#17 二兎を追う者は一兎をも得ず

 巧人と誠弥は電車が来るのをホームのベンチに座って待っていた。


「失敗の話ついでに、昔のこと謝らせてくれる?」

「?」


 隣に座り向かいのホームや線路、ときどき空を見ていたかと思えば突然誠弥はそんなことを口にした。巧人は首を傾げる。


「先生に会う前にタクにはちゃんと話しておきたくてさ。……あのときはごめんね」


 何の脈絡もなく謝罪の言葉を告げ頭を下げられる。もちろん何かされた覚えなどない。受け取るべきなのかも分からない謝罪を前に巧人はどうしたものかと腕を組んだ。


「だから何がだ」

「突然いなくなったりして」

「ああ……」


 その言葉だけで誠弥の謝罪の意味を巧人は理解した。五年前の話をしたいらしい。


「大学を辞めたと聞いたときは驚いたが、兄さんにも何か事情があったんだろ?」


 誠弥は盟都大学を中退している。ある日突然、巧人の父親の研究室に手紙だけを置いて姿を消したのだ。お互いのわだかまりこそすぐに解消したものの「お兄さんは?」と毎日のように父親に尋ねていた巧人は、その報告を聞いてもう二度と誠弥には会えないのだと子供ながらに深い悲しみに包まれた。


――……だったら、お医者さんになんてならなかったらいいのに……


 そんなことを言ってしまった自分のせいだ。迷惑ばかりかけたから嫌われてしまったんだ。そう思い込み、しばらくの間部屋にこもりがちになり生気もだんだんなくなっていった。


「まあ、ね……。でも、タクにはすごく寂しい思いさせちゃったみたいだし……」

「そりゃいきなり会えなくなるなんて子供なら受け入れられないだろ、今でも無理だ。それより俺は兄さんに一人で悩んでほしくなかった。兄さんにとって俺は今でもまだ子供かもしれないが、それでも少しは頼ってほしい。……何もできないのは、いやだ」


 当時のことを誠弥は今になってもあまり詳しく話そうとはしてくれない。医者になるという夢を諦め大学を辞めてしまう程の事情をおいそれと話せないことくらいは幼い頃の巧人でも理解できていたが、一人で抱え込むくらいなら話してほしいと心ではずっと思っていた。ただ謝り申し訳なさそうな顔だけをする誠弥が抱え続けている見せたくないところが気になって仕方ない。


「うん、タクはもう子供じゃないもんね。だからあのときのこと、全部話すよ。もしかしてずっと気にしてくれてた?」

「それは……まあ、何があったのかは気になってた。いなくなる少し前から様子が変だとは感じてたんだ」

「そっかぁ、あんな小さかったタクでも何か察してたんだ。せっかくタクも悩み事教えてくれたんだし、俺だけ黙ってるのはずるいよね」


 ホームにアナウンスが流れ電車がやってくる、各駅停車。病院の最寄り駅には快速電車も停車するが構わず乗り込む。学生の帰宅ラッシュの時間帯であるにも関わらず車内は空いていて余裕で座ることができた。

 電車の中であることを配慮し誠弥は声のボリュームを落として続きを話し始めた。


「今から話すこと聞いて、女の子に偏見持たないでね」

「……やっぱりそういう話なんだな」

「そこまで気付いてたの?」

「急に彼女の話をしなくなったからな」

「はは……俺って分かりやすいな。お察しの通り、そのとき付き合ってた彼女と別れたんだよね。というか俺、小学生相手に惚気のろけてたんだ……」


 思い出すと急に恥ずかしさが募ってきた誠弥は頭を搔きへにゃりと笑った。


「惚気というか、その日何があったとかそういう何気ない話がほとんどだったし変な話も特にしてなかったはずだから問題ないだろ。俺から聞きたがることも多かったと思うしいつも楽しそうだなって思ってたから」

「タクのいないとこであった楽しいことの話なんて聞いてもつまんなかったでしょ?」

「そんなことない。兄さんが楽しそうなのを見てると俺も楽しかった。それになんでも話してくれるんだって思って嬉しいのもあったな。だから、急に元気がなくなったとき何も言ってくれなかったのは……その、寂しかった……」


 俯きがちに何も映さない誠弥の目を見たとき、今までなんでもなかった無言の時間が巧人には初めて辛いと感じられた。楽しい話をしてくれない、でも自分から話せることもない。「大丈夫?」と訊いても「大丈夫だよ」とだけ返して笑うその顔が嘘で塗り固められているような気がして、誠弥のことが分からなくなっていった。心の距離を感じ始めていたところに訪れた突然の別れは、少年だった巧人の心に深い傷をつけた。


(どこにも行かないって言ったのに……)


「良いことだけ話していやなことは隠してたってことか。簡単に子供に話していいようなことじゃないとはいえ、言葉を濁してでも説明するべきだったね」

「大丈夫じゃないならそうだと言ってくれるだけで良かった。少なくともあの頃の俺に兄さんを助けられるような力はなかったから」

「そんなことないよ。先生から連絡あって数ヶ月ぶりに再会したとき、タクは泣いて俺に抱きついてきてくれたでしょ。それがすっごく嬉しくてさ、会わなかった間もずっと塞ぎ込んでたのに一気に救われた気分になったんだよ」

