#14 泣き虫と劣等生
さも自分の席かのように誠弥の椅子に座っていたことを思い出し、巧人は慌てて立ち上がった。そしてそのまま涙をカーディガンの袖口で拭い、部屋を後にしようとする。
「待って。今まだ授業中でしょ、戻りにくいんじゃない?」
「だが、用もないのにここにいても兄さんの仕事の邪魔になる」
「そんなこと気にしなくていいよ。そうだ、何か話したいことない? 他に悩み事とか。なくてもただの雑談でもいいけど、よく週末に二人でいたときみたいにさ。生徒の話や相談を聞くのも先生の仕事だからね」
誠弥は「こっちなら気
「俺から話すことなんて……いつも兄さんが話題を振ってくれてただろ」
「だからこそだよ。タクがどんな話してくれるのか気になる」
「…………。今朝、母さんに友達ができたことを話した。そしたら喜んでくれた」
悩みに悩んだ末に浮かんだことがそれだった。事実をただ報告した素っ気ない小学生の一行日記のようで、誠弥は思わず失笑してしまった。
「……なぜ笑う」
「ごめんごめん。いや、すっごい業務連絡みたいだったから。でも良かったじゃん、お母さんもきっとタクが学校で一人じゃないかずっと心配だったんだよ。もちろんお父さんもね」
「そうなんだろうな。今まで迷惑をかけてたと思うと申し訳ない」
巧人は今朝も抱いた罪悪感を再び口に出し視線を落とす。握り合わせる手に力が入る。
「子供が心配なのはどこの親でも同じだよ。だから申し訳ないなんて思うんじゃなくて、感謝しないと」
「そうだな。ちょうど放課後病院に行くんだ、良い機会だしそのときにでも伝えてみる」
「え、お父さんとこ行くの? 俺も久々に先生に会いたくなってきたなぁ……。ねえ、ついて行ってもいい?」
巧人と誠弥が出逢うきっかけとなった人物と場所。当然思い入れは強く、特に誠弥はノスタルジーな気分になった。
「は? 兄さんは仕事だろ」
「それが、今日は研修があるとかで生徒とほぼ同じ時間に帰れるんだ。だからいいかな?」
「俺が決められることではない気もするが、駄目な理由もないか。……怒られても知らないからな」
「やった。
「もうそんなに経つのか」
誠弥が大学時代を思い返している一方で巧人も過去を振り返る。十歳、誠弥への恋心を自覚し始めた頃だ。
授業中で何の物音もしてこない静けさが追い詰めてくるようで、巧人は息苦しさを感じた。
「…………」
「? どうかした?」
「いや、なんでもない……」
「そう? あ、お父さん元気にしてる?」
「ああ。院長になってからは前にも増して忙しくなったのか、最近は顔を合わさない日の方が多いがな」
最後に父親の顔を見たのはいつだったか思い出す。たしか、一週間程前。それも朝にすれ違った程度で、言葉を交わした日となると思い出すこともできなかった。
「あの怖〜〜い先生が今や県内最大の病院の院長だもんね。いや、あれだけ怖かったからこそかな? 今会ったら何を言われるのか、考えただけでもぞっとしちゃう」
「だったら行くのやめるか?」
「いややめない。俺もそんな偉い人に教わってたこと改めて感謝したいし、久々にいろいろと話もしたいし。せめて怒られない程度の人間になれてたらいいんだけど」
誠弥は頭を掻きながら「自信ないなぁ」と漏らす。学生時代は顔を合わせれば
「俺にはとても兄さんが怒られるようには見えないんだが。父さんからも悪い話は聞いたことがない」
「そりゃあ
巧人の頭に手を置くと、誠弥はそっと撫でてやる。幼かった頃より少し硬くなった髪質を指の腹で確かめる。
「初めて病院で逢った日のこと、覚えてる?」
「ああ、忘れるものか」
「あの頃のタク、ちっちゃくて女の子と間違えちゃったりしてね。タク昔から可愛かったから」
* * *
――八年前、
その日、巧人は朝から体調が優れなかった。そんなときに限って両親は夜遅くまで仕事の予定が埋まっていて、何時に帰宅できるか見通しがつかなかった。
起き上がれば
研究室は診察室と直結している為、病院内にあった。車の窓から白い建物が見えただけでも泣き出してしまいそうになるのに、降りて父親におぶられ中に入っていくと消毒液の独特な匂いと共に恐ろしさが巧人を襲う。堪らず父親の背中に顔を
診察台に座らされるとシーツを強く握り締める。父親は巧人が病院嫌いだとよく知っていたので、少しでも気が楽になるよう小児科からクマのぬいぐるみを借りてきて横に置いてやった。
