#6 芽吹いた双葉と一面の青

「君、お弁当派なんだね。ちょっと意外だった」


 廊下に出た誠弥は秋に自然と話題を振る。秋はそういったタイプではないと思いながらも、やはり教師と二人きりの状況に息苦しさを感じる生徒もいるだろうと考えての配慮だった。


「うち、両親が共働きで下に弟妹きょうだい多いから家事はオレが担当すること多くて。だいたい毎日前の日の夕飯の残りをテキトーに詰めてるだけなんですけどね」

「へぇ、すごい家庭的。お嫁さんに欲しいタイプだね」

「お嫁さんって、どーせなら婿むこにしてくださいよ。最近は主夫ってのもいるみたいだし、オレが女役ってキツいでしょ。そーゆーのは巧人みたいな奴がやるべきっす」

「言えてるかも。タクのウェディングドレス姿かぁ……めっちゃ似合うな」

「やべー、めっちゃ想像できるしすげー可愛い……」


 二人して脳内に巧人の花嫁姿を思い浮かべ、だらしなくにやついている。そしてどういうシンクロか、揃って想像の中の巧人に「やめろ」と咎められた。


「ねえ、巧人って昔はどんな子だったんすか?」

「えーっとね、泣き虫で寂しがり屋で甘えん坊で……。でも、強がってそういうとこ簡単には見せようとしない。それでいて何にでも一生懸命で頑張り屋さん……って、やっぱり今とほとんど変わんないな。昔の方がもうちょっとだけ素直だったけど」


 誠弥は幼い頃の巧人を思い返す。会う度に手を繋いだり抱きついてきたりスキンシップをしてくれていたのに、最近はめっきりなくなってしまったとしんみりと物寂しさ感じていた。


「じゃあ一人になりたがってたわけじゃないんだ」

「そういう気配出してた?」

「気配かは分かんねーけど、ときどきオレたちの方見てたんですよ。睨んでるわけじゃなくてただじーって感じで。話しかけてきたりはしてこなかったしこっちのメンツが話しかけても素っ気ない反応しか返さなかったっぽいけど」

「不器用だなぁ。きっと内心では『僕と喋ってくれるの?』って喜んでただろうに。何話せばいいか分かんなくて誰にも話しかけられないって昔からそれの繰り返しだったから、君みたいな子が現れて良かったよ」


 誠弥は「ありがとうね」と巧人に代わって改めて頭を下げた。秋は寧ろ気が引けてしまい「いやいやいや」と繰り返し振る手を止められない。


「結局俺が何かするまでもなく友達できちゃったし、あんまり構い過ぎるのも良くないのかなぁ……。過保護と思われるのもいやだし、というか既にちょっと避けられてそうだし……。距離置くのも大事だったりするのかな?」


 誠弥は誰もいない廊下の先を見つめ思い詰めたようにため息交じりに吐き捨てた。「ちょっと寂しいけど」と付け加えると、返答を期待するわけでもなく眉尻を下げて秋に笑いかける。


「タクのことよろしくね……なんて言ったらホントにお嫁に出しちゃうみたいだな」

「じゃあオレは、幸せにします……って答えるべき?」

「待って、今すっごい胸締め付けられたからやっぱりなしにしよう。好きなパンおごるからタクのこと独り占めしないで!」


 誠弥は立ち止まってまた頭を下げ今度は手も合わせた。腰を低くし懇願こんがんされ秋は困惑し一歩後ずさる。


「いや、友達だし独り占めする気なんてないですって! あ、でも久々にカツサンド食いたい……」

「ちゃっかり一番高いの要求してない? まあ、タクのこと思えば安すぎるくらいか。よし、手を打とう」

「マジっすか! センセー太っ腹〜。じゃ、約束っすからね!」


 喜びを身振りにも溢れさせ秋は、教室のある階へ続く階段を軽い足取りで二段飛ばしに上っていった。


「生徒を買収してしまった……怒られるかなぁ」


 万が一を思うと背筋が凍るような心地がしたが、そんなわけないと言い聞かせる。手汗が滲むのを誤魔化す為に誠弥は白衣のポケットに手を突っ込み、生徒でごった返す戦場と化した昼の購買へ足を踏み入れた。




