#12 兄さんとセンセー

 巧人の頭に授業内容は何も入ってこなかった。上の空か居眠りをしている秋を見るかのどちらかで、ノートをとる筆が全く進まない。チャイムの音と罫線けいせんだけが均等に引かれた白紙の見開きに、巧人はため息しか出なかった。


(俺がさっさと返事を言わなかったのがいけなかったのか? でも返事はいらないって……いやいや、そんなの嘘に決まってるよな……)


 もやもやした気持ちが晴れないまま教室にいてはどうしても秋を意識してしまうので、巧人は授業が終わるとすぐ廊下に出て意味もなくうろうろしていた。

 廊下の端から端、一組から七組までの教室が一直線に並ぶ長い距離をただ歩く。何をしているのか、ときどき視線が刺さるが巧人は特に気にならなかった。中学時代の休み時間の潰し方は図書室にこもるか廊下に出ているかのどちらかだったのだ、今更人目など気にすることではない。

 二時間目の授業はなんだったか、古典だっただろうか英文法だっただろうか。秋のことから気を逸らそうとする巧人の頭にはそんなことしか思い浮かばない。授業開始から一ヶ月以上が経過しても変則的なことが多く、時間割はなかなか覚えられるものではない。だが、巧人にはどちらでもあまり変わりはなかった。どの教科であろうと予習は済んでいて、授業を受ける理由には予習内容の確認もあったがほとんど秋に渡すノートを作る為だったからだ。その御役おやく御免ごめんとなりそうなのだ、最早もはや授業に出る価値は平常点二割を頂けることだけだった。


(……出なくていいか)


 無気力。無いものを抱く不思議な感覚にさいなまれ、巧人は不真面目を働く。その足は無意識に長い廊下を外れ階段を下っていた。そして渡り廊下を進み、『外出中』と書かれたプレートのかかった引き戸の前に辿り着く。


(癖で保健室に来てしまった……。兄さん今いないのか、かえって都合良いな)


 プレートに『すぐに戻るから中で待ってて!』とメモ書きが貼ってあり、引き戸に鍵はかかっていなかったので巧人は中に入った。誰もいない保健室、消毒液の匂いだけがただよう空間は少し寂しくもありながら落ち着きを与えてくれる。

 誠弥がいないならと、好奇心で彼がいつも座っている回転椅子に座った。まだ席を離れてからあまり時間が経っていないのか、少し暖かい。


(……こんなことでどきどきして……気持ち悪いな、俺)


 身体に誠弥の残した熱が伝わっていく以上に体温が急激に上がるのを感じ、ネクタイをゆるめワイシャツの一番上のボタンを外して身体に空気を触れさせる。座ったままくるっと一回転すると火照ほてった顔を少し冷たい空気が撫でた。机を見ると来室記録の紙が置いてある。訪れた生徒が書いたカードと誠弥が書いたリストだ。


(そういや俺、これ書いてないな。書くまでもないってことだろうか)


 巧人が保健室を保健室として利用する際の理由や症状を誠弥は全て分かっていた。中学時代までは訪れる度に書かされていて、巧人は正直なところ面倒に感じていたのだ。理解してもらえている安心感と気遣いに胸を打たれる。そしてリストに視線を移した。


(兄さんの字、綺麗だな……)


 知らない名前の羅列を一文字一文字に区切って辿り吟味ぎんみする。直線の美しさ、とめはねはらいも丁寧で心地が良い。幼い頃に誠弥の字を見て憧れ、字の練習をしていたことを巧人は思い出す。誠弥本人だけでなく誠弥の手から生み出されたものも全てが巧人にとっては愛おしいのだ。

 紙を捲ると最後の欄まで名前で埋まっていて、その中に『1―3 槙野巧人』の文字を見つけた。指でそっとその筆跡をなぞる。誠弥が自分の名前を書いてくれていた、当たり前のことであるはずなのに堪らなく幸せで口元が綻ぶ。

 巧人も数式や英文、偉人の名前や大事件を書いたノートの隅に何度も何度も『杜松誠弥』と書いてきた。書いては消し書いては消してを繰り返し、不自然に入ったシワと消しきれずに残ったもやのような汚れを見る度に切なさが押し寄せた。


(隠したって、消したって、俺の気持ちは消えないし消したくもないのに……)


 何かをどこかに残しておきたい。そんな衝動に駆られ、巧人は白紙の来室カードとその場にあったボールペンを手に取った。紙の端は定規をあて手でちぎったようで、カードは手作り感に満ちている。

 『槙野巧人』と名前を書き、症状はその他に丸をする。記述欄にペン先を付けたところで手が止まった。


(…………)


 『恋の病』――意を決して書いたその文字は震えていた。


(……何書いてんだ)


 備考欄に『あなたが好きです』と勢いで書いてしまった紙をくしゃくしゃにしてカーディガンのポケットに押し込んだ。

 断ち切れもしなければ伝えることもままならず、脱力。冷静になっても冷めやらない頬に、ひんやりと机の無機質さが伝った。目の前に見えた丁寧な字の自分の名前がまるでなぐさめてくれているようで、「ありがとう」の代わりに優しく撫でた。


(兄さん……俺、どうしたらいい……?)