白衣を身に
そうしていると、診察室の扉をノックする音が聞こえてくる。父親が返事をして現れたのは、白衣を着た明るい茶髪の青年――誠弥だった。
「やっほー、槙野せんせ……って、ん?」
誠弥は教授相手にしては
「騒がしいぞ杜松。どうかしたのか?」
「そのちっちゃい子誰?」
「っ……!」
白衣を着ている=医者=怖いという式が頭の中ででき上がっていた巧人は、誠弥と目が合うと恐怖のあまり固まってしまった。
「ああ、この子は私の息子だ。朝から調子が悪いと言うから連れてきた」
「へぇ、先生の。たしかにちょっと顔色悪い? って、え、この子男の子⁉ 可愛い顔してるから女の子だと思ったよ」
「私には似ず母親に似たからだろうか」
「それはあるかも、先生とは似ても似つかないし。ボク、名前は?」
笑顔でもじっと見つめながら目線の高さを合わせられる。操られるように首の角度だけを変え、後退りもできず巧人は閉じた本をぎゅっと抱き締めた。
「…………っ」
「えーっと?」
「すまない。この子は昔から病気がちで私や母親以外と話す機会があまりなかったからか、ひどく人見知りなんだ。ほら巧人、自己紹介しなさい」
父親に肩を軽く叩かれ、背筋が勝手に伸びる。このまま黙っていたらもっと叱られてしまう、そう思うとそちらも怖くて巧人はどうしたらいいか分からなくなり俯いた。
(どうしよう……。お医者さん、こわい……。名前言ったら、痛いこととか苦しいこととかされちゃうのかな……いつもそうだもんね……。いやだな……でも、言わないとだめだよね……)
ぐるぐると悩み、黙ったままでいてもしょうがないと本をより一層強く抱き締め意を決して口を開いた。
「……ま、まきの、たくと……です……」
「たくとくんね。今いくつ?」
「……八歳、です……」
「おっけー。俺は杜松誠弥、
「えっと……よろしく、お願いします……」
よろしくするつもりは少しもなく、巧人はお辞儀したそのまま俯き続けた。
「よーしよしえらいえらい、ちゃんと自己紹介できたね」
(あれ……?)
名前を言っても歳を言っても想像していたような嫌なことはされず、髪をくしゃくしゃとして頭を撫でられている。何が起こっているのか分からず巧人はきょとんとした。
「先生と違って可愛らしい良い子じゃん」
「何故私と比べる? 私に可愛らしさは必要ない。それより杜松、何か用があるのではないのか?」
「それは……。次の先生の講義で使う教科書持ってくるの忘れちゃって、へへ……」
「はあ、またか。そういうことなら次の講義はレジュメを配るから問題ない」
「良かった〜。雷落とされる覚悟でいたからほっとしたよ」
「それなら、雷の代わりに少し頼まれ事をしてくれないか?」
「え、何? 怖いんですけど」
「身構えることではない。これから
自分をよそに親しげに話す父親と誠弥を巧人はただ傍観しているだけだったが、突然名前を出されびくっとし父親の方へ不安げな視線を向けた。
「こんなことを学生に頼むべきではないと思ったのだが、やはり一人にしておくのは心配でな。会議に連れて行くわけにもいかない、これは教授としてではなく父親としての頼みだと思ってくれ」
「なーんだ、そんなことかぁ。お
「助かる。それでは、巧人のことよろしく頼む。巧人、父さんしばらく出てくるからな」
「うん……いってらっしゃい……」
席を立ち診察室を後にする父親を寂しそうに目で追い、扉を閉められ姿が見えなくなると巧人は不安げに俯く。目の前にいる白衣の青年が何者で優しいのか怖いのか分からないことが何より恐ろしくて、二人きりのこの部屋から逃げ出したくて堪らなかった。本を開こうにも存在が気になりなかなか手が動かない。どうすることもできず身体が震えだす。
(うぅ……なんでお父さん、この人と二人きりにしちゃうの……? おいていくくらいなら、病院なんて来ないで、ずっと一人でおうちにいたのに……)
「ねえ、たくとくん」
「……! な、なんですか……?」
誠弥は再びしゃがみ巧人と視線の高さを合わす。名前を呼ばれ顔を上げてしまったが最後、巧人はまたその目に捕らえられ動けなくなった。父親がいなくなったのをいいことにどんな嫌なことをしてくるのだろうか。病院で体験してきた辛い出来事の数々を思い出し