 * * *


「おまたせ〜。巧人、一人で寂しくなかったか?」


 一足先に戻ってきた秋はソファに座ったまま動かず待機していた巧人に声をかける。引き戸が開く音に反応していた巧人はそちらを向いていたので自然と目が合った。


「たかが五分くらいで寂しいわけないだろ」

「じゃあもうちょっと長かったら寂しかったってこと?」

「別にそういうわけじゃ……。だが、あんまり遅かったら少し心配にはなる……それだけだ」

「巧人は優しいなぁ。教室戻ってただけだしなんも心配されるようなことねーけど。センセーももみくちゃにされて潰されてなかったら平気だろうし」

「そうか、あの人混み……。入っただけで疲れた覚えがある。大丈夫かな、兄さん……」


 巧人は以前昼休みに購買に行ったときのことを思い出し苦い顔をした。

 先輩も後輩も友人も他人ももれなくお互い天敵へと変貌へんぼうし、そこにいる全員が揃いも揃って己の為だけに動く空間。『数量限定』『なくなり次第終了』そう打ち出されたA4コピー用紙の掲げられる下、壮絶なパンの争奪戦が繰り広げられていた。人山を崩す力も人海を泳ぎ進む力なく、やっとの思いで伸ばした腕が飲み込まれ抜け出せなくなった瞬間に流れた冷や汗を巧人は忘れることができなかった。


「センセーなら大丈夫っしょ。体格もあるし何より先生オーラとかなんかそーゆーので道切り開けそう、ぱっかーんって」

「だと良いが……くしゅんっ」

「えっ、くしゃみかわい」


 非現実的で荒唐無稽こうとうむけいな空想に巧人はツッコミを入れることなく受け入れた。さらにそこに重ねるように控えめなくしゃみを一つ。想定外の連鎖に秋は何を考える間もなく思ったことがそのまま口に出てしまう。


「くしゃみが可愛いってなんだ……くしゅんっ。さっきから何故かよく出る、部屋は清潔だし花粉症でもないはずなんだが」


 よく晴れた日、朝のニュースでまだ花粉の飛散が多い地域もあると言っていたことを思い出し、巧人は開けていた窓を閉める。それでもまた「くしゅんっ」と小さく出てしまう。


「もしかして、誰か噂してるとか? さっきはセンセーと巧人の話してたけど」

「俺の話?」

「うん、昔どんな子だったかとか。あと……あ、これは黙っとこ」

「なんだ、気になるだろ」

「巧人が可愛いって話」

「意味が分からん……」


 はぐらかされている気がして、たった数分間の会話でさえ巧人は気になってしまいもやつく。二人でどんな話をしていたのだろうか、悪く言われていたらショックだなと過剰に不安がり両手を胸の前でぎゅっと握り締めた。


「にしてもセンセー、ホントに巧人のこと好きよな〜。大事に思ってるんだってすっげー伝わってきたし!」

「それは俺が〝弟〟だからってだけだろ」

「でも、ホントの兄弟じゃねーだろ? なのにあんなに考えられるってそれだけ特別だってことじゃん!」

「そう、なんだろうか……」


 自分が誠弥にとって特別な存在ならそれ以上に嬉しいことはない。隣に座った秋は「愛されてんな」と肩に手を置き笑っている。その一言で不安になるようなことはないのだと気付かされ、くよくよしていた気持ちが多少軽くなった。

 誠弥に可愛がられていることは分かっていた。そうでなければ用がなくても週に一回は必ず連絡をくれたり頼まなくてもあらゆることに手を貸してくれたりはしないだろう。だが、それは愛されていると言うのだろうか。可愛がってくれる誠弥の視線はいつも上の方にある。その視線が真っ直ぐ見つめた先の対等の位置にあること、それが愛し愛されるということなのではと巧人は考えていた。今はまだ到底届きそうにないのだ。


「だから安心しろよ。今もセンセー誰かと巧人の話してるかもしれねーけど、絶対悪い話じゃねーって」

「……兄さんに限って陰口なんて言わないだろうしな。そうだ兄さんに限ってそんなこと」

「俺がどうかした?」


 巧人が自分にそう言い聞かせていたところに誠弥が帰ってくる。白衣が着崩れていて髪も心做しかぼさついている。昼食購入戦争に見事に巻き込まれたらしい。


「! 兄さん……。兄さんが、俺の話……してたって聞いたから……」

「あーうん、タクをお嫁さんにはさせないって話?」

「は……?」

「あ、それ、言っちゃうんだ」


 せっかく慣れない誤魔化しをしてまで伏せていたことをあっさり開示され、秋はすっかり気が抜けてしまった。一方の巧人は一体何のことかと首を傾げている。


「タクももう子供じゃないから、俺がなんでもかんでも干渉して過保護になるのは辞めようと思ってね。彼が友達になってくれたのもあるしタクのことよろしくお願いしようとしたんだけど、なんだか俺の方が寂しくなっちゃって……えへへ」

