#21 俺が俺のままでも
喋りながらのんびり歩いてようやく巧人の父親の診察室の前まで辿り着く。誠弥は緊張しているようで、息を呑み深呼吸をし気を落ち着かせた。ふぅ……と息を吐く音を確認してから巧人は扉をノックした。「はい」と低い男性の声が聞こえてくる。
「……俺だ」
「それだと詐欺みたいだよ?」
巧人が扉を開けると父親は怪訝そうな顔をしていた。扉の向こうから息子とは違う人物の声が聞こえたことを不審に思っていたらしい。部屋に入ってくる息子の顔を確認し、その後ろにいる予定外の来客に首を傾げた。
「……何故、杜松がいるんだ?」
「いやぁ……ご無沙汰してます」
誠弥は何か後ろめたいことでもあるかのようにぺこぺこと何度も頭を下げている。巧人の後ろから動こうとせずただじっと元恩師の顔色を伺った。
「君が敬語を使っているととても違和感があるな。昔の癖か、何か
「何もないですよ! 人聞き悪いな。そりゃ学生時代はあんまり真面目じゃなかったかもしれないけど」
「それでこそ私のよく知る杜松だ。友人を相手にしているときと何ら変わらない調子で馴れ馴れしくて、初めはなんて奴だと先が思いやられた」
「ほらねタク、俺は相当な問題児だったんだよ」
「そんな得意気な顔をされても困る」
巧人は父親に促され鞄を診察台に置く。そのあとに続いて「俺も置いていい?」と誠弥は尋ね、返事を聞く前に巧人の鞄の横に自分のリュックサックを置いた。拒否するつもりはなかったとはいえ元教え子の行動にはため息をつくことしかできない。
「三人分も椅子はなくてな、診察台に腰掛けてくれ」
「それじゃお言葉に甘えて。いやぁ、でも本当に懐かしいなぁ……。部屋の感じは全然変わってないんだね」
誠弥は巧人と横並びになって診察台に腰掛けると、診察室全体を見回した。かつて学生として顔を出していたときと何も変わっていない風景に、タイムスリップしたような錯覚をしてしまう。
「診察室はあまり物の配置を変えることもないからな」
「変わったのはタクくらい? 初めて会ったときのタクはここ座って足ぶらぶらさせてたのに、今ではちゃんと地面に足が着いてる」
「それだけ身長が伸びたということだな。病院に連れてきていたのも小学校低学年頃までだったから、成長が目に見えて分かる」
誠弥と父親は揃って幼い巧人の面影を現在の巧人に重ね合わせる。今でも小柄ではあるが確実に成長していて、胸が温かくなった。
「先生は全然変わってないのにね。いや、とんでもなく偉い人になっちゃったか」
「順当に出世しただけだ。それを言うなら杜松の方が立派にやっているそうじゃないか。突然姿を消した君が自分の力で新たな道を切り
腕を組み変化に乏しい表情を僅かに柔らかくして誠弥を見る。恩師からの言葉に誠弥は感激のあまり緊張が解れ涙しそうになった。
「先生からそれだけ言ってもらえたらもう十分、です。もっと言い訳いっぱいして、なんとか俺もそれなりにやれてるんだってアピールしようと思ってたけど、そんなのいらなかったな」
「ああ、君の活躍ぶりはよく聞いているからな。今となっては、杜松と巧人は私以上にお互いのことを知っているのではないか?」
「俺は先生と長い間会ってなかったからタクはそうかもしれないけど、さすがにタクのことを父親よりよく分かってる自信はないなぁ」
「何を言うか。昔から巧人は私より君に懐いていて、君から聞いて初めて知ることも多かったんだ。今も巧人が高校でどんな風にしているのか全く知らない。親として君にはずっと嫉妬している」
立ち上がり窓の方へ歩いて行き誠弥から目を背ける。元教え子が羨ましいなどとはおくびにも出さないが、その顔を見せたくはなかった。
「嫉妬って……というか、それなら今すぐ親子水入らず二人で話しなよ。元々はそういうつもりだったんでしょ? 俺がいるの、そもそもイレギュラーなんだし!」
「ちょっ、兄さ……」
「おい待て杜松……!」
親子が全く同じように手を伸ばして引き留めようとしているのをにやりと笑うだけであしらい、誠弥は手を振って部屋を出ていってしまった。