「本当に可愛い顔してるね、目もぱっちりしててまつ毛も長くてくりくりで。声だってまだ声変わり前だからだと思うけど高いし。よく女の子と間違えられない?」
「…………」
初対面の相手と話す機会自体があまりないからか、巧人にそんな経験は今まで一度もなかった。どう返答すれば良いのか分からず黙り込んでいると、どういうわけか誠弥が苦い顔をしている。
「あはは……俺、避けられてる?」
強引に作ったような笑顔を向けられ、困らせてしまっていると感じた巧人は必死に首を横に振った。
「! さ……さけて、ない……です……」
段々と言葉が
「ほんと? じゃあもっとお話ししようよ」
「…………。お、お兄さんも、お医者さん……なんですか……?」
「んー……違うけど、お医者さんになる勉強中だよ」
「…………っ」
(やっぱり、そうなんだ……っ)
お兄さんは、今は優しく見えてもいずれは怖い存在になってしまうんだ。巧人は警戒心をむき出しにし、脇に置いてあったクマのぬいぐるみを抱き締め身を隠した。
「もしかして、お医者さん苦手なのかな?」
「……っ。……ちょ、ちょっとだけ……こわい……っ」
ぬいぐるみ越しに微かに聞こえるくぐもった声はひどく震えていて、それと合わせるようにぬいぐるみを抱き締める小さな手も震えている。
(あー、これはちょっととかじゃないなぁ……)
「よし、じゃあこうしよう」
「……?」
巧人の恐怖心は相当深刻なものだと察した誠弥は何か
「こうしたら、俺はただの大学生のお兄ちゃんだ」
ぬいぐるみを盾にしちらりと顔を覗かせた巧人は目にいっぱい涙を溜めていて、まだ
「ただのお兄ちゃんでも怖いかな?」
「……楽しいお話したあと、こわいことしない……?」
「しないしない! 楽しくて面白いことだけしようね」
「おもしろいこと……うん……!」
楽しくて面白いとは一体どんな気持ちなんだろう。知らないことにやはり恐怖は残るが、誠弥の真っ直ぐな笑顔が解してくれる。巧人はぬいぐるみを置いて少しだけ誠弥に近付いた。
「じゃあどんな話しようかな、そうだな……。あ、そうだ、昨日やってたテレビ観た? 芸能人がドッキリ仕掛けられるやつ。女優とかも平気で落とし穴落としててびっくりしたけどすっごい面白かったよね」
「……えっと、その、みてなくて……」
「そうなの? ごめんごめん。えーじゃあ、ゲームとかする?」
「……やったことない、です……」
「そ、そっかぁ……」
どうやら話題が尽きてしまったようで、誠弥は文字通り頭を抱えている。また困らせてしまった、「ごめんなさい」と言ってもこの空気が良くなるとも思えない。かといって黙っていても
「あ、あの……」
「ん、なに?」
「……無理、しなくていい……です。ぼくは、一人でもだいじょうぶ……だから……」
このまま巧人に落ち込んだ顔をさせていては、先生が戻ってきたとき何を言われてしまうのか。一方の誠弥は考えただけでも背筋が凍り、必死の思いで口を開く。
「そんな悲しいこと言わないで!」
「え……」
「俺はたくとくんと仲良くなりたいんだ!」
「仲良く……?」
仲良くなる、みんなにはできて自分にはできないこと。だから「仲良くなりたい」と言われても巧人にはどうすればいいのか分からなかった。何をやっても困らせてしまうだけで、嫌になる。
「そう! でも、本当はこういうのどうしたらいいか全く分かんなくてさ。今の小学生が何好きなのかも分かんないし、そもそも子供とどう接したらいいかさっぱりだし。兄ちゃんなんて言っておいて実際は一人っ子だからか全然上手く振る舞えないし……あーもう、俺ってダメだなぁ……」
勢いそのまま正直なことをつらつらと言っているとまるで何もできていないことが明白になっていき、どんどん自信がなくなってくる。巧人に顔を上げてほしかったはずが誠弥の方が
「……だめじゃない。お兄さんは、だめじゃない……よ……」
「たくとくん?」
下を向いたまま巧人は肩を震わせ恐る恐る口を開く。
「ぼくも、みんなとどうやったら仲良くなれるのか、わかんないんだ……。学校行ってもずっと一人で、友だちもいなくて……。だ、だから……お兄さんが、仲良くなりたいって言ってくれたの、そんなの初めてで、うれしい……」