「それで嫁なのか? だったら婿でも良かっただろ」

「いやいやそこは譲れないな」

「なんでだ」


 誠弥の謎のこだわりに疑問を呈していてその中身への注目が遅れる。時間差でとんでもないことを言っていると気付き、巧人は立ち上がり早口に言葉を続けた。


「というか、過保護ってなんだ。辞めるって俺のことどうするつもりだったんだ」


 唐突に距離を置こうとされていたことを知り、悲しさや寂しさ、辛さに怒りまで混じりネガティブな感情が渦巻きぐちゃぐちゃになる。目一杯に力を込めた拳は手のひらに爪が刺さって痛い。


(どこにも行かないって言ったのに……)


 泣いてしまってもおかしくないような状況でありながら、それを表情に反映しない巧人は一見とても冷静に見えた。


「まあまあ落ち着いてって、言った通り結果的には何もするつもりないから。だけど、いくら昔からの付き合いだからって教師が一人の生徒に肩入れするのもどうかと思ってね。それに、タクも俺があれこれするの迷惑だと思ってるんじゃないかなって……」

「そんなわけあるか、いつそんなこと言った? 兄さんがいてくれて俺はどれだけ救われたか。兄さんがいなかったら生きてるのなんて苦しくてつまらないだけだった」


 巧人は誠弥の方を向くのをやめ俯いた。自分の立つ足下を見据みすえる。思っていたより遠くにある二十五センチの足、それがそこにあるのは誠弥のおかげなのだと改めて胸に刻むと前を向いた。雲一つない初夏の青空がどこまでも広がっている。


「それは今でも変わらないから。もし何人友達ができても楽しいことをいくつ知っても、俺はずっと兄さんに傍にいてほしい」


 告白も同然の言葉もそのつもりをしていないとすんなりと言えてしまうから不思議だ。顔を見せていなかったことが幸いだったか、その後すぐに耳まで紅潮しきった姿を誠弥に見られることはなかった。


「で、でもさすがに男子高校生に何の用もないのに週一でメッセージ送ってるのは親でも過保護だろうし、ましてや先生からっていやじゃない?」

「何言ってるんだ、今まで送ってもらったメッセージも全部残……っ。……全然、いやなんかじゃ……ない……」


 言いかけた言葉をすんでのところで止めなんとかその場をやり過ごす。まさか『よろしく』なんて最初のメッセージからつい一昨日来たスタンプまで全てに保護をかけているだけでなくバックアップまでとっていて、さらにすぐに見返せるようにトークルームをトップにピン留めしているなんて言えるはずがない。そんなことを知られれば寧ろ自分が引かれて嫌われてしまうに違いない。悪い想像ばかり頭を駆け巡る。巧人は力なく着席し、手に取りかけたスマホをブレザーのポケットの中で強く握った。


「巧人も巧人でセンセーのこと好きすぎっ。付き合いたてのカップルかよ」

「ばっ、馬鹿なこと言うな……」

「そうだね、タクが女の子だったらあるいは……ってこんなこと言ったら教師としてまずい? でも〝弟〟だろうと〝妹〟だろうと俺がタクを可愛がることに変わりはないよ」

「…………っ」


 誠弥はゆっくりと巧人に近付き、しゃがんで後ろから優しく頭を撫でた。少し俯いて頬を紅らめる巧人は膝を閉じ大人しくしている。


「さ、そろそろ食べよっか。はいこれ約束通りカツサンド、ラスト一つゲットするの大変だったんだからね」

「うおっ、マジで奢ってくれるんすか! やった!」

「はい、タクもここから好きなの選んでいいよ」


 誠弥がテーブルに袋を置くと入っていたパンが数個雪崩なだれた。それだけいっぱいに入っていたのだ、大勝利を収めたらしい。


「随分たくさん買ったんだな、こんなに食べきれないぞ」

「大丈夫、余った分は持って帰ればいいから。秋の家は弟妹多いんでしょ? あげたら喜ぶんじゃない?」

「ええっ、弟たちの分まで良いんすか⁉ センセー優しすぎっ」


 誠弥は巧人が真ん中に来るように座り、崩れた身だしなみを整えながら二人が物色する様子を見守る。積極的に弟妹のことを考えながら選んでいく秋に対し、巧人は控えめに一つ選び取った。