「俺は……ただ兄さんに会いたかっただけで、そんなつもりは全然なかった。むしろ、また会いに来てくれて俺の方が救われたくらいだ。兄さんと会ってない間、俺は辛くてどうにかなりそうだった」


 会えない時間が愛を育てるとはよく言うが、巧人にとっては実際にそうであった。


 ただ会えなくて寂しいだけではない、会って抱き締めて温もりを感じたい。声を聞きたい、顔を見たい、大嫌いなはずの白衣が好きになってしまう柔軟剤の香りをかぎたい。小さな身体が誠弥を求め誠弥のことでいっぱいになるのを感じ、熱風邪を引いたときのような苦しさに襲われる。

 それが恋ではないのかと気付いたのは、少し時間が経ってからだった。ご飯も喉を通らない日が続いていたとき、昔よく意味も理解しないまま読んでいた恋物語をもう一度読み返していたときだった。主人公たちのもやつきやじれったさ、些細なことで揺れ動く気持ちが手に取るように分かったのだ。


(僕と同じだ……)


 ただ一つ違ったのは、本の中の青年はその想いを女性に向けていた。一般的に恋心とは異性に向けて抱くものだと巧人は思っていたが、誠弥はで男性である。それでは今抱いているこの気持ちは恋心ではないのだろうか。だとすれば一体何なのだろう、その疑問は僅か十歳の少年にはあまりに難解なものであった。

 それでも数ヶ月ぶりに誠弥の姿を前にし涙を零した瞬間、たとえこの気持ちに明確な名前がなくてもこれは巧人の中では〝恋〟なのだとはっきり定義付けようと心に決めたのだった。


「たしかにずっと体調崩して学校にも行けない日が続いてたって聞いたし、すごくやつれてたもんね」

「それはお互い様だろ……。だが、失恋ってそこまで引きずるものなんだな。というか、彼女と別れたってだけで大学辞めたのか?」

「だけって、失恋はめちゃくちゃダメージ大きいんだからね? でも、ただの失恋だったらもっと早く立ち直れたと思う。それまでにも経験はあったし」

「だったらどうして……」

「俺がその子を傷付けたから」


 端的ながら抽象的な答えに巧人は疑問符を禁じ得なかった。フラれたのではなくフったからということだろうか、優しい誠弥ならそういうことも考えられると巧人は思案するが、それと大学中退へ至る経緯が結びつかずに落ちない。


「会う度どんなことがあったかいちいちタクに報告してたくらいだったのに何があったんだって思うよね。仲は良かったんだよ、俺が一方的にそう思ってただけかもしれないけど。俺は彼女の本当の気持ちとか本心で考えてることをちゃんと理解してあげられてなかったんだ」

「人の気持ちなんて何も言われなかったら分からないだろ」

「そうだね、そうかもしれない。もともと大人しくて口数も多い子じゃなかったし。でも、付き合ってる彼女のことくらい分かっていたかったんだよ。なのに俺はあのとき自分の夢に必死で、彼女の『頑張って』をただ鵜呑うのみにしてた」


 そう言ってはかなく笑う裏にあった「寂しいよ」「こっちを見て」という思いに誠弥は到底気付くことはできず、応援してくれているのだから応えなければいけないと更に息巻いていった。


「医者になる為の勉強か、だがそれは片手間にできるようなことじゃないだろ。恋愛と夢、両方とも全力なんて難しすぎる。ないがしろにまではしなくても多少軽んじるのは仕方ないことじゃないのか?」

「もちろん分かってたし、その上で上手くやろうとしたよ。だけど、俺は俺の思っていた以上に自分のことしか考えられてなかったみたい」


 優しい声色がだんだんと弱々しくなっていき、手が震えているのが分かった。表情からも余裕がなくなっているように見え、巧人は誠弥の顔を不安げに見上げた。


「夏休みに勉強が落ち着いたタイミングで二人で会う時間を作ったんだ、彼女の部屋に呼ばれてね。その日は大雨で電車が遅延してて、約束してた時間より少し遅く着いたんだけど……」


 誠弥はとうとう言葉を詰まらせる。背中を丸め俯き、息が浅くなっていった。停車し開いた扉から乗り換え案内のアナウンスが聞こえてくる。


「……兄さん?」

「ご、ごめん……ごめんね……」

「無理に話してくれなくていい」

「いや、大丈夫だよ。ちゃんと話せるから……。でも……手、握っててもいい?」

「……あ、ああ……」


 どきりとしながらも巧人は自分の左手を迎えるように手のひらを上に向けている誠弥の右手に重ねた。その手は冷えきっていて震えがダイレクトに伝わってくる。そして誠弥は巧人の左手を包み込むように自分の左手を置き、両手で一回りも二回りも小さい手を握った。


「……タクの手、あったかい。さっきはあんなに冷たかったのに」


 巧人の手の温もりがかけがえのない大切なものに感じられて握る力が強くなる。大きく深呼吸すると誠弥はおもむろに口を開き話を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る