頑張って心を開いてみようと巧人は思っていることを勇気を振り絞り話してみる。緊張でどきどきしてしまい胸の奥から熱いものが込み上げてきて落ち着かず、足をぶらぶらさせた。
「それとね、ぼくも一人っ子だから……いっしょに、兄弟ってどんな感じなのか考えてみたいな……」
巧人はぬいぐるみのクマの手を握りながら、少しずつゆっくり話した。小さな声でも一生懸命さは十分伝わってきて、誠弥は感激し巧人の手を両手で優しく握ってやった。
「そっか、俺たちお揃いなんだね。それじゃあ、俺が本当の兄ちゃんだったら一緒にどんなことしたい?」
「お兄さんが、ぼくの本当のお兄さんだったら……?」
「そう!」
「うーん…………勉強、いっしょにしてほしい、かな」
巧人の思う楽しくて面白いことは勉強以外に考えられなかった。しかし、誠弥の顔を見てみると微妙な反応で、やはり失敗してしまったかと胸が痛くなりまた泣いてしまいそうになる。
「え、そんなことでいいの?」
「うん……。お兄さんだったら、ぼくの知らないこといっぱい知ってると思ったから……」
「まあ、
首を傾げ笑いかけられ誠弥がどう思っているのかが分からず、また視線を床に落とした。つやつやとしていて誠弥の姿がぼやっと映っている。
「だめ……?」
「いや、ダメじゃない、ダメじゃないよ〜。勉強、やろっか!」
「うん……!」
受け入れてもらえ、巧人は顔を上げ誠弥に柔らかく笑う。早速診察台から降り鞄から教科書やノートを取り出すと、にこにこしながら父親の机に並べ始めた。
「いつも教科書とか持ち歩いてるの?」
「外に出たときは、だいたいそうかな。ぼく、あんまり学校行けてないから、その分いっぱい勉強したくて……」
「へぇ、えらいね」
「そんなことないよ。ちゃんと学校行って授業受けてテストやってる方がえらいよ」
「いや、たくとくんはえらい!」
巧人が浮かない顔をしていると誠弥は頭を思い切り撫でてやった。驚き思わず「わっ」と声が出る。
「あ、ありがと……」
「よーし、じゃあ始めよっか。どこか分からないところとかあるのかな?」
「えーっとね……これ。これがどうしてこうなるのかわかんないんだ」
巧人は算数の教科書を捲り、単元の最終ページにあるまとめ問題の最後の設問を指さした。このページで一番難しい問題である。
「どれどれ……って、もうこんな難しいのやってるの? 八歳って何年生だっけ……」
「二年生だよ。だけど、授業でどこまでやってるのかわかんないし楽しいからどんどん先まで進みすぎちゃってるかも、えへへ……」
巧人が開いたページは教科書でもかなり後半で、学年のちょうど折り返し地点付近の秋頃の進度を考えれば授業を先取りし過ぎているくらいだった。それは誰かに教わることなく一人で教科書だけを頼りにそこまで理解しているということを意味していて、その照れ笑いは誠弥を身構えさせる。
「勉強が楽しいなんて思ったことないな……」
「知らないこと知れるのってすごくわくわくするんだ。だから、勉強は好き」
「へ、へぇ……」
誠弥が全く共感してくれていないと気付くと、巧人は鉛筆を置き顔を上げた。
「お兄さんは、勉強好きじゃないの?」
「あんまりかなぁ、あはは……」
「でも、お医者さんっていっぱい勉強しないといけないんじゃないの?」
「そうなんだよねぇ、だからただ今絶賛苦戦中」
少し遠い目をして笑い飛ばそうとする誠弥の合わない視線を置き去りにして、巧人は俯きボソリと呟く。
「……だったら、お医者さんになんてならなかったらいいのに……」
「お医者さんは怖いから?」
「うん……。お父さんもいつもはやさしいのに、お医者さんしてるときはこわくなっちゃうから……。だから、お兄さんにはやさしいままでいてほしいな……」
そっと誠弥の服の袖を掴む巧人の小さな手は震えていて、脱ぎ捨てられた白衣が視界に入るとまた怯えて首ごと目を逸らした。
「大丈夫だよ、兄ちゃんはお医者さんになっても優しいままでいるから」
「……うそ。お医者さんはいつも、うそつきなんだ。痛くないよって言ったのに、注射はすっごく痛い。甘いよって言ったのに、お薬はとっても苦い。これで元気になれるよって言ったのに、またすぐにしんどくなっちゃう……」
袖を掴む巧人の手は強くなりさらに震えが増している。
そんな顔をされるが、誠弥はどう接すれば良いか分からず沈黙を決め込んでしまう。
