#13 子供じみた妥協、大人の噓

「何してるの?」


 誠弥が保健室に戻ると、自分の席に座り丸まっている背中を見つけ声をかけた。すると巧人は電気が走ったように全身を跳ねさせた。


「……! 兄さん……!」


 がばっと身体を起こし向き直った巧人は紅い顔をしていて目元もわずかにれぼったくなっている。


「泣いてる……? どうしたの、何があった? 頭痛い? 身体重い?」


 巧人の顔を見た誠弥は慌てて駆け寄り、目線を合わせ肩に手を置いた。過保護が露見する『?』の連鎖、詰め寄られた分巧人は後ろに体を引いた。


「いや、体調は大丈夫だ。それに、その程度で俺は泣かない」

「大丈夫ならいいんだけど、だったらなんで泣いてなんか……」

「それは、その……いろいろ分からなくなって……」


 目元をこすりながら巧人は不格好な顔を誠弥に見られたくないと深くうつむいた。頭のてっぺんでぴょんと一束だけ跳ねていた髪もしょぼくれる。


「もしかして、秋とのこと?」

「! なんで……」

「〝弟〟のことならなんでも分かるよ……って言いたいところなんだけど、実はさっき秋と会ったんだ。そのとき聞いた」

「そうか……。秋、なんて言ってた? 俺のことなんて考えたくもないって? 俺なんかと友達なんてもう御免だって?」


 巧人はどんどんネガティブなことを並べていき土壺どつぼにはまろうとする。誠弥は落ち着かせようと背中をさすってやった。


「なんでそうなるの。でも、やっぱり気にしてたんだね。安心しなよ、秋も同じように悩んでたから」

「秋も悩んでた……俺と関わったからクラスの奴らに何か言われたのか」

「違うよ。タクに嫌われたって、それでどう接したらいいか分かんないって」

「俺は嫌ってなんかない……。たった一人の友達を嫌いになんてなるわけないだろ……」

「それを直接秋に言ってあげなよ」


 目を合わせてくれない巧人の顔を覗き込み、誠弥は少し首を傾け目を見る。そして背中をとんとんと二回叩いてやった。


「で、でも俺、秋をそういう目で、見れなくて……。簡単に嫌いじゃないとか、じゃあ好きとか……言えない……」

「そんなに難しく考えなくてもいいと思うよ。秋はタクの特別になりたかっただけみたいだし、これまで通り友達として接していたらいいんじゃないかな?」


(嘘だ)


 巧人の頭は瞬時にそう判断した。そんなわけない。特別になりたかった、それはきっと他の誰にも入るすきを与えない関係になりたいということだ。相手が他の誰かと話しているだけ、他の誰かのことを考えているだけで内臓の奥の方からどろどろとしたものが湧き上がってくる。独り占めしたい、そんな深くて大きくて――みにくい想いだ。

 あのとき秋はたしかに恋をしていると身をもって教えてくれた。それは友達なんかで気が済むようなものではない。


「……兄さんは、何も分かってない……」

「え?」

「どうしてそんな風に軽く考えられるんだ。俺ならまだしも秋にとっての特別がただの友達だと思うか? クラスの奴ほとんどと友達なんだぞ」

「……たしかに、それじゃあ特別とは言えないかもね。それならタクの思う秋にとっての特別って何?」


 告白した相手と望む特別な関係、考えるまでもなく答えは一つだ。


「そ、それは……。……恋人に、なる……こと……?」

「そうかもしれない。タクが可愛くて頭でずっと女の子だと勘違いしたままだって言ってたし、それを抜きにしても好きだとも言ってたから」

「…………」


 また聞きとはいえ改めて好きと言われ巧人は頬を紅潮こうちょうさせる。しかも自分を男だと認識した上でも変わらないというから耳を疑った。勘違いや気の迷いなんかではないというのだ。


「でもタクにそのつもりはないんでしょ? そんな状態で恋人になって秋は嬉しいと思う?」

「……思わない」


 嘘をついた。自分に照らし合わせたとき、たとえ誠弥にそのつもりがなくても恋人になってくれるだけできっと何よりも嬉しいだろうと思っていた。無論、誠弥から愛されるならそれに越したことはなかったがあまりに望みが薄すぎるのだ。手にできればそれだけで良かった。


「だよね。タクのことが好きだから、タクを傷付けたりタクが望んでいないことはしたくない。これはタクを困らせない為の嘘だったのかもしれないけど、付き合いたいとは思ってないんだって」

