#3 楽しさの隣にあるもの

 高校に誠弥がいると思うと眠れるはずもなく、巧人はその夜ベッドにもぐっても目がえてくるばかりだった。本格的に始まろうとする高校生活への大きな不安と小さな期待、何について考えていても誠弥の顔が浮かんでくる。その度にどきんと脈打つ感覚が全身に広がり熱くなる。じっとしていられなくなりごろごろ寝返りばかり打っていると、いつしか時計の短針は下を向いていた。

 休まるどころか却って疲れてしまっているはずなのに、迎えた朝は何故かいつもより調子が良かった。朝食に用意されていたおかず一つ一つの味がはっきりと分かり、ついおかわりまでした。少食で朝は残してしまうことも少なくない巧人のおかわりは母親にとっては思わぬ喜ばしい出来事で、上機嫌で一足先に仕事へ向かっていった。

 外に出ると普段は気にすることもない空の色がとても澄んでいることに気付き、空気も心做こころなしか美味しく感じられた。学校へと向かう足取りが軽い。


(そうか……俺、楽しみなのか)


 わずかな間の道のりも色鮮やかに見え、心を弾ませながらなだらかな坂道を上っていき校門をくぐった。


 ――高校入ったらちゃんと友達作りなよ?


 誠弥の言葉を思い出すと、はっとし足を止めた。うかうか楽しみだなんて思ってはいられない。自然と保健室へ向いていた足を無理矢理軌道修正させ教室へ歩みを進める。

 中に入ると、昨日はすぐに解散したので分からなかったが、見覚えのある顔が多いことに気が付いた。家から一番近い学校を選んだ為にこうなってしまうのは当然だった。どうりで輪ができるのも早い訳だ。中学の校区内の学校、そのままエスカレーター式で進学したようなものなのだから。巧人は一人納得し、改めて疎外そがい感を意識してしまう。一度でき上がった輪はそう簡単に崩れないだけでなく大きくなることも滅多にない。知らない顔もある中、居辛い気持ちをぐっと堪え自分の席についた。


 午前までで放課になる今日は自己紹介をするのだと担任教師は意気揚々いきようようと宣言し、顔見知りたちは「今更だよね〜」と顔を見合わせ笑っている。

 自己紹介は新学期の定番中の定番であるが、巧人はあまり経験したことがなかった。中学時代までは初日から体調を崩して欠席するのが常で、周りがだんだんと馴染み始めた頃に初めて顔を出すとお互いにお互いの名前も分からず一人置き去りにされるというのが毎年の流れだった。その後知ろうともしなかった結果、顔だけは知っている人が何人もいる一方で名前まで分かる者は数人しかいない。それもかなりうろ覚えで合っているかどうかも分からないくらいだ。

 出席番号順に自己紹介していくのを巧人はなんとなく聞き流していた。誰にも興味は湧かない。友達がいたら楽しいのだろうか、そう思うことはあってもやはり誠弥がいるだけで十分なのだ。友達が欲しいと微弱ながら今でも思い続けてはいるものの、できたところで活発に遊び回ることもできず流行はやりも分からなければ話も続かない。そんなことではその存在が誠弥より強いものになるとは到底思えなかった。


(……やっぱり、友達なんていらないかもな……)

「槙野巧人です」


 自分の番が回ってくると立ち上がり淡白にそう言って席に着いた。ひそひそと何か話すような声があちこちからし、微妙な空気が流れる。さっきまでと様子が違うことには巧人も気付いていて、居心地の悪さから逃れたかった。

 早く次の奴に行けと思っていると担任は「え、それだけ?」とざわつきが収まってから困惑した様子で問いかけた。


「? はい」


 巧人は不思議そうに視線を返す。それ以外に何を言う必要がある? たしかに名前は言ったじゃないか。

 趣味や入る予定の部活の話をする者もいたようだが、真剣に聞いていなかったせいでよく覚えていない。それ以前に巧人には誰かに話すような趣味もなければ部活に入るつもりもなかった。ならこれで十分なはずだと、あきれる担任をよそに窓の外をぼーっと眺めながら残りのクラスメイトの自己紹介もやはり聞き流していた。