沈黙が薄重く部屋に広がる。父親は椅子に戻り巧人の顔を見るが、親子であっても元々二人とも口下手でこの頃はほとんど言葉を交わしていなかったので気まずいのだ。
「……巧人」
「なんだ……」
「何か、父さんに話しておきたいことはあるか?」
「……別に」
「そうか……」
再び沈黙が続く。父親が仕事へ手を戻すことも巧人が立ち上がり部屋を去ることもなく、お互い俯いたまま時間だけが過ぎていった。
「……あのさ、親子なんだからもうちょっと肩の力抜いていいと思うんだけど」
扉の前で待っていた誠弥は、数言のぎこちない会話だけをしてまた黙り込む親子に耐えかねて扉から顔を覗かせそう言った。
「だが、巧人は話すことがないらしい」
「ないなんてことないでしょ。ね?」
「俺は……兄さんみたいに上手く話せないから。退屈な話題しか思い浮かばないし、会話も多分続かない」
「難しく考え過ぎ。親子の会話なんてなんでもいいんだよ。その日あったこととかやりたいこととか欲しいもののこととか、後半はタクにはちょっとハードル高い?」
「杜松の言う通りだ、昔のように思うまま話してくれればいい」
思うまま――そう言われ、巧人は浮かんでくる言葉を
「…………。学校、兄さんがいるから毎日楽しいんだ。今朝も保健室に顔を出したら堂々と着替えててびっくりした」
何を話してもいいと言った手前突っ込むことができずあたふたする誠弥を、父親は不審そうに見ている。その視線に誠弥もすぐに気付き「いやぁ……ははは」と視線を外した。
「そんなところもあるが、俺が悩んでたらすぐに気付いてくれて相談に乗ってくれて解決に導いてくれたんだ」
「そうか。やはり君には敵わないな」
「えっ、先生?」
「昔から巧人を一番笑わせられたのは杜松だった。巧人が一番心を開いていたのも杜松だった。学生は他にもいたのに君にだけよく懐いていて、君は心を掴むのが上手いのだろう」
「そんなことないよ。でも、相手のことをよく見ようって意識してたのはあるかも。俺は俺でいっぱい失敗してきてたから、ずっとただ機嫌をとるだけみたいな接し方じゃだめだなって思って。最初からそんなこと考えてはなかったけどね」
さっき電車で話してくれたことだ。巧人は誠弥の過去の話を思い出す。出逢った頃と再会した後の誠弥を頭の中で並べ比べてみるが違いは分からなかった。
「杜松もそんなことを考えていたのだな。だが、巧人は君と出逢ってすぐの頃から口を開けば君のことしか話さなかった。それは今でも変わらないらしい」
「今ならきっと俺のことじゃない話もしてくれるはずだよ」
「どういうことだ」
「それはちゃんと息子の口から聞いてよ」
誠弥から微笑みを向けられ巧人は視線を父親の方へ遣った。何かを期待するような眼差しが刺さる。
「……兄さんがいるから楽しい、だがそれだけじゃないんだ。俺、友達ができて……秋って名前で俺とは正反対に足が早くて元気で明るい奴なんだ」
「巧人に友達が……そうか、そうか……」
中学生の頃までは数少ない登校した日でも暗い顔をしていることが多かった巧人は、学校での様子を尋ねても「何もなかった」とだけで『友達』などという言葉が出てくることはなかった。父親自身も人付き合いが得意ではなかった手前口出しはできなかったが、いつも強がってはいても寂しがり屋の息子が心配で仕方なかった。だからか、巧人の報告が嬉しくて堪らず静かに噛み締めている。
「全部兄さんのおかげなんだ。どう接すればいいか分からなくなって今日相談したときも親身になって考えてくれたから仲直りできた。兄さんがいなかったら俺に友達なんてできなかったと思う」
「大袈裟だなぁ。秋はタクと友達になりたがってたんだから俺がいてもいなくても二人は友達になってたと思うよ」
「何であれ、杜松がいたから巧人は今楽しいと思えているのだな。少なくともここに杜松がいなければ巧人からこんなに嬉しい知らせを聞くことはなかっただろう。私からも君に感謝を伝えたい、ありがとう」
父親は椅子に座っていながら丁寧な礼をした。教授が元教え子に頭を下げるその光景は一見向けられた誠弥にさえ不穏さを感じさせるが、その分深く心を震わせた。
「これからも巧人のことをよろしく頼む」