「…………」

「タクにとっての特別になれれば秋はそれで十分なんだよ。秋にとっての特別はきっとタクの存在そのものだから」

「……秋は、大人なんだな」


 存在が特別だからそれ以上は求めない、巧人はそんな風には考えられなかった。誠弥のことを思えば自分の中で想いを抱えたままずっと〝兄弟〟でい続ければ良い。だが、そんなのは耐えられない。わがままな一人っ子精神が欲しいものは何がなんでも手にしたいと欲望を掻き立てるのだ。


「人間関係って本当に難しいからね。上手くいかないことばっかで、それなのに切っても切れなくてずっと付きまとってくる。だからか駄目なとき程、頭の中そのことでいっぱいになっちゃうんだ。理想を望めば余計に苦しくなるし場合によっては相手も苦しめちゃう、そういうときはいっそ妥協しちゃうのが一番ってこともあるんだよ」


 誠弥は自分の過去を回想しているのか、窓の方を見ながら優しい口調で話す。

 午前十時半過ぎの朝日はまだ昇りきっていなくて、少し低い位置から校舎や街をそっと暖かく照らしている。


「楽になる為に頑張らない――そう言うと聞こえが悪いかもしれないけど、確実に誰も傷付けないって意味じゃ一番良い選択とも言える。さっきタクは大人なんだなって言ってたけど、難しいことを考えないってことだからむしろすごく子供な選択なんだよ。頑張り屋さんのタクには分からないかな」

「身を引くことが時に良いというのは、分かる。だが、それってすごく大人なことじゃないのか?」

「そうでもないよ。何もしないんだから子供でもできる」

「子供でいた方が良いのか?」

「人間関係に関してはそうかも。我慢することが大人なら、大人でいなきゃいけない関係なんていらないよ。頑張らないと辛い思いしないと成り立たない関係なんてタクはいやじゃない?」


 頑張らなくてもいい関係にすがっていては変われない、生温なまぬるいところで甘えたままでは前に進めない。能動的なままで上手くいくなんてとんでもないラッキーなのだ、みんながみんな秋のようではないのだから。


「俺は……悩んでも苦しんでも、自分の望んだようになったら良いと思う……多分。特別だからとか、それだけで満足はきっとできない。こんなの自分勝手だよな……」

「そんなことないよ、それは大事なタクの意思だ。それに自分勝手だって十分子供じゃん。そのままでいることがタクにとっての我慢になるなら、それは子供でいるってことだよ。頑張らなくても頑張っても子供なんだよ、おかしいよね。でも、強引なタクなんて全然想像できないな」


 誠弥は何を思い浮かべているのかクスッと笑い、「そこまでタクに想ってもらえる人が羨ましいよ」とはにかんだ。


「……兄さん」

「え、何?」

「……兄さんだ……」

「俺がどうかした?」

「だ、から……俺が……その……想ってるのは、にっ、兄さん……だって、言ってる……」

(……え、あれ……。俺、何言って……)


 勝手に開いた口から発せられた声と言葉は掻き集めて隠せない。誠弥に届いてしまったことを見開かれた目を見て知る。「え……」とだけ言って他に何も言わずじっと目を合わせてくる誠弥が巧人には罰を下す執行人のように恐ろしく思えてきて、次第に視界がうるみだした。


「あ……いや、えっと……っ」

「タク?」

「…………」

(引かれた……終わった……)


 言い訳を探そうにも言葉が次々とかすんで消えていく。真っ白になった頭に絶望だけがずしりと重く存在を放ち、巧人の心身から覇気も力も全てを奪っていく。がくっと肩を落とし、ただ疑念を感じさせたまま向けられる目を虚ろに見続けていたその瞬間にその視線は真横へ流れていった。そして巧人の全身を体温が包み込んだ。


「⁉」

「ああ、ごめん急に。タクはそんなに俺のこと想っててくれたんだね。兄ちゃんなのに気付けなくてごめん」

「兄、さん……っ」


 脱力しきっていた腕に熱と力がみなぎり、巧人は誠弥を抱き返す。お互いの体温が混じり合う感覚に、瞳の表面に張っていた涙が溢れ落ちた。


「俺たち、本当の兄弟じゃないから不安に思うこと多かったよね。でも大丈夫だよ、俺は何があってもタクの〝兄〟でタクは俺の大事な〝弟〟だから」


 強く抱き締められ「そうじゃない」と言い出せない。分かってもらえずすれ違う想いの摩擦が、巧人の心にひりひりとした傷を作る。どうしていいか分からず、震える手を誤魔化すように同じだけの力を返した。


(……好きだって、ちゃんと言わないと伝わらないよな)


 だが今はまだそれを告げるときではない。切なくも心地良い〝兄〟の温もりを感じながら、巧人はわがままな想いを胸の奥にしまい込んだ。


「……兄さんがそう言ってくれて、嬉しい」


 涙のしずくが冷たく頬を伝っていき胸が痛む。大人になれた気はしなかった。

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