 外は気持ちの良い青空が広がっていて視線の先に東校舎が見える。一階の方を見下ろし、たしかあの辺りに保健室があったはずと巧人は窓を目で数える。奥から三番目、カーテンの閉まってるあの部屋だ。


(兄さん、今何してるかな……)


 後で顔を出そう。そう決意すると、こんな時間は早く終わってくれないだろうかと心があせり出す。時計に視線を遣っては六度ずつ動く針をうらめしく見つめ、退屈を刻んでいた。




 * * *


(……来たのはいいが、何の用事もないのに顔を出すのはおかしいだろうか……)


 ただ時間が過ぎていくことだけを待ち続け担任からの諸連絡を聞き終えると、巧人は真っ直ぐ保健室へ向かった。しかし、どうやら誠弥は席を外しているようで引き戸は閉まっている。

 一旦立ち止まると急に冷静になってくる。体調が悪いわけでもないのに訪れるのは違和感があるのではないか、変に思われるのではないかと悶々もんもんと考え込んでしまう。身体が落ち着かず引き戸の前を無意味にぐるぐる歩き回っていると「タク?」と渡り廊下の向こうから誠弥の声がした。近付いてくる誠弥にどう反応すればいいのか、これという答えが定まらず慌てふためき鞄の持ち手をぎゅっと握った。


「よし、顔色は良いね。で、どうかした?」

「……っ、に、兄さん……。えっと、別に、用はない……」

「そう? あっ友達できた?」

「…………」

「はぁ、やっぱだめかぁ。ちゃんと話しかけようとしてる?」


 大袈裟おおげさなため息を廊下に吐き捨てた誠弥に「おいで」と引き戸の中に招き入れられ巧人は保健室に入室する。初めて足を踏み入れたにも関わらずここが自分の居場所だとさえ感じるのは、どこだろうと保健室は保健室で大して代わり映えしないからかそれとも誠弥がいるからか。


「してない」

「なんで! ちょっとは頑張ろうよ〜」

「そ、そんなすぐに話しかけたり仲良くなったりできるわけないだろ……」

「いつもは出遅れたからって言うくせに」


 うながされ巧人は三人がけのソファに座る。誠弥は意地悪そうに笑いながらカーテンを優しく開け、部屋の中に瑞々みずみずしい日の光を取り込んだ。客人を招くようにウォーターサーバーから水をみ、紙コップを二つテーブルに置くと隣にゆったりと座った。


「タクのクラスってたしか三組だから有沢ありさわ先生のとこでしょ、どんな子いたかなぁ……。今思い出すからちょっと待ってね」

「だ、だから、やっぱり別に友達なんて……俺には、兄さんがいれば……って、聞いてない……」


 一人記憶の海を泳ぎ回る誠弥をよそに、窓の向こうで桜が舞っているのを見ながら巧人は出された紙コップに口を付ける。


「あーだめ、有沢先生が美人ってことしか分かんない」

「…………」


 口元にひやりと冷たいものが当たったのと同時に、巧人の中で何かの波が押し寄せてきてあっという間に全てを飲み込んでいった。


「……あの人のこと、気になってるんだな」

「そんなんじゃないよ、単に同期ってだけ。お互い新任でここに赴任してさ、俺の方が二つ歳上だけど同年代だし話しやすくて……」

「そんなことどうでもいい」

「え、何その冷たい目」

「俺はいつも通りだ」


 他の誰かを良く思っている、それだけで巧人は嫉妬に駆られ怒りや悲しみ苦しみといったネガティブな感情が湧き出してくる。やけになって誠弥を冷たく突き放してしまう。


(兄さんはああいう人が好きなんだろうな……)


 少なくとも、誠弥が担任より自分を選ぶことは絶対にない。そんなことはとっくに分かりきっていたはずなのに。巧人の胸がぎゅっと締め付けられる。


(そんなにこにこしながら話さないで……っ)


