#7 コントラスト

「ここでこの公式を使うのは、この数値がこれと一致するからで……」


 巧人と秋が友達になり少し経ったある日の放課後、二人はファミレスに来ていた。通学路や大通りからは少し外れたところにあるからか、おやつ時と夕飯時の間の時間帯だと客は少なく落ち着いて話すにはちょうど良い環境音に包まれている。先日交わした約束通り巧人は勉強を教えていたが、秋は難しい顔をしたまま首をかしげているばかりだった。


「秋、聞いてるのか?」

「うーん……聞いてるけど全然分かんねー……。なんでこれがこうなんの?」

「なんでと言われても、かけ算をすればこうなるから理由なんてない」

「かけ算マジで苦手なんだよなぁ。算数、九九で躓いたんだよ」

「それは相当だな……。七×五しちご?」

「えっ待っていきなり、えーっと、七が五個だよな……あー! 指ぜんっぜん足りねー! えーっと……三十八、くらい?」


 数を数えては足りない指をなげいて拳を握り締めたり頭を掻いたりと忙しなく動いた挙句、秋はテーブルに突っ伏し弱々しく答え巧人を上目遣いで見た。


しいな、三十五だ。いや九九に惜しいも何もないか。そんなことでよく高校入れたな」

「巧人、結構ひどいこと平気で言うよなー。まあそれはいいんだけど、実際オレもなんで受かったか分かんねーし。ラッキーだな、へへっ」


 秋は指で計算していたそのままピースサインを掲げ歯を見せ笑った。計算をする手段にいて真っ先に思い付くことがそれではラッキーもあながち間違いではないのかもしれない。そんな風に思いながらも巧人は眩しい笑顔を物言いたげに見た。


「笑い事じゃないだろ」

「えーだってこれからは巧人に勉強教えてもらえるんだから大丈夫じゃん!」

「既に大丈夫じゃないぞ。それに、俺も誰かに教えるのはあまり得意じゃない。お前にはたくさん友達がいるんだ、他の奴に訊いた方がきっと良い」


 巧人はノートを書く手を止め見返す。秋の為に自分なりに丁寧に纏めているつもりのノートだったが、本当にこれで理解してもらえるのかとふと不安になった。


「それでもオレは巧人に教えてもらいたいんだよ〜!」

「なんでそこまで俺にこだわる?」

「そりゃだって成績学年トップだし。一番頭良い奴に教えてもらうのが一番良い、そうだろ?」

「そうとも限らんと思うが。俺と友達になりたいって思ったのもそれが理由?」

「いやそうじゃねーけど」

「じゃあどうして?」


 巧人は秋の目をじっと見て問う。友達とは何なのか、まだよく分かっていないのだ。


「きっかけは前にも言ったけど可愛いって思ったから。そんときは女子だって勘違いしてたから、可愛い子とは絶対仲良くなっときたいじゃんって。男子って分かったところでやっぱ同じクラスの奴とは友達になりてーじゃん? だから理由とか特にない!」

「……なんだよそれ」


 それはかけ算の答えがそうである以外に説明できないことと似ているのかもしれない。秋×クラスメイトは難しい理屈を通すことなく、=友達となるようだ。ひとまずは友達ができたこのラッキーを大切にしようと、巧人は窓の外の閑静かんせいな街並みを眺めながらただそれだけを返した。


「でも、男子って分かった方が話しやすかった! 女子だと思ってたときはなんか話しかけづらいなーってずっと思ってて、実は一ヶ月苦戦し続けてた」


 へなっと笑い秋は「情けないよな」と呟いた。


「お前、女子でも構わず友達いるだろ。そんな秋が話しかけづらいって、俺はそんなに変な雰囲気纏ってるのか?」

「いや変じゃないけど、どっちかっつーと緊張する感じ?」

「お前も緊張なんてするんだな」

「するする、オレのことなんだと思ってんの?」

「凄い奴」

「巧人ってひどいこと平気で言う代わりに恥ずいことも平気で言うよな」


 純粋な言葉にだんだん身体の内側から熱いものが込み上げてくる感覚がし、秋はグラスの八分目あたりまで入っていたメロンソーダを氷と共に一気に身体に流し込んだ。


「それは褒めてるのか?」

「褒めてるって、いやそうでもないか? ま、悪い意味では言ってないしいいじゃん! てか巧人、ドリンクバーなのにさっきから全然飲んでなくね? しかもよりによってウーロン茶って」