「タクはそれ選ぶと思った」


 外はさっくりとしていて中までよく蜜が染みてこんがり焼けたハニートースト。購買でも一、二を争う人気商品だ。


「巧人、甘い物好きなん?」

「別に。食べ物に好みは特にない」

「恥ずかしがることないでしょ。たしかに少食だし好き嫌い自体少ないけど、昔からチョコとか好きなのに」

「わ、わざわざ言わなくてもいいだろ……」

「可愛いなぁ」

「何回も言うな……」


 照れながら巧人は袋に無造作に手を突っ込み触れたものを取り出す。クリームサンド、また甘い物だ。


「…………」

「やっぱめちゃくちゃ甘い物好きなんじゃん!」

「いや、適当に取ったらこれだっただけで……。兄さん、さては甘いやつ多めに買ってきただろ」

「はは……これは完全に無意識だね。いいでしょ、お父さんやお母さんに内緒で甘い物いっぱい食べなよ」

「……たまには悪くないか」


 悪魔の囁きを渋々納得し、巧人はハニートーストを小さくかじる。じゅわっと広がる蜂蜜の甘さに思わず口元が綻んだ。


「オレも食ーべよっと、いっただっきまーす」

「おっ、美味しそうじゃん。ねえタク、これ自分で作ったんだって」


 秋が広げた弁当の中身は色とりどりで肉や野菜のバランスも良く食欲をそそる匂いがしてくる。


「タクも両親忙しいんだし見習いなよ?」

「……兄さんには言われたくない」

「俺は可愛い彼女に作ってもらう予定だから」

「え! センセー、彼女いるの? どんな人?」


 肉野菜炒めを食べる箸を止め、秋はその二文字に食いつく。教師という身近でありながらプライベートな部分はあまり見えてこない存在だからこそ余計に気になってしまうのだ。


「教えてあげよっか? どうしよっかな〜」

「騙されるな秋、彼女なんていないくせに」

「もう、バラさないでよ。でも、俺は彼女いないんじゃなくて作らないってだけだから」

「なんだ、本当にいないのか」


 心の中で「良かった」と呟くと巧人はまた一口ハニートーストを口に運んだ。誠弥に恋人がいないことが嬉しくて勝手に上がってしまう口角を甘さのせいにする。


「あ! タク、カマかけたな! クリームサンド没収!」

「別にいい」

「そんなんじゃいつまで経っても女子より軽いままだよ?」

「……やっぱり返せ」

「あははっ」

「「?」」


 突然笑い出す秋に、笑われるような心当たりのない巧人と誠弥は疑問の声を揃えた。


「巧人とセンセー絡んでんのめっちゃ面白い」

「ははっ。でしょ、タクと話してると面白くて楽しいの」

「オレ、巧人と友達になれてホントに良かった! なあ、巧人は?」

「俺は……」


 初めての友達に喜びだけでなく衝撃や感動まで覚えていた巧人には今の気持ちを一言で言い表すことは到底できず、言葉を詰まらせた。甘さに逃げることもできないで上手く纏めて伝えようにも、校内中に放送されている恐らく流行っているのであろう知らない音楽が思考の隙間に入り込んでさまたげてくる。


「友達ができたことはもちろん嬉しいし良かった……と思う。だが、それが秋で良かったかと言えばよく分からない。秋以外が俺の友達でいるところを想像できないから」

「タクは深く考え過ぎ。秋が友達になってくれて嬉しかったらそれだけで良いんだよ」

「それは、嬉しい。……秋、俺の友達になってくれて、その、ありがと……」


 巧人は隣に座る秋の方に身体ごと向き頭を下げた。秋は「いいっていいって!」と肩をぽんぽんと叩き頭を上げさせた。


「これからよろしくな!」

「よろしく……」


 生まれたばかりの新しい人間関係に三人はそれぞれ希望に胸を膨らませ笑顔になる。穏やかながらも賑やかな昼休みは和気藹々わきあいあいと過ぎていった。

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