「タク?」


 チャイムが鳴っているのにも誠弥が戻ってきたことにも気付かないで、巧人は自分だけの世界に籠っていた。




 * * *


「あれ、杜松センセー? どしたん?」


 同じ時間、教室。

 廊下を急ぎ足で通る誠弥を見つけた秋は教室の入口から顔を覗かせ呼び止めた。


「あ、秋か。さっき保健室来てた子が忘れ物してたから届けてその帰り。すぐ戻るって書いてきちゃったからちょっと急いでたんだ」

「ふーんそっか。んじゃ巧人、保健室じゃねーのか」

「あれ、タクは一緒じゃないの? 教室にもいないみたいだけど」


教室の中を見回すがそれらしい人は見つからず、不審に思った誠弥は腕を組み首を傾げた。


「いや、実はさ……。オレ、巧人に嫌われたかもってか、絶対嫌われた……」


 引き戸を掴む秋の手が震えていて、らしからぬ弱気な声に誠弥はすぐ異変を感じた。


「え、どうしたの。喧嘩……はないか、タクがまたツンケンしちゃった?」

「その感じ、巧人はなんも言ってないんすね……。巧人は悪くない、全部オレが悪いんだ」

「何があったの」


 ただ事ではない、それだけは今置かれた状況だけで理解できた。大切な〝弟〟の身に何かが起こっていると思うと、誠弥は冷静さを欠き答えを急いでしまう。


「センセー、今からオレが何言っても巧人の友達続けてていいって言ってくれる?」

「う、うん。せっかくタクの初めての友達になってくれたのに、俺がそれをどうこうなんてできないよ」


 秋の真剣な眼差しが突き刺さる。一体どんなことを言うつもりなのか、誠弥は息を呑んだ。


「ありがと、センセー。実は……オレ、昨日巧人に告ったんだ……」


 教室にいる友人や廊下を歩く生徒に聞こえないように、秋は耳打ちで誠弥に告げた。


「えっ」

「その、別に男が好きとかそういうんじゃねーんだけど……って、いい訳なんかしてどーすんだって話っすよね……」

「いや、ごめんね、ちょっとびっくりしちゃっただけだから……。タク可愛いし男でもうっかり好きになっちゃうよね、分かる分かるよ……」

「そうなんだよ、巧人めっちゃ可愛いんだよ……!」


 こそこそしていたのは何だったのか、秋は声を張り上げる。一瞬にして周囲の生徒たちの視線を集めた。一番秋の近くにいた梅田が「お前、大丈夫か?」と困惑した表情で肩に手を置いた。


「何がだよ、巧人可愛いだろ!」

「うーん…………顔、だけなら……?」

「だよな!」

「…………」


 これまでに見聞きしてきた巧人の人間味のない冷たい言葉や態度の数々を思い出しながらも妥協だきょう点を出すが、これ以上は同調できないと梅田は教室の奥にいた桐原を始めとしたいつものグループの元へ小走りに去っていく。誠弥はすっかり開き直ったような秋に苦笑することしかできなかった。


「それで、どうしてそんなことを?」

「オレ、巧人のこと教室で初めて見た瞬間に可愛いって思って、だから男だって分かったときはすっげーショック受けたし一気に冷めたんだ。でも、だからって避けるとか絶対違うじゃん。それで、友達として一緒にいたら見た目だけじゃない中身の可愛いとこも良いとこもいっぱい見つけちゃってさ。オレはオレで巧人のこといつまで経っても男だってぜんっぜん信じきれないし、それにやっぱりそんなこと全部抜きにしても好きだなって思って」


 秋は正直にありのままを話す。身振り手振りを付けながら一生懸命に話しているのを誠弥は黙って聞いていた。


「でも、そんな付き合いたいとか、キスしたいとか……そーゆーことは巧人困るだろうしぜんっっっぜん思ってないから! もうシンプルに好きってだけで、ただそれだけ伝えたくて仕方なくて……友達としての関係崩すことになるって分かってたけど、バカだから直接伝える以外の方法思い付かなくて……。つーか、そもそもそれならやっぱわざわざ好きなんて言わなくても良かったんじゃ……。でも、ただ友達ってだけじゃなんかもやもやするし……あー! 分かんねーけど、とにかくオレは巧人が好きなんだ!」


 自分で言った言葉の意味や行動の真意が急に分からなくなり、秋は頭がこんがらがった。髪をくしゃくしゃに掻きながら、ただ真っ直ぐな想いだけを口にする。


「友達以上恋人未満希望……ってやつかな?」

「それ! それだと思う、多分。オレ、巧人にとって特別な存在になりたくて」

「それなら、友達で十分じゃん。秋はタクにとっての初めての友達、特別じゃないはずないでしょ」


 真正面からぶつかり悩んでいる秋に対して申し訳ないかもしれないと思いつつ、誠弥は軽く笑い飛ばすような答えを与えた。


「そっか……。オレ、もう特別なんだ。ははっ、なんか一気に楽なった。ありがとセンセー。巧人が戻ってきたらちゃんと謝る。オレどーしたらいいか分かんなくて、巧人のこと避けちゃってたから……」

「そうしてあげて。タクはあんなでもちゃんと心のある人間だから、それなりに悩んだり傷付いたりしてると思うし。でも秋が悪いわけじゃない、それだけは分かってて」


 秋の頭を撫でさとす誠弥のその声は教師のものであった。秋の中でずしりと重くのさばっていた悩みがどんどん浄化されていく。


「それじゃ、保健室戻るね。何かあったらまたおいで」


 また急ぎ足に誠弥は廊下を過ぎ去っていった。秋はその背中を追いながら撫でられた感触を確かめる。


(こんな兄ちゃん……羨まし……)

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