#10 ハプニング

 教室まで辿り着くと、まだ誰もいないようだった。電気がいておらず窓からの日差しだけが室内に明かりをもたらしている。机と椅子がただ並んでいるそこはシンとしていて、まるでいつもとは雰囲気が違う。


(早く着き過ぎたか)


 時計を見るとまだ八時前だった。誰もいない教室でのびのびと過ごすのも悪くない。そう思ったが、巧人はそうせず廊下を引き返した。


「あれ、槙野? おはよう、早いね」


 曲がり角から顔を出した担任に巧人はいち早く気付き前を向くのをやめる。一方の担任は巧人に気付くとにこにこしながら近付き挨拶をしてきた。


「おはよう、ございます……」


 誠弥と親しいからというだけでなく、何かと構ってくるこの担任のことが巧人は苦手だった。嫌な人に捕まってしまった、そう思うと巧人の表情はかげり声色も暗くなる。


「教室行かないの?」

「……誰もいないので」

「そっか、この時間だとまだ誰も来てないか。杜松先生のとこ行くの?」

「…………」


 図星であった。まさに保健室へ行こうとしていたところだったのだ。しかし、ずばりと行動を読み通されたことよりも誠弥の名前が出てきた方が巧人のしゃくさわる。誠弥の口から担任の名前が出てくることも嫌だったが、担任の口から誠弥の名前が出てくる方がずっと嫌だった。


「……あなたは兄さんの何なんですか」

「兄さん……えっと、杜松先生のことよね? 何って、同僚?」

「…………」

(そんなこと、どうでもいい……)


 誠弥に訊いたときも同じように思った。とはいえ他の回答をされるのも許せない。では何を訊きたかったのか。分からないまま、話をすることさえ不快に思った巧人は会話を投げ出しその場を早足に立ち去った。


「っえ、ちょっと槙野……!」


 廊下に置き去りにされた担任は呆然ぼうぜんとし、抱えていた教科書や出席簿をバサバサと落としてしまった。




 * * *


 トントントン

 保健室に明かりが点いていることを確認しノックした。「はーい」と巧人の大好きな声がする。引き戸を開けると白いシャツをまとう大きな背中が見えた。


「兄さん、おはよう」

「ん、タクか。おはよう」


 振り向いた誠弥はワイシャツのボタンに手をかけていて、まだ半分あたりまでしか留まっていない。


「……⁉」

(は? え? なんで……? 胸元、見えてる……っ)


 無防備な笑顔と無防備な格好。一瞬にして頭から蒸気が出そうな勢いで巧人の身体が熱を帯びる。見えない圧で壁まで押しやられ力なく崩れ落ちた。


「どうしたのタク、大丈夫?」

「だっ、だいじょ……ぶ、なわけない、だろ……っ。ふふふ、ふ、服……なんで、ちゃんと着て……」


 そのまま近寄ってくる誠弥が恐ろしくて堪らない。しゃがんで目の位置を合わされるが至近距離で直視なんてしたら心臓が持たない、はち切れる。目を逸らし、巧人は横を向いた先に貼られてあった保健通信をじっと見た。


(熱中症……春でも危険なことがあるのか……そうか…………)


「ああごめんごめん、いつも朝のこのくらいの時間にここで着替えてるからさ。びっくりさせちゃった?」

「びびび……っびっくりとか、そんなレベルじゃ……ない……」

大袈裟おおげさだなぁ、裸くらい見たことあるでしょ」


 見たことあるといえばあったが、小学校低学年の頃に一緒にスーパー銭湯へ遊びに行ったときの一回きりだ。そのときはまだ恋なんて言葉すら知らないような頃で、見てもただかっこいいと思い憧れていただけだった。

 今は状況が全く違う。保健室に二人きりでそんな格好をされては、絶対に外してはいけないネジが簡単に吹っ飛んでしまいそうになる。


「そ、そういう問題じゃない……。きっ、着替えてるなら鍵くらい閉めろ、ノックされても返事するな、入ってきたのが俺じゃなかったらどうするつもりだったんだ……」

「あはは。タク、お母さんみたい」

「笑い事じゃないだろ……」

「ごめんね、いつもこの時間なら校内にほとんど生徒いないから、その間に誰かが来るなんて考えてなくて油断しちゃってたかも」

「油断って……。そ、それに……あ、あの人とか来たら……」


 生徒はほとんどいなくても教員なら大半が既に学校にいる。現に担任とはさっきすれ違っている。もし、用があったりして保健室を訪れていたら……。その拍子に何かが始まってしまっていたかもしれない。巧人はぞっとした。


「ああ、有沢先生? それはヤバいね、女子生徒でもヤバい。絶対振り向かないしかけ違えてでもボタン留めてた。だから安心してよ、ね?」


 そんな言葉で安心できるはずがない。巧人より十個以上も歳上なのに危機感が薄すぎてあまりに不安だ。


「でも本当に、来たのがタクで良かったよ」


 まるで『男なら大丈夫』『タクなら大丈夫』とでも言っているみたいで、巧人は静かにいきどおった。


「……兄さんの馬鹿」

「タクがそんなに怒ると思わなかったなぁ。俺のこと考えてくれてるんだね、ありがと」

「べ、別にそんなんじゃ……」


 たしかに考えている、巧人の頭はいつも誠弥でいっぱいだ。

 胸元のひらけているところから手を入れて触れればどうなる? 冷たい手で触って肩を跳ねさせてどんな顔をしてくれる? 隠れている部分はどうなってる? いっそ全部見せてほしい、そのままの姿を抱き締めたい。直に心臓の音を聴いてみたい。もっとを知りたい――。

 ひどく震えながらその隙間へ伸びようとしている左手に気付き、巧人の中の時が止まる。


(……え…………っ?)


