#4 いつも通りと初めてと

 朝学活が始まる十五分程前に巧人が学校に着くと、既に騒がしい声が教室から溢れていて廊下まで響いていた。入りにくい、目に見えないバリアが開け放しになっているはずの入口に張られているみたいだ。手を伸ばせば静電気のように弾かれてしまいそうで前に進めない。だからと言って立ち尽くしてもいられず恐る恐る足を踏み入れた。何も変わらない。騒がしい者たちは騒がしいままで、教室に一人増えた程度では何も変わらない。


「おはよっ」

「おはよー」


 そんなやりとりが聞こえてくる。挨拶はコミュニケーションの基本だと言われているが、それは気心が知れているからこそできることだ。自分が教室に入っていきなり「おはよう」なんて言ったところでたまれない空気になるだけだ。巧人はそう決めつけていた。そんなことだけで誰かと親しくなれたりするはずがない。

 黙って席に着き、持ってきていた文庫本を開いた。


「おっはよー!」


 入口の前に立ち眩しい笑顔を振り撒くその男子は、元気の良すぎる挨拶をするとごくごく自然に中心グループに溶け込んでいく。


(あいつはたしか……)


 耳に勝手に入ってきた声に反応し巧人は入口の方を向く。珍しく同じ中学出身でないその男子の顔を覚えていた。入学式で恥ずかしげもなく堂々と居眠りしていた奴だ、どうやら同じクラスだったらしい。


「寝坊して遅刻しそうだったから全力で走ってきた!」


 柞木ゆずのきしゅうは活発な男女たちに歓迎されると、息一つ切らさず笑いながらそう話すのでそんな素振そぶりを少しも見せない。寝癖が付いていたのか前髪に留めたヘアピンは女子から好評でこれからも付けてこようかと気に入った様子だ。


「あっ、そうだ。さっき廊下でめっちゃ可愛い女子見つけた!」


 そんなたわいもないことを言うと男子からは「どんな子?」「会いに行こーぜ!」と食いつかれ、女子からは「私たちより可愛いってこと?」などと冗談半分に言われては周りを笑わせている。


「女子はやっぱショートヘアが正義だと思わね? まあ、他のクラスの奴と絡む前にクラス全員と仲良くなるのが目標なんだけどさ。まだ何人かは話しかけられてもねーんだよなー」

「あー、全員と仲良くってそれはいくら秋でも無理じゃねーかな」

「ん、なんで?」

「だってうちのクラス、アイツいるだろ」


 秋を除いた中心グループたちは「あー……」と揃って巧人の方を向くので秋も遅れてそちらを見る。誰とも関わろうとせずに本を読むその姿から話しかけるなというオーラがにじみ出ていた。


「……可愛い……」

「「は?」」


 ほうけた目をして呟かれた秋の言葉に一同は声を揃える。すぐにはっとした秋は取り囲む面々の顔を見ると決まりが悪そうに頬を掻いた。


「いやえっと……話しかけにくそう?」

「当然それもあるけど。俺らアイツと中学一緒でさ、貧血持ちで身体弱いのかなんか知らねぇけど全然教室来ねぇし、たまに来たと思って話しかけたらめちゃくちゃ冷てぇんだよ」

「え、アイツあのドラキュラって呼ばれてた槙野だったんだ。私も中二のときクラス同じだったけどあんまり顔見なかったから分かんなかったよ」

「ドラキュラ?」

「そ。貧血持ちで顔色悪いし性格も冷たくていっつも一人だからみんなそう呼んでたんだ。体育の授業もずっと日陰で見学してたらしいし、でも逆に勉強はすっごいできて授業受けてないのにテストは毎回満点だったとか。ここの入試もダントツでトップだったらしいし、なんかいろいろ人間離れしてるよね」

