#19 支え合い

「……そんなことがあって、彼女とはそれっきり。俺は精神的に参っちゃってしばらく引き籠もってて、タクから会いたいって言われたときは取りつくろうの大変だったなぁ……」

「……ごめん、何も知らなくて……」

「タクは悪くないよ。それに、タクの顔見たら少し楽になったんだ」

「そう、なのか……」


 手を握りながら微笑む誠弥は少し弱っているように見え、まるで保健室の先生と生徒という関係が逆転していた。普段いろんな生徒の悩みや相談を聞いて励ましたりアドバイスをあげている、いつも頼りにしている〝兄〟の役に立てている事実が巧人には誇らしく思え、暇になっていた右手をさらに誠弥の左手に重ねた。


「右手も貸してくれるんだ、ありがと」

「……このくらいなんでもない。辛いことを話してくれてるんだ、俺にできることならなんでもする」

「それじゃ、もう少しだけ付き合ってて」

「ああ」


 誠弥はそっと寄りかかり巧人を心のり所とする。左肩に体温を感じどぎまぎしてしまうが、悟られないようにただ支えとなることに徹した。


「ずっと引き籠もり続けて時間が経ったらある程度は立ち直れたつもりでいたんだけど、刃物持つ度そのときのこと思い出して過呼吸になったり吐き気がしたりしてね。トラウマってやつ。そんなだからメスを持つことすらできなくて、医者になるのを諦めざるを得なくなって大学も辞めたってわけ。あのときは彼女も夢も一気になくしてどん底に沈んでたな……」


 誠弥はなるべく明るい声色で話そうとしているが、どうしてもほころびが見え隠れする。巧人はそれを見逃すことなく、無理をさせまいと誠弥の右の手の甲を撫でた。すると誠弥は「大丈夫だよ」と囁くように言った。


「生きる希望をまるで見失って、俺はこのまま廃人みたいになるのかなって思ってた。そんなときにタクのお父さんから連絡があってタクと再会した。大事な〝弟〟のことすら考えられなくなってた自分がいることにそのとき初めて気付いて目が覚めたんだ。タクの顔見たら、やっぱり人を助けられるような存在になりたいって思いが強くなってね。でもそれは医者じゃなくても叶えられるんじゃないかって思って、いろいろ考えて別の大学に編入して養護教諭になる道に進んだんだ」

「夢を諦めたわけじゃなかったんだな」


 巧人の何気ない言葉に誠弥は伏し目がちだった視線を上げ、巧人の顔を見た。


「そっか……そっか、そうだね。俺は医者になることは諦めたけど夢は諦めてなかったんだ。ありがと、タクのおかげでようやくそのことに気付けたよ。やっぱり、今の俺がいるのは間違いなくタクのおかげだね」


 誠弥は巧人から離れ姿勢を正す。そして巧人の両手に挟まれていた左手を引き抜き、今度は巧人の両手を大きな手で優しく包み込んだ。


「そんなこと……いや、そうだと良いな。俺はできないことも多いし頼りないと思う、それでも兄さんの役に立てるなら嬉しい」


 誠弥のことを思うなら、誠弥の為に一生懸命になるべきだ。過去の話を聞き巧人はより一層そう思うようになった。誠弥に愛されないなら死んだってどうなったって構わない。そんな風に思い自分の望みだけを考えていれば、いずれ誠弥の彼女だった人のようになってしまいそうで恐ろしくなったのだ。


「みんなできないことくらいあるよ。俺はそんなことがあったからいまだに刃物と、それから女の人と付き合うのが怖くて仕方ないんだ」


 前者は保健室にハサミやカッターナイフが置いていなかったことで合点がてんがいったが、後者に巧人は目を丸くしてしまう。


「え。じゃあ、あの人とは何もないのか……?」

「有沢先生? ないない、なんにもないよ。本当にただ同期ってだけ。タク、あの人なんて言う割によく気にしてるよね。あ、タクもしかして有沢先生のこと気になってたりする? 有沢先生美人だもんね」


 誠弥は「分かるよ」と何度も頷く。どうしてそうなるのか、穏やかな笑みと共に繰り返しその名前を口に出される度胸がちくちくと痛んだ。


「は? そんなわけないだろ。何かと構ってくるし、兄さんと親しげだから嫌いだ」

「気にかけてくれてるのにそれはひどいんじゃない? 俺がよく話すのも同期だから立場は違えどぶつかる壁が似ててお互いに相談しやすいからだし、タクが嫌う理由はないと思うけど」

「……嫌いなものは嫌いだ。それに、兄さんがなんとも思ってなくても向こうが兄さんを好きだったらどうするんだ」

「えっ、それは……困っちゃうね」


 眉をハの字に下げて笑う誠弥の心理が読めず、巧人は胸がざわつく。

 それは嬉しくて困るのか、面倒だから困るのか。どちらかで意味は大きく変わる。トラウマを抱えているとはいえ、全ての女性が彼女だった人のようでないことを当然誠弥は分かっているはずだ。さらに、有沢瑞樹という人はそういったタイプから最も遠いところにいるような明るく前向きで社交的な人物だ。トラウマなんてさっさと克服してどうにかなってしまうのではないか。誠弥の笑顔が遠ざかっていくようで怖かった。


「って、そんなことあるわけないよ。有沢先生、教員も生徒も関係なく誰とでもすぐ打ち解けられる人だから、俺とだけ特別親しいってわけでもないし」

「……だったら、兄さんと楽しそうに話すな。気安く名前を口にするな、近付くな……」


 巧人は誰に言うわけでもなく、視線を落としぶつぶつと呟く。学生街の最寄駅で乗り込んでくる乗客の波にその言葉は消されていった。


「俺が他の誰かと仲良くしてると寂しい?」

「べっ、別に……」

「そう? 昔は俺が友達と一緒にいるとこ見て寂しそうな顔してたのに。まあ、そのときでも寂しいなんて口にはしなかったか」

「兄さんには兄さんの交友関係があるんだ、寂しいなんて言うのはわがままだろ。それに、俺にはもう友達がいる」

(そうだ。だから、そんなこと思うな……)


 〝兄〟しかいないのは今や昔の話だ。すっかり元の温もりを取り戻した誠弥の大きな手に包まれていた両手を離し、巧人は「次、降りるぞ」と一足先に立ち上がった。


「分かってるよ、これでも一応は盟大生だったんだからね」


 停車し扉が開く。誠弥は吊り革に掴まり並ぶ人たちの間を縫い、巧人の後ろを追って下車した。

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