああ……。……っ! わ、悪い……」


 不可抗力とはいえ誠弥に抱きついてしまった。気付くと巧人はすぐに離れるが、たしかに全身で誠弥の体温を感じてしまい、ぞわりとした感覚が頭のてっぺんから足先まで伝っていく。

 顔を紅くし気まずそうにしている巧人を見て、誠弥は先程言いかけた言葉を言い直そうとするが、飲み込み笑ってみせた。


「……まさかね」

(人前で抱きついちゃったから恥ずかしそうにしてるだけだよね。俺のことが好きなんて、そんなことあるはずない)


「兄さん、さっき何言おうとしてたんだ?」

「いや、大したことじゃないから気にしないで。駅着いたよ、降りよっか」


 首を傾げる巧人を先導し満員電車から抜け出すと、誠弥は大きく深呼吸をした。


「やっぱり人が多いと空気も汚れてる気がするよね。ほら、タクも外の空気ちゃんと吸っといた方がいいよ」

「……すぅ……はぁ……。本当だな、満員電車は立ってるだけで妙に疲れると思ったらそういうことだったのか」

「毎日電車で通勤したり通学するのって大変なんだって気付かされるね」

「俺には厳しいな。そんな甲斐性なしなのに走ったりして迷惑かけてごめん」


 降車客もほとんどいなくなり快速電車も発車した静かなホームで、巧人は誠弥に頭を下げた。


「いいよいいよそんなの、迷惑だなんて全然思ってないから頭上げてよ」

「兄さんは優しいな。……逃げ出した理由、話せる日が来たらちゃんと話すから待ってて」

「うん、分かった。あ、電車来たね」


 なんでも話してくれると思っていた〝弟〟の初めての秘め事が気にならないはずなどなかったが、誠弥の反応は淡白だった。いつか話してくれると言っているのだ、過度に期待も煽りもせず巧人を信じて待っていればいいと〝兄〟の表情を見せた。

 各駅停車の車輌は帰宅ラッシュの時間になっても混み合うことはなく、楽々と座ることができた。まばらな乗客を乗せた車内はオレンジ色に染まり、二人並んだ影を長く伸ばしていく。


「家まで送っていこうか?」

「いや、そこまでしてくれなくていい。もう母さんは帰ってるだろうし、このまま乗っていれば兄さんの家の最寄りまで行くだろ?」

「と言っても光陽台からたったの二つ先だけど」

「小さい頃は二つ先の駅なんてものすごく遠いところだと思ってた。だから兄さんはいつも遠くからわざわざ家まで来てくれるんだって、サンタクロースを待ちびてるような気分だった」


 乗車時間にして五分足らず、徒歩でも三十分もかからないくらいの距離。それでも身体が弱く幼かった巧人にとっては未知の世界で、行ってみたくても行けない地図の上でだけ知っているような場所だった。


「夢壊すみたいでごめんね、すっごい近場にいて」

「いいんだ、寧ろ兄さんが近くにいると分かった方が嬉しかったから」


 それは巧人にとってサンタさんが流行っているらしいおもちゃをプレゼントしてくれたときより何倍も嬉しいことだった。もっとも、土地勘がついた頃にはとうになる者の正体には気付いていて、その者がクリスマスの夜遅くに部屋を訪れることもなくなっていた。


「近場って分かった途端、よく遊びに来るようになったもんね。でも、中学生になったら急に来なくなったから寂しかったなぁ」


 誠弥は「その代わり俺がタクの家にお邪魔する回数が前より増えたんだけど」と言って巧人に笑いかける。無論、巧人が誠弥の家に行かなくなったのは、中学生になりより誠弥のことを恋愛対象として意識するようになってしまったからである。一人暮らしの誰か第三者の入ることがない空間で長時間何事もなく居続けられる自信がなかったのだ。

 とはいえ、誠弥が家に訪ねてくることを拒絶することもできず何度も首を締めてきた。約束をする瞬間は欲望が勝り続け二人きりを選び、いざ顔を合わすと理性がバケツに入った水を浴びせるように頭を冷やさせた。一緒にいる時間は幸せの絶頂である反面、拷問ごうもんを受けている気分でもあった。

 誠弥が帰ったあとのむなしさと強烈な自己嫌悪じこけんおを思えば、誠弥の部屋に行って後腐れなく立ち去っていた方がまだ良かったのではと後悔していた。


「いつでも遊びに来てくれていいんだからね」

「……仮にも教師が生徒を易々やすやすと自宅に招き入れようとするな」

「またそんな風に言う。これは教師としてじゃなくて〝兄〟としての言葉だって。タク以外の生徒にはこんなこと言わないよ」

「俺にだけ……」


 自分だけを特別扱いしてくれている。しかし、その言葉を巧人は素直に受け取ることができない。もしいつか気兼ねなく誠弥の家を訪れることができる日が来たとすれば、そのときには二人の関係は〝兄弟〟ではなくなっているはずなのだ。


「だから、変に気を遣ったりしなくていいよ。昔みたいに会いたいからってだけでも良いから……って、平日に毎日会ってたらそんなこと思わないか」


 土日の空白にもちろん寂しさはあったが、月曜日になればまた会えるという約束された未来が却って巧人の心を温かくしていた。休日も構わず会いたい気持ちがある一方で学校へ通うモチベーションの一つにもなっていたこともあり、会わない方が良いのではと考えが揺らぐ。


「……どうしても会いたくなったら会いに行く」


 車内アナウンスが間もなく光陽台駅へ到着することを乗客に伝える。すると巧人は立ち上がり、扉の前の手すりに掴まった。


「じゃあ、また明日」

「うん、じゃあね」


 駅に到着し扉が開くと、巧人は右足をホームへ出したところでちらりと誠弥を見る。手を振って見送ってくれていることに気付きぎこちなく振り返した。


(もし、タクが俺のことをそういう目で見てたとしたら……俺は一体どうすればいいのかな)


 誠弥は車窓から空を見る。名前も分からない星が寂しげに輝いていた。

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