 秋から見て巧人の右側に置かれたグラスには文字通り弾けることもなく何の面白みもない茶色の液体、ウーロン茶と氷が入っている。


「何かまずかったか? こういう店に来たの初めてで炭酸飲料もほとんど飲んだことないから、無難な選択をしたつもりだったんだが違ったか?」

「いやまずくも間違ってもねーけどシンプルにもったいないってか、え? 高校生にもなってファミレス初体験でしかもジュースも飲まねーとかどんな生活してんの……」


 「考えらんねー」と秋は驚きを隠しきれない。巧人はグラスに口を付けウーロン茶をちびりと一口飲んだあと氷をガリガリと噛み砕いた。


「ファミリーレストランというからには主に家族で来るようなところなんだろうが、両親は二人とも仕事が忙しいからあまり家族で外食自体したことがなくてな」

「オレんもそんなに裕福じゃねーから、昔はファミレスなんてめちゃくちゃご馳走で誕生日くらいしか来られなかったけどさ。一回くらいないかなぁ」

「俺の場合は身体のこともあるかもしれんな。少しでも体力が付くようにと昔は食べる物にも気を遣われていたから」


 栄養のバランスばかりを優先した無味乾燥むみかんそうな食事ではなかったものの、巧人は幼少期それを定められたプログラムのように感じていて食べることをあまり楽しめなかった。小学校に上がる頃には慣れもあり好物が出された日にはにこにこして食卓を囲んでいたが、外食をする機会はほとんどないまま両親は出世し巧人も成長してしまった。


「あーそれまさか『炭酸なんて飲んだら骨が溶けちゃうでしょ!』とか言われてたパターンじゃねーの?」

「え? 別に言われたことないが、そんな着色料まみれのものを飲もうとは思ったこともないな」

「んー、たしかに着色料まみれかも。ほら」

「!」


 恥ずかしげもなく出された舌を見て巧人は無意識に身を引く。そして人工的な色に染まっていることに目を丸くした。


「すごい緑……」

「初めて見た? びっくりするよなー。ちっちゃい頃、ずっと緑のまま戻らなかったらどーしよってめっちゃ焦ったし!」


 秋は舌を引っ込めると「ちゃんと取れるから心配すんなよ」と、真に受け背もたれにしがみつこうとしている巧人をなだめてやる。


「だが、いかにも不健康そうな色だな」

「まあ良くはねーと思うけど飲んだら死ぬってわけでもねーし、一回飲んでみろよっ。せっかくドリンクバー頼んでんだからいろいろ試した方がいいって!」

「ものは試しというわけか。だが、いきなり緑はハードルが高い気がする……」

「何のハードル? でもだったらコーラとかにしとく?」

「ああ、まだ黒い方が大丈夫な気がする。……こっちは舌黒くなるのか?」


 二人揃って席を離れ、ドリンクカウンターへ向かった。製氷機の口にグラスを近付けると細かく砕けた氷が落ちてくる。その様子は既にウーロン茶を注いだ際に見ているにも関わらず、巧人の肩を跳ねさせた。


「なんないなんない、多分。少なくともオレは見たことない」

「そうか、なら安心だな」


 いくつものカラフルなボタンがドリンクサーバーに並ぶ中で一際目立つ赤いボタンを押すと、勢い良くコーラが抽出される。これにもまた巧人はびくっとし指を離してしまう。グラスの下の方にだけ僅かに注がれ抽出が止まる、この失敗も二回目だった。

 秋に「またやってる」と笑われると、不服そうに頬を小さく膨らませもう一度赤いボタンを押した。


「ホントにドリンクバー初めてなんだな」

「つ、次はもう失敗しない……ずっと押す」

「そんで止めたいときに離す! めっちゃ当たり前のことはっきり言うと変な感じだな」


 去り際に後ろに並んでいた小学生かそれにも満たないくらいの少年が母親に抱きかかえられながらも上手にドリンクバーを使いこなしているのを目撃し、巧人は純粋に凄いと目を見張る。少年はこてっと首を傾げ、コップの中身をこぼさないように慎重になりながらてくてくと自分の席に戻っていった。