「そうそう。俺らみたいな平凡な奴にはまるで興味なしって感じで、成績良いこと鼻にかけてバカにしてんだろうな」

「そんな風には見えねーけどなー」

「人は見た目で判断するもんじゃねーよ。ま、見とけって」


 そう言い話題を切り出した張本人――梅田うめだが巧人に近付く。「なあ」と威圧感のある声で話しかけると、巧人は本を捲る手を止め顔を見上げた。


「お前、頭良いクセになんでこんな高校来てんの?」

「……そんなの俺の勝手だろ、好きにさせろ……」


 巧人は素っ気なく返し本の方へ視線を戻す。再び梅田の姿を視界に入れることはなかった。


「な、だから言ったろ?」

「何話してたか聞こえなかったけど、お前が嫌われてるだけじゃねーの?」

「そんなわけあるかよ、誰にでもあんな感じだからな。ほら次、お前行ってこいよ」

「えー俺、アイツと喋ったことない……あ、瑞樹みずきちゃん来た」


 そうこうしている間に朝学活の時間になり、担任教師の有沢ありさわ瑞樹みずきが教室に入ってきた。パンパンとクラス名簿で何度か軽く教卓を叩くと「みんな席着いてー」と呼びかける。


「やっべ、瑞樹ちゃんの言うことは聞いとかないとな」


 それぞれが自分の席へけた後も秋は巧人の方を見ていた。


(たしかに雰囲気浮いてるなー。つーか、あんな子うちのクラスにいたんだな。なんて話しかけたらいいんだろ)


 秋は珍しく悩んでいた。いつもなら何も考えずに自分の思ったことを好きなように話し、それが大体ウケて気付けば周りに人が集まっていた。だが、巧人はまるでこちらに感心を向けてくれない。窓際で静かに読書をしている姿がとても絵になり、昨日のテレビにも流行りのアーティストにもどうも食いついてくれそうにない。

 それでもせっかく同じクラスになれたのだ、秋はなんとしてでも仲良くなりたいと思っていた。


(……朝から騒がしかったな。あいつ、なんで話しかけてきたんだ? もしかして罰ゲームってやつか……?)


 そんな秋の思いを知るよしもない巧人は、担任が話を始めてもなお本へ意識を向けている。『罰ゲーム』という文字に目が行ったまま考え込みそのページから動けない。


「槙野、体調大丈夫?」


 話を終え、担任は教室を出る前に巧人の元へ来てそう声をかけた。


「…………」

(兄さん、余計なことしたな……)


 誠弥が何か言ったのだろう。また自分の知らないところで親しく話をしていたのかと思うと、巧人は途端に機嫌が悪くなり担任をにらみ本をぱたりと閉じては応答することなく机に突っ伏した。


「ほら見ろ、瑞樹ちゃんに対してでもあんな態度だ」


 その様子を見ていた梅田は声をひそめ秋に告げる。その後少し俯き落ち込んだ顔をして去っていく担任に、同じグループの桐原きりはらが「瑞樹ちゃんは悪くないよ」とはげましてやった。


「んー、これはなかなか大変そうだな」

「諦めろって、あんな奴と仲良くしてもなんも良いことねぇぞ」

「良いとか悪いとかで人付き合いって考えなきゃいけねーのかな。オレはオレが仲良くなりたい奴と仲良くできればそれで良いと思うけどなー」

「まあせいぜい頑張れよ」




 * * *


 高校生活が始まり一ヶ月が経過しようとしていた。クラスもすっかり馴染んできて部活や委員会が始まったこともあり、ある程度人間関係が形成されようとしている。数人で固まって登校する姿も多く見られる中、巧人はやはり一人でいた。一ヶ月連続で登校できたことは彼にとって快挙であったが、友達ができないのは例年通りでただただ疲労だけが蓄積していた。


(朝から身体が重いのは久々だな……。頭も痛い……今日は休んだ方が良かったか? いや、ここまで調子が良かったんだ、今休んでは癖付いてしまう)


 なだらかながら確実に傾斜のある坂道を恨みながら、巧人は息を切らし少しずつ少しずつ登っていく。空を見上げると朝日が透き通るような青の中に輝いていた。


(眩しいな……。それに、暑い……今日はカーディガンいらなかったか……っ)


 日差しを手でおおい隠し眩しさに目を細めていると、ふっと全身から力が抜けていく感覚し同時に立っていられる力が失われる。



(結局、一ヶ月も経ったのに槙野にだけ話しかけられてない……!)