「……もう、いやだ……。なんで、ぼくばっかり……。ぼくは、このままずっと、つらい思いし続けないと、いけないのかな……? ぼくだって……っ、元気になって、みんなといっしょに……っ外で遊んだり、走ったりしてみたいよ……。うぅ……お兄さん……っ、ぐす……っ」
堪えていたものが一気に崩れ落ちたように巧人は涙を溢れさせ誠弥に抱きついた。すすり泣く声が診察室いっぱいに響く。
「大丈夫、大丈夫だから。俺は、いっぱい頑張ってるたくとくんの味方だからね。たくとくんのいやだって思うこと、全部なくしてあげるからね……」
誠弥はそっと抱き返し思いつく限りに
「ほ、んと……?」
「ほんとほんと。お医者さんは辛いことや苦しいことをなくしてあげることが仕事なんだ。だから、お医者さんはヒーローなんだよ」
「……っ、ヒーロー……。そう、なんだ……お医者さんは、ヒーローなんだ……。悪いやつと、たたかうんだもんね……がんばれ……って、言わないとね……」
巧人は顔を上げ診察台に置いたままの本へ視線を遣る。その表紙には赤いマントをひらめかせた一人のヒーローが描かれていた。
「……もう、だいじょうぶ……こわくないよ。ぼくもがんばるから、お兄さんも勉強がんばろ?」
涙を袖口で拭うと巧人は誠弥の手の上に自分の両手を置き、上目遣いでくしゃりと笑った。
* * *
「あのときのタクの笑顔は刺さったなぁ。おかげで本当にやる気出てきて、次のテストで急に成績良くなったからタクのお父さんに『どうしたんだ』って心配されちゃったのよく覚えてるよ」
隣にいる巧人の無愛想な顔が少しも似ていないはずの恩師の顔と重なり、誠弥はどきりとした。いくら顔立ちは似ていなくてもいつの間にか似通い始めた性格は、二人がたしかに親子であることを表していて微笑ましくなる。
「それは単に兄さんが本気を出しただけだろ」
「そうだとしても間違いなくタクのおかげだよ。それなのに結局医者にならなかったなんて、とんだ裏切り者だよね。いくらタクがいやがってたからって、それだけで夢を諦める理由にはならないよね」
「俺は兄さんの夢を否定してたんだな、ひどい奴だ」
「ひどくなんてないよ。それが正直なタクの言葉だったんだし、優しい兄ちゃんのままでいてほしいって意味だったんでしょ? それに医者にならなかったからこうやって毎日のようにタクと一緒にいられるんだし、結果オーライだったかもね」
「……兄さんが言うならそうかもしれないな。話す機会も確実に減ってただろうし、それはちょっと俺も寂しい……」
誠弥と会えない、それだけで巧人の生活は空白で溢れだす。ぽっかりと空いた何もない部分を考えることさえ
「なあ、兄さん」
「なに?」
「もし俺がいなかったら、兄さんはどうなってたと思う?」
ただの好奇心だった。自分の存在が誠弥にとってどれだけのものであるのか、巧人は知りたかったのだ。
「そんなこと考えさせないでよ、タクがいないなんて考えるのもいやだ」
「……悪い。だが、兄さんもそんな子供みたいなこと言うんだな」
「〝弟〟のことが大事なのは大人になったっていくつになったって変わらないよ。だけど、タクは大人になったら〝兄〟離れしちゃうのかな?」
「……さあな、先のことなんて分からん」
絶対にそんなことはないだろう。先のことは分からなくてもそれだけは分かりきっていたが、誠弥も同じように考えていることに安心したのか、巧人は余裕のある回答をしてみせた。
「えー。そんな日が来たら俺、泣いちゃうよ?」
「兄さんの泣いてる顔、見てみたい。……なんてな」
「もー、タクひどい!」
少しからかってやるとすぐにムキになったように膨れる誠弥を見ていると、ありもしない空白を思い不安になっていたのが馬鹿らしく思えてきて、巧人は手を離した。二時間目の授業の終わりを告げるチャイムが校内に響いているのが聞こえてくる。
「授業も終わったみたいだ、そろそろ戻る。話聞いてくれて、その……ありがとう」
「どういたしまして。秋と仲直り頑張ってね」
少しの不安を滲ませながらも頷き教室へと戻る巧人を、誠弥は引き戸が閉じられるまでずっと見守っていた。
「……タクも成長したなぁ。俺も変わらなきゃ、なのかな」
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