「巧人といるとなんかおもろいしやっぱ楽しい」

「何も面白いことは言っていないが」

「それでも。なんでもねー会話で笑えるとか最高じゃん! 巧人は今楽しくない?」

「そんなことない、楽しい……多分」


 席に戻ると、グラスの中に注がれた黒い液体をじっと見つめながら巧人は返答した。


「楽しいに多分とかある?」

「……コーラもドリンクバーもファミレスも友達も……何もかも初めてなんだ。ちょっとくらい悩ませろ……」

「いいよいいよいっぱい悩んだら。オレがいつか絶対『楽しい!』って自信満々に答えさせてやるから!」


 根拠も何もないはずの秋のその言葉が妙に頼もしく聞こえ、初めてだらけで自分でさえ上手く捉えられずにいた感情の輪郭りんかくを教えてくれるような気がした。


「はー巧人が悩んでる分、オレは数学に悩まされるとするかー。っと、その前に巧人のコーラ初体験を忘れちゃいけねーよな!」

「……課題から逃げる口実にしてないだろうな?」

「してないしてない! 逃げたってどーせやらなきゃいけねーんだから逃げねーって!」

「そうか」


 どうせなら「バレたか」とくらい言ってほしかった。そんな期待をよそに秋はスマホを録画モードにし、巧人を映した。

 目の前にある黒い液体を今から飲むのだと思うと急に緊張してきたのだ。逃げ出したいのは巧人の方だった。


「え、なんでコーラ前にしてそんな表情硬いんだ?」

「これ、すごいパチパチいってるぞ。本当に飲んで大丈夫なのか……?」

「パチパチって可愛いな……じゃなくて、炭酸だし大丈夫だって。オレがさっき飲んでたの見てなかった?」

「見てた、凄いなと思ってた」

「なんも凄くねーからとりあえず飲んでみろって!」

「あ、ああ……」


 巧人は手の震えを抑えながら恐る恐るグラスを口元まで持っていきゆっくりと傾ける。唇に炭酸が弾ける感触がし、ぞわりと何かが駆けていくようなむずがゆさが全身に広がる。目をぎゅっと瞑り一息に口に含むと、舌や内頬を無数の小さな刺激が襲い逃れるように喉へ流し込んだ。


「……口の中で甘い液体が暴れてるみたいでなんかくすぐったい……。飲み込んでも喉の奥で泡が弾けてた感覚がまだ残ってる。だが、不思議といやな感じはしない。美味いな」

「だろ〜? この味と刺激知らねーとかもったいない!」


 巧人が炭酸の余韻よいんにむずむずしている前で、秋はごくごく喉を鳴らしコーラを飲み、グラスから口を離すと「ぷはぁ~っ」と大きく息を吐いた。


「秋は俺の知らないことをたくさん教えてくれるな。走ったときに感じる風や誰かと過ごす放課後、俺一人じゃ一生知らないままだったことばかりだ。……友達って、いいな」

「なんだそれ、当たり前だろそんなん。でもなんかそーゆーこととかオレが当たり前に思ってたこと、実は全然当たり前なんかじゃなくてすごいことだったんだなって巧人と友達になって気付いた。大事にしないとだよな!」


 秋は自分のグラスに入ったコーラを眺める。炭酸の泡がそれぞれに上へ上へと浮かんでは消えていき、耳を澄ますとささやかに音を発している。そのまま口に含むとあの心地良い感触が舌先から伝わり、唯一無二ゆいいつむにのカラメルの甘さと清涼感が広がった。当たり前だと疑いもしなかったコーラの味わいを丁寧に確かめ、美味しいことを改めて実感してから飲み込んだ。


「巧人の知らないことをオレはいっぱい知ってるかもしれねーけど、逆にオレの知らねーことを巧人はいっぱい知ってるよな。たとえば、この問題の解き方とかさ」

「それは今から教えるから」

「うんうん。そんな感じでさ、知らねーこと教え合っていけるような関係になりてーよな。つーか、そもそもオレたちお互いのこと全然知らなくね? それ結構な問題だと思うなー。自己紹介もちゃんと聞いてなかったわけだし、ここで改めてやるってどう?」


