#20 君は君のままで

 駅の改札を出てすぐその白い建物は見えた。盟都大学附属病院。大学の医学部と併設していて、その敷地はターミナル駅の商業ビルをしのぐ。

 目の前にあるように見えて十数分歩かなければ入口に辿り着かない。電車で来るのは初めてだった巧人は大した距離ではなくても思いのほか歩くことに足が重くなるのを感じ、だんだん誠弥に置いていかれてしまう。


「タク大丈夫?」


 いつの間にか巧人が隣から姿を消していることに気付き、誠弥は立ち止まり振り返った。

「ああ、このくらいなんでもない」

「これだけおっきい建物見えてたらすぐに着くと錯覚さっかくしちゃうよね。俺も初めて来たときは想像してた以上に遠くてびっくりした記憶ある」

「父さんの車でしか来たことなかったからなかなか入口が見えなくて、正直精神的に疲れてくる。だが、体力は問題ない」

「そう? しんどかったら言ってね、荷物くらいは持つから」

「ああ」


 それから更に数分歩き、二人は敷地に足を踏み入れる。病院内に入り、院内図を見ることも迷うこともなく巧人は広いロビーを抜け廊下を突き進んでいく。誠弥はその後ろをついて行き、案内板を見て薬剤部へ向かっていることを確認した。


「母さん」


 薬剤部の受付の前できょろきょろとし、母親の姿を見つけ巧人は声をかけた。近付いてくる女性は巧人にそっくりの顔立ちの美人だ。


「巧人、早かったわね。あら、杜松くん?」

「お久しぶりです。巧人くんが病院に行くとうかがったので久々に先生にご挨拶したいと思いついて来させてもらいました」


 誠弥がすらすらと話す聞き慣れない敬語と呼び方に巧人はくすぐったい気持ちになった。親しい人間同士が礼儀とはいえ他人行儀でいるとどう振る舞えばいいのか分からなくなる。


「そうなのね。主人……いやここでは院長と言った方が良いわね、今の時間なら診察室にいるはずよ」

「分かりました」

「巧人、はいこれ薬」

「ありがとう」

「母さん今日はもうすぐ退勤だから、帰りが遅くなるなら連絡してね」

「ああ。あ、母さん。……今まで心配かけてごめん、それと……ありがとう」


 突然の息子からの謝罪と感謝の言葉に母親は目を丸くさせた。その顔も息子によく似ている。


「急にどうしたの?」

「俺、中学までは友達なんていなくてもいいって思ってて、母さんたちの気持ちなんて考えたこともなかったんだ。だが、今朝友達の話をしたとき、母さんすごく喜んでくれただろ? そこで初めて今までずっと心配かけてたことに気付いて……」


 誠弥や他の人がいる前で母親と話すだけで照れくさくなってしまい、巧人は薬が入った紙の袋をくしゃりと握った。調剤室から親子の様子を微笑ましく見守る薬剤師たちの視線が気になって仕方がない。


「そういうことね。いいのよ、巧人が誰かと一緒に過ごすことの素晴らしさに気付いてくれたなら。それで、そのお友達とのわだかまりは解消したの?」

「ああ、兄さんのおかげでな」

「それは良かった。杜松くん、いつもありがとうね」

「いえいえ! 俺は何もしてませんから」

「そんなことないわ。いつも支えてもらってるんだって、巧人が話してるの聞いたらよく伝わってくるもの」


 母親はそう言って誠弥に微笑む。巧人と同じ顔で巧人はそう見せない笑顔に、思わずどきっとしてしまう。


「これからも巧人のこと、よろしくお願いしてもいいかしら?」

「もちろん!」


 それは、ともすれば未来の約束で。これから先もずっと一緒にいてくれる――巧人は衆目しゅうもくも気にせずに誠弥に抱きつきたかった。


「良かったわね、巧人」

「あ、ああ……。それじゃまたあとで」


 照れてしまっている顔を見られまいと、巧人はくるりと母親から背を向け足早にその場を去っていく。一方の誠弥は丁寧に一礼してから巧人の後を追いかける。微笑みながら二人を見送っていると「槙野さん」と薬剤師から呼ばれ母親は部屋の奥へと消えていった。


「タクって本当にお母さんに似てるよね。お母さんが笑ったときタクが笑ったらこんなに素敵な顔するのかなって見とれそうになっちゃったよ」

「……生徒の母親に見とれるな」

「いやな言い方。冗談じゃん、俺はタクの笑ってる顔が見たいだけだよ」

「…………。とびきり楽しいことか嬉しいことでもあれば俺も笑えるんだろうな」

「んー、簡単そうに思えてそれが意外に難しい。にしても、タクが女の子だったらあんな感じなのかな」


 誠弥の何気ない言葉に、巧人は今朝覚めやらぬ頭で考えていたことを思い出し口にした。


「もし俺が女だったらどうなってたと思う? 秋のこととか兄さんとの関係も今とは違ったりしたと思う?」

「タクが女の子だったらかぁ……。秋ならうじうじ悩まないでタクを助けたタイミングですぐに告白してそう、どうなるかはタク次第だね。俺は前にも言ったけど、タクが男の子でも女の子でも変わらずめいっぱい可愛がる。でも、女の子だったら今はもう年頃であんまり親しくしてると避けられちゃいそう。友達も妹がタクくらいの歳のときは口も利いてくれなかったって言ってたし……それはいやだなぁ。まあそれもタク次第なんだけどね」


 思春期になると必要以上に男女であることを意識して距離を置いてしまうものである。しかし巧人はその意識を既に強すぎるくらいにしてしまっていて、それでもなお距離を置くことなく接し続けている。ならば仮に女であっても変わらないのではないのだろうか、そう思うとどうにもならない思いが無意識に飛び出した。


「……女に生まれて来られたら良かったのに」

「こら、そんなこと言っちゃだめだよ」


 誠弥は俯きがちに呟いた巧人の一歩前に立ち、おでこに人差し指を突き当て屈み目線を合わせた。


「お母さんもお父さんも悲しむ。せっかく感謝の気持ちを伝えようとしてるんだから、自分を否定するようなことは絶対に言っちゃだめ」

「だが、俺は兄さんや秋みたいに身長も高くないし力も弱いし全然男らしくない。秋にはずっと女だと勘違いさせているし、兄さんだって俺のこと可愛いとしか言ってくれない……。それならいっそ女でいた方が良いってくらい思うだろ」

「ごめんね、男の子に可愛いは良くなかったよね」

「その、いや……とかじゃないし、兄さんからなら寧ろ嬉し……じゃなくて……」


 もしも女であれば、今よりずっと壁は薄く低くなり悩むこともなく誠弥を愛し想い続けていることを口に出せるのに。そんな思いで発したなんてとても言えない。うっかり口を滑らせそうになったところをどもって誤魔化した。


「うーん……そうだね、タクがもし女の子だったらきっと俺の方から距離置いてるよ。本当の兄妹じゃないならそのあたりの節度はちゃんとわきまえないと」


 それだと今の方が近くにいられるということになるではないか。まるで誘導されているようだ。下らない妄想を投げ捨てたくなる誠弥の言葉に、自分の愚かさを思い知らされる。


「……やっぱり、男で良かった」

「うん、タクはタクのままが一番だよ。男同士だからこそ気軽に話せることも多いし、なんにも考えずに出かけられたりするし」


 巧人には全く肯定できなかったが、その点に関しては男であろうと女であろうと変わらないだろうと思い「そうだな」と返した。

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