 秋は頭を抱えていた。自宅を出てから高校の校舎が見える道までかなりあった距離を走ってきても吹っ切れず「今日頑張れば良い」というようないつものポジティブシンキングが全く発揮されない。

 挨拶をしようにもあっという間に仲の良いクラスメイトに囲まれてしまい、移動教室のタイミングで話しかけようとしてもいつの間にか巧人の姿は教室から消えていることの繰り返しだった。体育の授業中なら動き回っている中でどさくさにまぎれ声をかけられるだろうと思っていたら、聞いていた通りずっと隅でお行儀良く座ってレポートを書いていてすきがなかった。


「あ――――もう‼」


 気合を入れ直そうと声を上げると、近くを歩いていた同じ制服姿の大半が驚き秋の方を見た。秋は集まる視線よりこちらを見ていない一人の後ろ姿が気になった。


(あれ、槙野じゃね? なんで道の真ん中で空見て突っ立ってんだ?)


 話しかけるなら今ではないか、自然な感じで「おはよう」と言えばいい。意を決して駆け寄り肩を叩こうと腕を伸ばしたそのとき、視界から巧人がフェードアウトしていく。


(え……っ)


 考えがおよぶよりも早く、秋は咄嗟にしゃがみ伸ばした手で巧人を支えてやった。巧人は真っ青な顔でぐったりしている。


「……っと、大丈夫?」

「……あ、ああ……。……すまない……いつもの、ことだ……」

「いつもって……あれ? 声低っ……。えっ、もしかして、槙野って男子……?」


 決して低すぎることはないが完全に声変わりのしきっている、聞けばまず間違いなく男性だと認識する声。それが可愛らしい中性的な顔立ちと一致せず、秋の頭の理解が追いつかない。


「は……? そんなの、制服を見れば分かるだろ」

「うちの高校、女子もパンツスタイルオッケーじゃん」


 「あえてスカート選ばない女子……良いよなぁ〜」と言いながら辺りを見回しにやにやする秋の視線を追うと、たしかに数人パンツスタイルの女子がいた。ジェンダーレス制服である。


「…………。とにかく、俺は男だ……」

「まじかぁ……。じゃあアレは……じゃなくて! お前いつもこんなふらふらな身体で学校来てんの? 無理せず休めって、家どの辺? 送ってやるよ」

「いや、いい……。学校着いたら保健室に行く。お前も俺にそこまでする義理はないだろ」


 巧人ははっきり言って鬱陶うっとうしいと思っていた。人通りの多い場所で倒れてしまった自分にも非があることは自覚していたが、よりによって助けてくれたのが学年でも一際目立っている奴だった。通学路の真ん中でできれば関わりたくないと思っていたそんな人物に介抱かいほうされたばかりに集めてしまった注目が苦痛なのだ。


「何言ってんだよ、同じクラスなんだから義理とかそーゆー難しいこといらねーだろ?」

「…………」

「え、もしかしてオレのこと分かんない?」

「……入学式で居眠りしてた奴」

「いやどんな覚え方だよ! 名前とかは⁉ たしかにあのときは徹夜でゲームしてて眠かったし退屈だったからちょっと仮眠してたけど!」


(……騒がしい奴だな……。頭に響く……)


 元気いっぱいの明るい声が頭に鈍い痛みを与え顔が歪む。その辺の電柱にでももたれかけさせてくれればあとは一人で回復を待てばいいだけなのに。介抱してくれるのならせめて静かにしてほしい、そう思う一方でこんなに会話が続くことも珍しいので巧人は楽しくなってしまっていた。


