#18 知らない傷

 大粒の雨が窓を叩きつけるように降っている夕方過ぎ。誠弥は渡されていた合鍵を使いドアを開け「遅れてごめんね」と声をかける。傘だけでは雨をしのぎきれず濡れたままで部屋に入るわけにもいかない。玄関先で「タオル貸してくれるかな?」と言っても返事はなかった。奥の部屋にいて聞こえていないのかと思い、断りを入れ洗面所からタオルを借り髪や身体にしたたる水分を軽く拭き取りながら部屋へと続く短い廊下を進む。


「いやぁ、雨すごいね。連絡したけど電車止まってて……え」


 奥の部屋の扉を開けると、ぺたりと座り込みうずくまっている小さな背中が見えた。声を聞き振り返った彼女の姿を見て誠弥は青ざめ持っていたタオルを落とした。


「あ……誠弥くん……」


 か細い声、細めた目の下には見てはっきり分かるくらい濃いくまができている。いつも小綺麗にしているのに長い髪はぼさぼさで、見回すと室内も散らかっている。

 そして何より誠弥がぞっとしたのは、彼女の右手に握られたカッターナイフと刃先に付いた血と左手首に真っ直ぐ引かれた紅い傷だった。


「どうしたの⁉ 手滑らせて切っちゃった?」


 そんなわけないと分かっていながら、そうであってほしいと願うように誠弥は彼女に駆け寄りそっと肩を抱く。落としてしまったタオルを手に取り咄嗟に彼女の傷口に巻き付けたのは、単に止血だけが目的ではなかった。


「ううん……違うよ」

「じゃあ、なんで……」

「私……ずっと、寂しくて……。今日も、時間になっても誠弥くん、来ないから……」

「それは電車止まってたってメッセージも入れて……」

「関係ないよ……!」


 気弱だった彼女から聞いたこともなかった部屋中に響く大きな声に誠弥は圧倒され言葉を失う。彼女の腕にタオルを結びつけていた手から力が抜けた。


「最近ずっと勉強ばっかりで、私のことなんてどうでもよくなったんでしょ……?」

「そんなことない、どうでもいいわけないじゃん!」

「だったら、もっと私を見てよ……。私、寂しくて苦しくて……。だから……もう、どうなってもいいかなって……」

「だからってこんな自分を傷付けるような真似……」

「こうでもしないと誠弥くん、私のこと見てくれないから……」

「会う時間をなかなか作れなかったのは全部俺が悪い。でも、こんなことしたって何も変わらないよ」

「そっか……。どうあっても誠弥くんには夢があって、それが一番大事で、私は必要ないんだ……」

「必要ないなんて言ってないよ。俺はそんなに器用じゃないからどうしても勉強でいっぱいになっちゃうけど、必要ないなんてそんなこと絶対にない」


 それ以上に何の言い訳もできず誠弥は、彼女からカッターナイフを取り上げタオルを巻き付けていた細い腕を見る。幸いにも傷は浅かったようで既に血は止まっていて、ほっと胸を撫で下ろした。


「良かった、止血はできてる。焦っちゃって忘れてたけど、ちゃんと消毒しておかないとね。さ、手当てするからこっち来て」


 誠弥は脱力した彼女の身体を支え洗面所まで連れて行く。「少し染みると思うけど我慢してね」と言うと傷口を冷水で洗い流した。そして「救急セットどこかな?」と尋ねるが彼女は返事の代わりにボソリと口を開いた。


「……誠弥くんは、こんなときでも冷静なんだね」

「傷は早く処置した方が良いからね」

「……やっぱり、お医者さんなんだ。私は誠弥くんの中の一番には、どうしたってなれない……。じゃあ……もう……」


 部屋に戻る途中の廊下でふいに彼女は立ち止まり、振り返った。奥の部屋の明かりが差し込み、彼女の輪郭りんかくをぼやかし逆光が彼女を暗く陰にする。


「誠弥くん、お医者さんになる勉強してるなら、メスの使い方とか分かるよね……?」

「え、それはまあ……。でも、どうしてそんなこと……」

「誠弥くん……切って?」


 その瞬間、窓の外に稲妻が走った。近くに落ちたようで停電し家中が薄暗さに包まれる。


「何、言って……」

「自分じゃ怖くて上手く切れなかったから……誠弥くんに切ってほしいの。カッター、誠弥君が持ってるよね?」


 誠弥の左手には彼女から取り上げたまま手放す隙を失った刃の出たカッターナイフが握られていた。慌てて手のひらを開こうとするが、それは彼女の手にはばまれた。上から握る力はひ弱なはずなのに、抗えない。


