第2章 〝兄〟と友達

#9 母親

 翌日。朝、目が覚めて昨日の出来事が現実だったのかを真っ先に考える。眼鏡をかけ視界をクリアにしても夢とうつつの区別はなかなかつかずぼーっとしてしまう。


(俺は……告白、されたのか……)


 うつろな目で枕元に置いてある目覚まし時計を確認する。六時四十三分、いつもより少し早い目覚めだった。カーテンを開けるとまだ昇りきっていない朝日が山の頂上からちらりとひかえめに顔をのぞかせている。

 制服に着替えようと寝巻きを脱ぎ自分の身体を見る。筋肉が付いておらず骨も浮き出ていて細い、色白で男子の中では小柄。そして窓に映るその顔立ちは母親似で女性的だ。


(……女に見えないことも、ないか)


 なんとなく納得すると、巧人の視線は自然と床の方へ向いていた。


(俺が女だったら、もう少し上手くいってたのかな……)


 巧人自身が抱えている想いと秋から向けられた想い。どうあってもその両方を同時に叶えることはできないだろう。しかし、どちらかだけならあるいは収まる形に収まっていたのではないだろうか。存在し得ないもしもを思い弱気になりそうになる心を立て直すようにネクタイを強く結んだ。


「おはよう」

「おはよう、巧人。今日は早いのね」


 リビングへ向かうと既に父親の姿はなく、キッチンに立っていた母親は振り返り優しい声色で「ご飯少し待ってて」と言い、再びまな板の方へ視線を落としトントンと包丁でリズムを刻む。


「目が覚めたんだ。体調は大丈夫だから心配しないで」

「そう、最近は調子の良い日が続いていたから昨日は心配だったけれど。そうだ、そろそろ薬がなくなる頃じゃない?」

「ああ、そうだな。放課後病院寄って帰る」

「分かったわ、お父さんにも伝えておくから顔出してあげて」

「迷惑にならないか?」

「大丈夫よ。院長だからってずっと働いてるわけじゃないし、息子とゆっくり話す時間くらいとれるわよ」


 母親は「おまたせ」と言って白米と味噌汁、そして小鉢に根菜の煮物というしっかりとした朝食を食卓に並べた。


「いただきます」


 手を合わせると巧人はまず味噌汁に手をつけた。火傷やけどしないように冷ましていると、一瞬にして昨日の出来事で頭がいっぱいになり箸が止まった。


 ――巧人のことが好きだ。


「……っ」

「巧人? 大丈夫?」

「……え? あ、ああ……大丈夫だ……」

「そう? 食欲ないなら無理しなくていいわよ」

「そんなことない、美味しいよ母さん」


 不格好な笑顔が余計に母親の心配を増長ぞうちょうさせた。顔色の青白さは普段とさして変わらない。寧ろ普段より血色が良いくらいだ。


「学校、楽しい? 巧人は昔から友達作るの上手じゃなかったからあんまり訊かないようにしていたけど、やっぱり気になって」

「…………。楽しい、よ。その、兄さんもいるし……」


 教室で笑顔を向けてくれる秋の顔を思い出すと言葉が詰まる。昨日まで楽しかったことが今日から先も楽しいと心から感じられるとは思えなかった。味噌汁の塩分がやけに舌の上で強調される。


「そういえば杜松くんが働いているらしいわね。よく話すの?」

「ああ、保健室にはよく顔を出してる。気軽に話せるし、兄さんがいてくれて心強い」

「それは良かったわね。だけど、その様子じゃクラスにはまだあまり馴染めていないみたいね」

「……そうかもしれない。なあ母さん、友達ってなんだと思う?」


 巧人は煮物に箸を付けながら何気なく母親に問う。中学時代までならクラスに馴染めていないことなど一切気にもしていなかった息子がそんなことを言うので重く受け止めたのか、母親は箸を置き真剣に考える。


「難しい質問ね。人それぞれだとは思うけど、簡単に言えば一緒にいて楽しい関係じゃないかしら」

「一緒にいて楽しい……だが、兄さんは友達じゃない」

「杜松くんは歳も離れているしお兄さんって認識の方が強いからそう感じるんじゃない? 今だと先生だからというのもあるかもしれないわね。それでも巧人が友達だと思いたいなら母さんはそれで良いと思うけど」

「そうか、兄さんを〝兄さん〟とだけ思う必要はないのか……」


 巧人は思わぬ気付きを得られたからか、すっきりとした顔をした。誠弥に対する想いに少しだけだが正面から向き合える気がしたのだ。


「だからといって杜松くんに甘えてばかりは駄目よ」

「分かってる、兄さんには仕事があるからな」

「そうなるとやっぱりできれば同じクラスに友達が欲しいわね」


 やはり母親も誠弥と同じように考えていて、それなら話しておいた方が良いだろうと巧人は口を開いた。


「……実は俺、クラスに友達できたんだ」

「あら、そうなの? 良かったじゃない」


 心から喜んで笑ってくれる母親の顔を見ると巧人はそれだけ心配をかけていたことを知り、過去とそして今も問題を抱えていることに申し訳なさを感じた。


「だったら友達が何かなんてどうして訊いたの?」

「……それが、その友達とどう接したらいいのか分からなくなったんだ」

喧嘩けんかでもしたの?」

「喧嘩、ではないと思う。だが、なんというか……気まずくて」


 告白されたなどと言ったらどんな反応をされるだろうか。母親がひどいことを言うような人ではないと巧人は分かっていたが、もし言ったら自分はどう思っているのかと訊かれるかもしれない。ひいては自分が誠弥に対して恋をしていることまで知られショックを受けさせてしまうかもしれないと恐れると、巧人は言葉を|濁《にご》すことしかできなかった。


「男の子同士特有のものなのかしら。もしそうならごめんなさいね、私は力になれそうにないわ。それこそ杜松くんに相談するのはどう?」

「兄さんか……。でもそれが一番かもしれない。ありがとう、母さんも仕事の準備があるのに朝からこんな話してごめん。ごちそうさま」


 茶碗に米粒一つ残さず食べ切ると、巧人は手を合わせ席を立つ。そして食器をシンクへ運び軽く水で洗い流した。


「いいのよ。巧人は昔からなんでも一人で抱え込むから、何か相談されたのなんてほとんど初めてで嬉しかったわ」


 嬉しかった、迷惑だなんてとんでもない。嬉しかったらしい。

 何気なく言っただけだったのにこんなにも真摯しんしに考えてくれるのだ。巧人は根拠もなく誰かに相談なんてしても無駄だと思い続けていたので、母の優しさに触れ心がほぐれていった。


「じゃ、行ってきます」


 テーブルに置かれてあった弁当を鞄に入れブレザーを羽織はおり家を出る。「いってらっしゃい」と窓から顔を覗かせ手を振ってくれる母親に、巧人は照れながら手を振り返した。

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