「……そういうお前こそ、同じクラスで自己紹介聞いてたら俺が男だって分かっただろ……」

「いやぁ、ま行入ったあたりから何言おうか考えててあんま聞いてなかったんだよな。つーか、お前もオレの名前知らなかったってことはちゃんと聞いてなかったんだろ」

「……一回聞いただけで覚えられるわけないだろ」

「頭良いクセに? そんなだから冷めてー奴だって噂広まるんだぞ。オレは柞木秋な、覚えててくれよ」

「ああ、名前は覚えておく。……もう大丈夫だ、助かった。お前も遅刻するから早く行けよ」


 巧人は秋の腕に支えられたままの身体を起こそうと力を込めるが、どこかかられていくように全く入らない。


「いやいや放っとけるかよ、歩くどころか立つのもやっとだろ。オレが保健室まで届けてやる!」


 そう言って秋は巧人の背中を支えていた腕の片方をひざ裏へやりそのまま立ち上がった。お姫様抱っこだ。


「うわ、軽っ」

「な……っ、やめろ、俺は女じゃないって言っただろ」


 抵抗しようにも大きく暴れるような体力はないので巧人は威圧するような視線を送るが、秋にとっては可愛い顔で上目遣いをされているだけだった。


「下手すりゃ女子より軽いクセに何言ってんだ、女子持ち上げたことなんてないけど。お前そんな可愛い顔してんなら女子にカウントしてもギリオッケーなんじゃね?」

「か、かわ……? 何を……」

「つーかぶっちゃけ多分これが一番運びやすい、よし行くぞ!」


 戸惑いを隠せない巧人に、心を奪う風が舞う。冴えないまま重苦しかった頭がしゃっきり覚める風と周りの景色が凄い速さで流れていく。

 秋は軽やかな足取りで駆けている。自分だけの力では絶対に感じることのできない心地良さに、巧人は目を輝かせ鞄をぎゅっと抱き締めた。


(これが、走って感じる風か……。気持ち、良いな……)


 抵抗していたのが嘘だったように大人しくなり、巧人はそっと秋に身を預けた。




 * * *


「着いたぞ」


 保健室の前まで到着し、秋の声で気が付く。いつの間にか寝てしまっていたらしい。たった数分間でも夢見心地で、巧人は無垢むくな目で秋を見上げた。


「ん……もう着いたのか、早いな……。悪い、わざわざ……」

「いいっていいって。つーかホントに大丈夫か? 帰った方が良かったんじゃねーの?」

「……家にいたって一人で横になってるだけだ、それならこっちにいた方が良い」

「そんなもん? まあお前がそれで良いんならオレはなんも言わねーけど」


 秋は「保健室って今まであんま世話になったことねーから入んの無駄に緊張するな……」と呟き息を整える。「ちゃんと捕まってろよ」と言って巧人を片手で支えながら「失礼しまーす」とひかえめな声で言いゆっくりと引き戸を開けると、窓際にいた誠弥が振り返った。


「ん、どうかした……って、え? どういう状況?」


 〝弟〟が男子生徒にお姫様抱っこされている。友達の一人すら作れないでいたはずなのに、それでも『なんとか頑張ってみる』という連絡を最後に一ヶ月顔を見なかった間に一体何があったのか。誠弥の脳内で『?』がどんどん増殖していき埋め尽くされる。


「倒れそうだった槙野をオレが助けたんです!」

「タク、また倒れたの?」

「またとはなんだ……高校に入学してからは一度も倒れてなかっただろ……」

「たった一ヶ月でそんなに倒れてたらこんなとこにいる場合じゃないでしょ。薬は? ちゃんと飲んでないの?」

「……高校入ってから毎日初めての連続で、それどころじゃなかった日は少なくないと……思う……」


 朝から夕方前まで一日中授業を受け、放課後寄り道もせずに帰宅するだけでも巧人は相当疲れていた。薬の服用を忘れるどころか夕飯すら食べることなく寝落ちしてしまう日もあり、身体のバランスが徐々に崩れていきとうとう限界が来てしまったのだ。