「え〜なんでちょっと不機嫌なの? あぁごめんごめん、タクと仲良くできそうな子だよね。心配しないで、ちゃんと考えてるから」

「いいよ、そんなことしてくれなくて。本当に友達とかどうでもいいから」

「まあまあそう言わずにさ。あ、そうだ。もちろん無理強いするつもりはないけど、タクは今楽しい?」

「は?」


 唐突な問いかけに口から反射的に疑問符が飛び出した。窓から入ってくる真昼の日差しが雲に隠されては姿を現しまた隠されを繰り返し部屋の中が明滅する。


「いや、高校生活楽しもうとしてるのかなって」

「俺は別に楽しくなんてなくても……」

「あー出た、そのできないならそれでいいってやつ。タクの悪い癖だよ」

「どうしても楽しくないといけないわけでもないんだ、俺がいいならいいだろそれでも」

「俺は楽しそうに笑ってるタクが好きだけどなぁ」

「えっ」


 タクガスキ――

 その五文字の羅列だけが切り取られて頭の中で反響し、視界が狭くなっていく。


(あれ、なんて意味だったっけ)

「そ、それって、どういう……」

「俺、初めてタクが思いっきり笑ってるとこ見たときのことすごいよく覚えててさ。あのとき、なんというかこう……ぐっと心つかまれたんだよね」

「心を……?」

「やっぱり子供の笑顔ってズルいよね〜、どうしてもきゅんってなっちゃう。それがタクなら尚更なおさらだよ」

「俺ならって……」

「ほらタクって昔からあんまり笑わないでしょ? だから『あ、こんなに良い顔するんだ』って思って」


 なんだそういうことか。巧人は一人肩を落とす。

 初めて心から笑った日のことは巧人もよく覚えていた。誠弥と初めて二人で出かけた日。すっきりとした秋晴れの日に両親に内緒で人生初めての遠出をし、楽しいという感情の温かさを優しく握り返される大きな手から教えられた。


 ――お兄さん、大好き!


 無邪気むじゃきな声で告げたその想いが、形を変容させより一層強くなり今もなお巧人の心の中に秘められていることを誠弥は知らない。


「でも、昔と今とじゃ笑わないって言っても訳が違うか」

「何が言いたい」

「昔はそもそも笑い方を知らない感じだったけど、今は分かってるのに笑えるチャンスから逃げてるみたいだなって」

「…………」


 何も言い返せない。友達にしても誠弥に対する想いにしてもそうだ、どうすればいいのか頭では分かっている。それでも動き出せず足がすくむのは、傷付くかもしれないから。嫌われてしまうかもしれないから。

 巧人は楽しさや幸せの前に立ちはだかるリスクにおびえているのだ。


「昔、遠足楽しみにしてたのに体調崩して行けなかったの、やっぱり引きずってる?」


 期待をしてはいけない、楽しみだなんて思ってはいけない。重だるい身体でベッドにしながら見たぼやけた青空を思い出すと、巧人はやるせない気持ちでいっぱいになった。

 呪いのように孤独と苦しさに縛り付けられてきた経験が巧人に与えたのは、これ以上辛い思いをしない為の諦めだった。


「……そんなこと、今はもうなんとも思ってない」

「そう? まあ、タクももう高校生だしね。でも、楽しいこととか自分が望むことを求めたら余計にいやな気持ちになる気がして怖いって思ってない?」

「それは……」

「思ってるんだ。大丈夫だよ、タクにひどいことする奴なんていない。もし、何かあっても兄ちゃんが助けてあげるから。もう少し自分に優しくなってもいいんじゃないかな、俺には甘えていいからさ」

「…………。そ、それなら俺は、兄さんがいれば……それだけで、いい……」


 うつむき独り言のように巧人は白い空間に呟く。

 半日教室にいただけで分かってしまった、自分はここには馴染めないのだと。たとえ、ひどいことをしてくるような人がいないとしても、だからといって仲良くなれるとも限らない。嫌いの反対が好きでも好きの反対が嫌いでもないのだ。無関心、自分とクラスメイトとの間にただみぞだけを感じる。切り取り線を引かれ途方もなく分断された感覚がしてならなかった。

 明日からは教室ではなくここへ通えば良いではないか、何も自ら進んで窮屈きゅうくつな思いをする必要はないのだから。味方は誠弥だけだ、それで良い。巧人は改めてそう強く思う。