「先生からの頼みとかめちゃくちゃプレッシャーだけど……任せといてよ!」
「随分と頼もしくなったものだ。巧人、今度友人の顔も見せてくれ」
「ああ。機会を見て会わせる」
友人を紹介するという未体験の予定にお互いそわそわしだす。どんな風に紹介すればいいのかどんな風に接すればいいのか、後に全く必要がないと気付かされる心配を思い付く限りにしていた。
「それじゃあ、あんまり長居するのも多忙極める院長様の邪魔になるだろうし、そろそろ帰るよ。タクはどうする?」
「俺も帰る。父さんは今日も帰り遅いのか?」
「今日はいつもよりは遅くならない予定だ」
「タク良かったね、今日は家族三人で団らんできるよ」
「……ああ」
「また遊びにくるね」と軽い調子で手を振り部屋を去る誠弥と「帰り、待ってる」と素っ気なくも温かいことを言って誠弥の後をついて出ていく巧人を、父親は扉が閉じられるまでずっと見守る。その顔は、間違いなく笑顔だった。
* * *
エントランスへ向かって歩いていると、誠弥は不意に立ち止まった。
「どうかしたか?」
「いや、タクの両親二人ともからタクのことよろしくお願いされちゃったなぁって。結婚前に相手のご両親へ挨拶するときってこんな気分なのかな」
「!」
言われてみればそうだ、まるで交際相手を両親に紹介したみたいになっているではないか。思い返し巧人は顔を真っ赤にさせた。
(け……けけ、結婚…………?)
付き合うことはおろか想いを伝えることすらできていないのにいきなり何段もステップを飛ばした先のことを考えさせられ、巧人の頭は追い付かず処理落ちしてしまいそうだ。
「周りが結婚ラッシュに入っても俺は正直あんまり考えられないんだよね。でも、もしタクが女の子だったらそんな風に思えたのかな?」
誠弥は「自分から止めておいて蒸し返すみたいになってごめんね」と付け加え、隣を歩く巧人の顔を見た。紅潮しながら呆然として手と足を同時に前に出している。当然誠弥の言葉など届いているはずもなく、だんだん歩幅が合わなくなるのを肩を掴んで引き止めた。
「タク? 大丈夫?」
「……! に、兄さん……。そ、その、結婚……とか言うから……」
「あぁ。意識、しちゃった?」
「な……っ」
熱くなる身体と働かない頭が誠弥と目が合ったままである事実の認識を
「タクの歳なら結婚なんてまだまだ先のことだと思うけど、ちょうどちょっと気になりだしてどきどきしちゃう頃かな?」
「……俺は別に……そんなこと、考えて、ない……。に、兄さんは、考えてるのか……?」
「あ〜、話聞いてなかったな〜? 俺は全然考えてないけど、タクがもし女の子だったら考えたかもしれないねって。ただの想像だから気にしなくていいよ」
「え……」
誠弥が何を言っているのかすぐには分からず固まる。少しして意味を理解しても身体が動くことはなく、今度は全身から熱と共に力まで抜けていく感覚がした。
さっきは女になりたいなんて考えるなと言っていたのに、そんなことあんまりではないか。性別が違うだけでこんなにもチャンスの数が違うだなんてひどすぎる、辛すぎる。
「だけど、そうなったら秋とタクを取り合うことになったりして。秋は手強いなぁ……」
誠弥の語る空想は巧人の耳を通り抜けるだけで少しも頭には入ってこなかった。
「……俺が……」
「ん?」
「……俺が俺のままでも、同じこと、言ってよ……」
気付けば心の内をさらけ出していた。誠弥以外にも人がいるエントランスで、絞り出したような声だったのが唯一の救いだった。周囲の人間たちが何事もなく歩いていく中、巧人と誠弥だけが立ち尽くしている。
目の前にいる誠弥はじっと巧人を見ているが、次の瞬間に何をして何を言ってくるのか巧人には分かりきっていた。きっと、何もかもどうでもよくなってしまうくらい強く抱き締めてくれる。そして〝兄〟だと言うんだ。嬉しいのにそれが一番辛くて、歯を食いしばり鞄の持ち手を両手で強く握りしめた。そんなことは聞きたくない、逃げ出したい――そう思ったときには既に巧人は病院を飛び出し走っていた。
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