「?」

「…………‼」


 無意識のうちに伸ばしていた手をそっと掴まれる。そして何を思ったのか、誠弥はその手を自分の身体に押し付けた。


「タクの手、冷た」


 いつもと変わらない笑顔のまま、冷たさを感じた身体に鳥肌が立っていくのが分かった。生きている、たしかに生身の誠弥だ。筋肉の凹凸おうとつを手のひら全体で感じる。鼓動が打ち付けてくる度、考えてはいけないような妄想があれこれ頭に浮かんでは支配していき、巧人は指先をびくつかせた。


「……に、に、いさ……?」

「あれ、触りたかったんじゃないの?」

「は、はぁ……?」

「違うかった? でもタク、女の子みたいな反応するんだね。顔真っ赤。昔、俺の身体見て『かっこいい』って言って触ってたときより可愛いよ」


 「あのときと比べたら筋肉落ちちゃってるかもだけど」などと呑気のんきなことを言う誠弥の前で、巧人は冷たかった手にだんだん誠弥の体温が伝っていくのを感じた。触れている感覚が麻痺まひしていくのに合わせて理性が溶け消えようとする。なんとか食い止めようと意識を集中させるのに必死だった。


(……俺、触ったこと、あったのか……?)


 巧人は記憶の糸を手繰たぐり寄せる。

 スーパー銭湯。目玉の噴水が中央にある泳げる風呂ではなく、隅にある五人も入れば満杯になってしまうような小さな湯船。風呂はすぐにのぼせてしまうからあまり好きではなかった。それでも誠弥の誘いだからと幼い巧人は純粋な心を躍らせていた。

 隣で一緒にお湯にかる誠弥の身体は自分とは全く違う形をしていて目をく。どうなっているのだろうと百パーセントの好奇心で「いいなぁ、かっこいい」などと言いながら目を輝かせてべたべたと触っていた。


(……昔の俺、度胸どきょうあり過ぎだろ……!)

「い、いいから、早くボタン閉めろ……」


 誠弥の身体から手を振り離し、ぎゅっと自分の胸の前で握りしめた。ここは四十三度の熱めのお湯の中なのか、そう錯覚さっかくしてしまう程にのぼせる。巧人はもう左手で他の物を触りたくもなければ洗うことすら躊躇ためらいたくなっていた。


「へぇ。体育とかで集まって着替えるの経験してないと、男同士でも耐性なくて緊張しちゃうもんなんだね」


 あっさり離れ立ち上がると誠弥は慣れた手つきでボタンを留めていく。巧人は腰を抜かしたまままだ立ち上がれない。


「そんなんじゃ健康診断とか大変なんじゃない? 一年生は明日だったと思うけど」

「!」


 すっかり忘れていたと巧人は慌てて鞄から予定表のプリントを取り出した。たしかに明日の朝だ。しかもその担当には言うまでもなく、今目の前で白衣を羽織ったこの養護教諭も含まれていて……。


(に、兄さんに、てもらう……?)


「でもパーテーション設置するし、見られるの俺だけならさすがになんともないか」

「……兄さんにだけは、見られたくない……」

「え、逆に? そりゃ小学生の頃よりかなり成長してるだろうから、俺も『タクが大人になってる〜』ってびっくりするかもしれないけど。恥ずかしがることないよ」

「…………」


 見られるだけではない。聴診器をあてるという建前のもと、確実に触られる。手に触れたり頭を撫でられるだけで体温が上がりどきどきしてしまうのに、身体になんて触れられたら一体どうなってしまうのか。健康を診断なんて到底できないだろう。巧人は想像しただけで疲れ切り、ため息がれ出た。


「そうだ。タク、こんな早くに来て何か用があったんじゃないの?」

「……いや、別にもうない……」


 ようやく立てるようになり、巧人は壁伝いに立ち上がると時計を見た。八時十五分、もう教室に生徒が集まって騒がしくしている頃だろう。


(あれ、俺は教室が騒がしくなるのを待ってたんだっけ……?)


「もう? まあないならいいけど、体調も別に悪くなさそうだし。今日もお昼来るよね?」

「ああ……」


 巧人は静かに保健室を後にし、渡り廊下を数歩進んだところでくらりと目眩めまいがした。


(……朝からとんでもない目にった……。兄さんの身体、あったかかったな……ああ駄目だ駄目だ思い出すな……っ)


 左の手のひらで口元をおおうと高揚感こうようかんがもの凄い勢いで押し寄せてくる。誠弥の前では抑え込んでいた妄想が、タガが外れたように次々と頭を埋め尽くし巧人を苦しめた。


(……考えるなって思っても、無理だろこんなの……)


 胸を締め付けられる思いにいつまでも廊下でうずくまっているわけにもいかず、巧人は火照った身体を押して階段を上った。教室へと続く廊下にさしかかろうとしたそのとき、ふと思い出す。


「あ……」

(兄さんに秋のこと相談するの忘れてた……)

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