 秋の提案に、動かし始めたばかりの手を止める。『問2』とだけ書いた新しいページ、次に考えることが自己紹介だとは思ってもみなかった。難易度が急激に跳ね上がる。


「今から自己紹介するのか? だが、俺はあのときも名前しか言わなかったし何言えばいいのか分からん……」

「それは安心しろって、オレが訊きたいこと質問するしそれに関してオレも答えるから」

「そういうことなら……分かった」


 巧人は深呼吸し息を整え背筋を伸ばす。ただ自己紹介をするだけ、巧人にとってはそんな軽い気持ちではいられなかったのだ。


「よしっ、じゃあ嘘はなしだからな。自己紹介だからとりあえず名前から? オレは柞木秋!」

「槙野巧人、これ絶対いらないだろ」


 新学期にした自己紹介が、いかに中身がなく意味もないものだったのかと言いながら気付き反省する。あのときの微妙な空気を今になって受け入れようと思い改まる。


「いやいや一応形式的に? んじゃ次は……誕生日とか? オレは十月二十三日!」

「八月九日。秋はやっぱり秋生まれなんだな」

「まあさすがにな。巧人が夏生まれって意外!」

「兄さんにも昔言われた。次は何を言えばいい?」


 テンポの良い自己紹介のラリーが続く。好きな食べ物、家族構成、休みの日の過ごし方……どんどんお互いのことが知れてだんだん巧人も乗ってきて楽しくなってくる。


「んーそうだなー、次は趣味とか特技とか知りたいかも。オレはゲームとか走るのとか好きだし得意かなー」

「俺はそれ両方とも苦手だな。趣味や特技か……読書と勉強だろうか」

「うわぁ、オレどっちもダメだ。って、オレら何もかもめちゃくちゃ正反対だな」


 見事なまでの不一致に、だからこそパズルのピースがぴったりはまるように噛み合うのかもしれないと秋は感じる。同級生でありながら全く違う生き方をしてきた二人だから上手くいくこともあるのかもしれないと未知の可能性に心をおどらせた。


「そうだな。きっかけがなければ俺たちは関わることもなかっただろうし縁って不思議なものだ」

「ホントにな。オレ、頑張って光陽台来て良かったわ。そうだ、巧人はなんで高校光陽台にしたんだ? めっちゃ頭良いんだしもっと賢いとこ行けたんじゃねーの?」


 以前、梅田にされたのと同じ質問。しかし、巧人の回答は違った。


「家が近かったから。通学に使う体力は極力少なくしたかったんだ」

「あーなるほどな。毎日学校行くだけで倒れてらんねーもんな」

「秋はその、なんというか……無理して光陽台来たのか? 中学からの友達もいないみたいだし部活に目立った実績もないなのに」

「だからこそ、かな」

「え?」


 それまで笑顔でいた秋の表情が途端に曇る。巧人が眉をひそめ顔色を伺っているのに気付くと無理矢理作り笑いをするので余計に痛々しい。


「オレ、中学のときは陸上部のエースだったんだ。そこそこ有名で名門から推薦も来てたんだけど、三年の最後の大会直前に怪我してさ……。それで陸上続けらんなくなって推薦もなくなって、もう忘れようって思って陸上部がない高校選んだってわけ」


 俯いて自分の脚をさする秋にかける言葉が見つからず、巧人も同じように俯いてしまう。話の流れだったとはいえ無神経だったかと後悔した。


「そんな悲しそうな顔すんなって、選手にはもう戻れねーけど日常生活に影響はねーから。ほら、巧人を保健室まで運んだときみたいに全く走れないってわけじゃねーし!」

「でも、将来有望で何より秋は走るの好きだって……。そんなことなら俺が代わってやりたかった、俺はどうせ走れないから脚だけ健康でも仕方ない」

「やっぱ巧人は優しいな、センセーが言ってた通りだ。だったらそれはオレのセリフだよ。巧人のしんどいの、オレが代わってやりたい。そしたら身体のことなんて気にしないで頭良い学校行っていっぱい勉強できるだろ? あ、でもそうなったらオレたち出逢えてなかったのか。なんだろ、嬉しいって言うのも変だけど、怪我して悔しかったのちょっとマシになった」

「……俺も自分の身体のこと、少しだけ許せる気がする。全部秋のおかげだ」


 欠けていたから埋め合わせるように引き寄せられ出逢えたのかもしれない。お互いそんな風に思うと、今まで恨めしく思っていた文字通りの欠点が不思議と悪いことではないように思えた。

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