「すごく震えてる……。お医者さんになるような人でも怖いんだ」

「それとこれとは、全然違う……」

「同じだよ、助けるって意味ではね。それとも誠弥くんは、私の心は傷付けられたのに身体に傷は付けられないとでも言うの? こっちは私からお願いしてるのに……」


 彼女の頼みを聞いても聞かなくても彼女を傷付けることになってしまい八方塞がりで誠弥は途方に暮れた。


「見える傷は手当てしてくれるのに、見えない傷は手当てしてくれないのも、お医者さんって感じがして、いや……」

「や、やめ……」


 誠弥の意思に反して鋭利な刃先はどんどん彼女の白くて細い手首へと向かっていく。ご丁寧に構えるように彼女の腕を支えている自分の右手を振り払いたいのに、恐怖に震えるだけで動かせない。


「駄目だよ……。こんなことしてどうするの……?」

「私が傷付くのは私の勝手なんでしょ? だからそこに誠弥くんを巻き込みたいの、私をこんな気持ちにさせたのは誠弥くんだって分からせてあげたいの」

「だったら、俺と別れればいいだけじゃ……」

「そんなのいや。だって私、誠弥くんのことが大好きだから……誠弥くんを世界で一番愛してるから……」


 カッターナイフの刃先が柔らかな肌に触れる感覚が誠弥の左手に伝わってきて、背筋が凍るように震えが全身に広がった。しかし、少しでも手を動かせば刃は彼女の手首を切り裂いてしまう。なんとか堪えて今の位置を保とうと誠弥は出せる力の全てをそこに注いだ。


「誠弥くんが私を愛してくれなくても、誠弥くんの付けてくれた傷が私の身体に残り続けるだけでいいの」

「分かんない、何言ってるのか全然分かんないよ……」

「分からなくてもいいよ。これは私の望みだから……誠弥くんに分かってもらえなくてもいい。だから、何も言わずに切ってくれたらそれでいいの」

「……そんなこと、俺には……できない……」


 誠弥は必死に首を横に振った。雷の音や光よりも僅かな振動に敏感になってしまう。


「私のお願い、聞いてくれないんだ。やっぱり、私のことなんてどうでもいいんだ……」

「なんでそうなるの……」

「ほら、否定もしてくれない……。もう分かった、ほんとは分かってたんだよ……私は、誠弥くんの夢の邪魔でしかないんだって……」

「邪魔だなんて誤解だよ」

「何が誤解なの」

「いつも応援してくれて嬉しいし、すごくはげみになってる」

「……それはきっと、私じゃなくてもいいことなんだよ」

「なんで……」

「だって誠弥くん、私の名前呼んでくれないんだもん」


 たったそれだけ、それだけで誠弥は全て分かってしまった。大事になんてできていなかった、彼女はでしかなかった。姿形が変わろうと他の誰かになろうと誠弥の中では何も変わらないのだ。

 〝彼女〟自身を見たことがあっただろうか、ふと顔を見てみるが暗闇に隠されよく見えない。目の形はたれ目だったかつり目だったか、まつ毛の長さは? 鼻は高かっただろうか、唇の色は……。何一つ明確に思い出せない。それもそのはずだった、目の前にいる彼女の顔を意識して見たことなどなかった。思い出せないのではなく初めから知らなかったのだ。

 誠弥は唖然あぜんとし全身から力を失い、彼女に握られた主導権と重力に逆らえないまま鋭利な刃を彼女の手首に滑らせてしまう。人の身体を切った、その確かな感触を知ってしまった。


「あぁ……ああぁあぁぁあああ」


 言葉にしようもない感情をただ吐き出し、誠弥は壊れたロボットのようにうなり膝から崩れ落ちた。手に生暖かいものが伝ってきて鉄の匂いが鼻を刺した途端に、視界が色付いていく。電気が復旧したらしい。がたがたと震える手が真っ赤に染まっているのをの当たりにし、酸素を上手く脳に届けられなくなる。次第に見えるものがかすゆがんでいった。

 おずおずと頭を上げると、手首から血を流し青白い顔色をして笑っている彼女が見えた。はっきりとしない視界で捉えた彼女の顔が焼き付く。長いまつ毛と優しげな目元、薄い唇を僅かに上げ微笑む姿が不気味にも美しい。意識さえ曖昧あいまいになる中、誠弥の記憶に残っていたのはその顔と弱く抱き締められた彼女の細い腕の感触だけだった。


「誠弥くん、ありがと……大好き……」

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