「だめじゃんちゃんと飲まないと」

「ごめん……なさい……」


 何の反論もできず巧人は顔を逸らしながら謝罪の言葉をぼそぼそと口にした。


「謝る必要はないけど今日からは忘れないようにね」

「ああ」

「ところで、なんでお姫様抱っこ? 分からなくはないけど」


 「可愛いもんね」と誠弥が続けると秋は迷いなく頷き、二人の似たようなにやけ顔に巧人は顔をしかめる。


「……変な納得をするな。これには別に……深い意味は、ない……」

(こんな状況、兄さんに見られたのはまずかったんじゃ……)


 自分がお姫様抱っこをされていたことを意識し直すと、誠弥に対する想いに不誠実な気がしてきた巧人はばつが悪そうに目を逸らした。


「オレがこっちの方が運びやすいって言ったんですよ。な?」

「……もういいから、降ろしてくれ」

「ん、あーそっか、もう着いたんだしいいよな。ベッドで横なってる?」

「ああ……」


 巧人の素っ気ない返事を聞くと秋は「分かった」と言ってベッドに寝かせてやり、子供を寝かしつけるように掛け布団にそっと触れた。


「タク、せっかく優しくしてもらってるんだからそんな冷たい態度とっちゃだめでしょ」

「そんなこと言われても、冷たくしてるつもりはない。……しばらく寝る」


 そっぽを向くように背を向け、巧人は目を瞑る。誠弥はため息をつくことしかできず、秋に「ごめんね」と申し訳なさそうな顔をした。


「ちょっと不器用なだけで本当は優しくて良い子だから、許してくれると嬉しいんだけど……」

「そんな、オレぜんっぜん怒ってないですよ! それよりセンセー、槙野と仲良いんっすね」

「まあ、昔から知ってる間柄あいだがらだからね。タク……この子の父親が俺の大学時代の恩師で、その頃からお互いを兄ちゃんと弟みたいに思い合っててさ」


 誠弥はベッドの縁に腰掛け巧人の頭を撫でる。意識がはっきりしていたので巧人は僅かに肩を揺らした。


「へぇ、なんか良いなそーゆーの。槙野があんな風に喋ってるの初めて見たし、センセーはコイツにとって特別な存在なんだと思いますよ」

「それはそれで嬉しいことなんだけどね……やっぱり教室では全然喋ってないんだ。俺としてはちゃんと同級生の友達を作ってほしいって思ってるんだけど。君もタクの友達ってわけじゃないんでしょ?」

「えっ、いや……まあ……はは……」


 的確に事実を指摘され、格好悪く頭を掻き苦笑いする。どこからが友達だとかそういった細かいことを秋は一切気にはしていなかったが「友達だ」と言いきれる自信もなかったのだ。


「正直でよろしい、なんてね。タクも『友達なんていらない』ってずっと意地張っててさ。『じゃあ俺に会いに来てるの?』って冗談半分にいたら顔逸らして無視されちゃって。何の為に学校来てるんだって話だよね」