 ちらりと様子をうかがうと、誠弥は困ったように眉を下げて笑っていた。


「うーん……兄ちゃんとしてだったらすっごく嬉しいことなんだけど、今の俺は先生だから手放しには喜べないな。先生としてはクラスメイトや同級生と上手くいってない生徒に『俺がいるから大丈夫』だなんて言えないよ。上手くいくようにちゃんと手を差し伸べてあげないとね、支えるって約束もしたし」

「じゃあ、こういう風に気軽に会いに来たり話したりしない方がいいってこと……?」

「えーそれは寂しい」


 眉間にしわを寄せ口元をゆがめた姿は誠弥の顔の良さを台無しにしているのに、巧人はどうしようもないくらいにいとおしく感じてしまう。


(ずるい……っ)


「俺、タクがここ受かったって聞いたときめちゃくちゃ嬉しかったんだから! 毎日タクに会えるんだって」

「……たしかに俺より騒いでたな」


 合格発表の掲示を確認したその場で親よりも誰よりも真っ先に誠弥に電話で結果を伝えると、電話口から音割れする程の大声が聞こえてきたことを思い出す。そのときはまさか同じ敷地内にいたなんて巧人は思ってもみなかった。


「それはタクが冷静すぎるだけだよ。タクにとっては受かって当然って感じだったのかもしれないけど」

「そんなわけあるか。俺だって自分の受験番号見つけたときはすごくほっとしたし……嬉しかった」

「そりゃそうだよね、タクもロボットじゃないんだから。改めておめでとう、よく頑張ったね」


 優しい声と撫でられる頭からじんわり感じる誠弥の温度が、春の木漏こもれ日に照らされきらきらとした輝きをまとう。まぶしくて暖かくて巧人にはもったいないくらいに感じられて、ずっと宝物にしていたくなって目をぎゅっとつむった。


「せっかく頑張ったんだからめいっぱい楽しまないと損だよ。よーしっ、タクに友達できるように今度は俺が頑張る番だね。兄ちゃんに任せといて!」

「だから、そんなのいいって」

「タクは俺にカッコつけさせてくれないんだ。タクがいるんだと思ったら俺、仕事でもなんでも頑張れるし兄ちゃんのカッコいいとこいっぱい見せられると思ってたんだけどな〜」


 子供がねたみたいにいじけて誠弥は巧人に背を向けた。広くて大きい背中――ふと身体を預けたくなる。巧人は窓の外を見たまま、こつんと頭を誠弥の背中に付けもたれ掛かった。


「……兄さんは、もう十分――……」


 ゆったりと落ち着いた呼吸音が一定の間隔で聞こえてきて、自分の心音とペースを比べては切なくなる。兄さんは、いつも通りなのだ。

 振りしぼった呟き声は、日だまりに溶けていった。


「ん、何か言った?」

「なんでもない。そろそろ帰る、もうすぐ昼休み終わるし兄さんはまだ仕事だろ」

「えっ、もうそんな時間⁉ タクと一緒だと楽しくてあっという間だよ」

「じゃ。……仕事頑張って」

「うん! 今ので三日分は頑張れる!」

「……また明日」


 ぱあっと咲いた無邪気な笑顔に一撃で崩れそうになる。なんとか平静を保ったまま保健室を出て引き戸を閉めると大きく深呼吸をした。気が抜けた途端に全身がかあっと熱くなっていく。ドクドクと血の巡りが早くなっているのがよく分かった。うっかりしていたらこの場で倒れてしまいそうだ。


(早く帰ろう……)


 保健室×兄さん×二人きり――毎日ここに通えばいいだなんて、とんでもない。こんなのとても身体が持たない。

 誠弥に余計な心配や面倒もかけられない。巧人は明日からも教室に行くことを決意すると、一気に不安が募ってきたのか指先から熱が引いていくのがはっきりと分かった。漠然と襲ってくる不快感を断ち切るように拳を強く握り締めた。


(友達、か。結局どうすればできるのか教えてもらってないな)


 明日から先に希望を見出せないまま、人の気配がすっかり消えた廊下を歩いていく。巧人の歩く足音だけが長細い空間に響いて少し寂しくなった。

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