「でもオレ、今はまだ槙野の友達じゃねーかもしんないけど、ずっと喋りたいって思ってたし友達になりたいって思ってますから!」


 突然の秋の熱い意思の宣言に、誠弥は圧倒され目を見開く。


「そっか、ありがと。あーあ、せっかく友達になってくれるって言ってるのになんでタクは寝ちゃってるかなぁ」


 誠弥は巧人に聞こえるようにか、わざとらしく声を大きくした。


「あとのことは俺に任せといて。早く教室行った方が良いよ、もうすぐ予鈴も鳴るし」

「うわっ! やべぇ、瑞樹ちゃんに怒られる! んじゃ、槙野のことはオレから瑞樹ちゃんに伝えとくからよろしく頼んだっす!」


 乱暴に引き戸を開け慌てて出て行く秋に「廊下は走っちゃだめだよ」と部屋から顔をのぞかせ注意しながら誠弥は手を振った。


「……瑞樹ちゃんって、友達みたい」

「……またあの人の話か」


 引き戸を閉めクスッと笑いながら独り言を呟いていると、巧人は誠弥に冷ややかな目を向けた。


「あれ、タク起きてたの」

「気付いてたくせにとぼけるな」


 不機嫌そうに目を細める巧人に誠弥は眉を下げて微笑みかけた。


「ごめんごめん。というか、担任の先生をあの人呼ばわりってどうなの」

「人だからあの人でいいだろ」

「えー、じゃあ俺も人だからあの人?」

「……に、兄さんは兄さんだから……兄さんだ……。……馬鹿みたいなこと言わせるな……」

「たしかにちょっと馬鹿っぽい」


 愉快だと笑ってみせる誠弥に巧人は恥ずかしくなって布団に口元あたりまで潜り込み目を逸らした。

 朝学活の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。高校に来て初めて教室で迎えない朝の時間は静かで落ち着いていた。自分の体調が優れないことを除けば何も文句はないはずなのに、何故か寂しさを感じてしまい巧人は退屈そうに白い天井を眺めた。


「……あいつ、なんだったんだろう……」


 秋のことを思い返す。嫌味のない真剣な眼差しが焼き付いている。こんな風に同級生と関わったことは初めてで、嬉しいのか苦しいのか楽しいのか辛いのか自分の感情が分からないでいた。


「助けてくれた子になんだったはないんじゃない?」

「それは感謝してる。だが、俺と喋りたかったとか友達になりたいとか……意味が分からん」

「ちゃんと聞いてたんだ。良いじゃん、初めての友達ができるチャンスだよ」

「あいつには友達いっぱいいるからわざわざ俺なんかと関わる必要ないだろ。……クラスで散々俺の悪評も聞いてるはずなのに」


 中学が同じだったクラスメイトたちが話していることを巧人はよく知っていた。嫌われ者だと分かりきってはいても、やはりそんな声を聞く度に人並みに傷付いていた。


「中学のときに言われてたってやつ? そんなの気にしない奴は気にしてないよ。現にあの子はタクのこと槙野って苗字で呼んでたでしょ。タクって意外とそういうの気にするもんね」

「意外かどうかは知らないが、誰でも良い気はしないだろ。……俺だって嫌われたいわけじゃないから」

「だったらせっかく向けられた好意にはちゃんと応えないと」


 誠弥はその場にしゃがみ巧人と目線の位置を合わせる。綻ばせた目を見るだけで巧人は安心し、弱りかけている心を支えられるように冷たい手を握られだんだん温もりを取り戻していく。


「好意って……ただの興味だろ」

「どうだろうね。タク可愛いから案外好意で間違ってないかもしれないよ」

「……兄さんまで変なこと言うな……」

「タクは可愛いよ。可愛い俺の〝弟〟だ」


 柔らかな微笑みを向けながらいつくしむように頭を撫でられ、血が足りていないはずなのに頬の血色が良くなっていく。

 本当は〝弟〟だなんて思ってほしくはない。しかしそれ以上を求める言葉は、触れる大きな手に「だめだよ」と優しく制止され覆い隠されているようだった。


「……今度は本当に寝る」

「分かった。つい病人だってこと忘れて話し込んじゃったね、ごめん。おやすみ」


 ベッドを囲むカーテンを誠弥が閉めると、巧人の視界は周りから切り取られ白に埋め尽くされた。ひらひらと風に揺れる布一枚に分かたれ、一人なのだと強調された気がし途端に胸が苦しくなる。


「……カーテン、開けてて……」

「そう? 寝るの邪魔にならない?」

「大丈夫……」


 カーテン越しに弱々しい声を聞くと、誠弥はちらりと隙間から巧人の顔を見た。


「寂しいんだ」

「そんなこと……ない」

「大丈夫だよ、俺はどこにも行かないから」

「…………」


 巧人が身体を丸めて目を瞑ったのを確認し、カーテンを全開にはせず誠弥の仕事スペースだけよく見えるようにしてやる。寝息を立てるのを確認し、さらさらと髪に触れもう一度「おやすみ」と無防備な顔に囁いた。

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