#2 好きなのは

 ――半年前


≪それじゃ、次の土曜日に家行くね。

 受験勉強がんばれp(^^)q≫


(なんだ、この顔文字……)


 うるさいだけの教室で過ごす憂鬱ゆううつな時間を、誠弥からのメッセージが癒してくれる。昼休み、巧人は一人窓際の席でスマホに目をっていた。ゆるい顔文字のせいか口元が自然とほころぶ。

 巧人は学校が好きではなかった。勉強は好きでも、病弱ですぐに貧血を起こしては倒れてしまい休みがちだったせいでクラスに馴染めなかったからだ。そのせいか談笑するクラスメイトたちの声が耳障みみざわりな雑音にしか聞こえないでいた。

 珍しく教室まで足を運べたこの日も、活発な男女が数人混ざって机をくっつけ周りの目も気にせずに騒いでいた。聞きたくなくても勝手に耳に入ってくる話し声と理解がおよんでしまう話題に、巧人はどうしても無関心をつらぬけない。


(恋バナか……)


 キャッキャとわめいていたかと思えば今度はささやき声で耳打ち。一定して高いテンションとは対照的に声量の緩急かんきゅうが激しくて、何故か輪の外にいる巧人の方が疲れてくる。窓を少し開け心地良い秋風に当たった。


「なあ、槙野は好きな人とかいんの?」

「っ……はあ?」


 突然、会話の矛先ほこさきが自分の方へ向いたので驚いて妙な間を取ってしまう。巧人は声をかけてきた相手を見上げ名前を思い出す、分からない。中学三年生の二学期にしてこれがクラスメイトとの初めての会話だった。


「バーカ、孤高ここうのドラキュラ様にそんなのいるわけねーじゃん」


 嘲笑あざわらうように一人がそう言うと輪の中にいた全員が各々おのおのに同意しているのが聞こえ、話しかけてきた男子は「そうだよな」と言って巧人の返答も聞かず背を向ける。そして「寒いよぉ」と腕をさする女子のご機嫌を取ろうと窓を閉め輪に帰って行った。

 ドラキュラ。貧血持ちでいつも一人、体育の授業は常に日陰で見学。だからかいつの間にかそんなあだ名が巧人の知らないところで付いていた。誰かの血を吸ってこの不自由な身体がどうにかなると言うのなら、きっととっくにそうしていただろう。


(……そんなの、物語の中にしか存在しないのに。第一、だとすればこんな窓際の席は避けるだろ)


 どうしようもない反論を心の中ですると、日差しを嫌うようにカーテンを引っ張り机に突っ伏した。ちらりともう一度スマホの画面に目を向けるとあのゆるい顔と目が合い、いくらか気分が良くなった。


(土曜日、楽しみだな……)




 * * *


「……で、こうなる。分かった?」

「ああ」


 土曜日。誠弥を家に招き巧人は勉強を教えてもらっていた。とはいえ、中学で履修する範囲に分からないところはもうなかったので、これはただ誠弥と会う為の口実に過ぎなかった。


「タクは飲み込み早くて助かるよ。本当は俺が教えなくても自分でできるんじゃないの?」

「そんなことない。これも兄さんに教えてもらって初めて理解できた」


 テーブルを挟み向かいに座る誠弥に教科書を横向きに置いて見せながら、つまずきやすそうなところを適当に指差し「ここが分からない」と嘘を重ねては解説してもらうのを繰り返す。

 前のめりになって教科書を見ていた誠弥が何気なく口を開いた。


「ねえ、隣座っていい?」

「えっ」

「いいでしょ、テーブルも小さくないんだから。横向きだとお互い教科書見にくいし」


 そう言って巧人の同意を待つことなく誠弥は巧人の左隣に座った。近い、近過ぎる。少し手を動かせばひじが当たってしまう。


「えっと、じゃあ他に分かんないとこある?」


 左半身だけどんどん熱くなっていく感覚がし、少しでもやわらげようと巧人は氷入りのリンゴジュースが入ったグラスをぎゅっとにぎる。考える余裕などなく、ぱっと目に付いた問題を指さした。


「あれ、そこさっき説明したけど。分かりにくかった?」

「!」


 もう一度よく見てみると、それはつい数分前に聞いたばかりの問題だった。慌てて「そんなことない」と誤魔化ごまかす。


「これは、こうやって……こうだろ」


 さらさらとノートに問題を写し解いていく様子を誠弥は頷きながらまじまじと見ている。動揺を見せないように巧人はより首の角度を下げ横髪で顔を隠した。しかし、右ページへ移るタイミングで誠弥は顔をぐっと近付けさりげなくノートを押さえていた左手に触れた。息遣いが聞こえてくる度、耳が熱くなる。


「……っ」


 香水のような人工的なものでない自然な匂いがふわりと香る。誠弥の匂い、病院にいてもあの消毒液の独特な匂いに混ざることのない。嗅ぐだけで安心する匂いだ。


「どうかした?」


 バクバクと心臓はせわしなく脈打っているのに気持ちは穏やかに落ち着いてきて、巧人の身体の中に不思議な感覚が広がっていく。


「な、なんでもない……。ほ、ほら、これで正解だろ?」

「うん解き方も完璧、なんだ分かってるじゃん。これ応用問題なのに余裕みたいだし、受験も心配いらないんじゃないの?」


 あまりにさくさくと解いていくので教え甲斐がいがないと感じたのか、誠弥は退屈そうにテーブルの端に置いてあったかごから個包装のチョコレートをまみ舌の上に転がせた。


「勉強にこれでいいなんて線引きはできない。だから満足なんてしてられない」

「真面目だなぁ。そういや、志望校聞いてなかったよね。どこなの?」

「光陽台」


 問題集を解くのに集中していた巧人は、学校名を聞いたその一瞬ぴくりと誠弥の眉が動いたことに気付かなかった。何事もなかったかのように平静をよそおう誠弥のいつも通りの声色が巧人の耳に届く。


「へぇ、どうして?」

「一番家から近い」

「えーそんな理由?」

「他にどんな理由がいる」

「なんとなくでも楽しそうだとか部活がさかんだとか、タクだったら大学の進学実績とか?」

「別に楽しいとかどうでもいいし部活にも入るつもりはない。それにどこの高校からでも勉強さえすればどんな大学へも行ける」

「相変わらず冷めてるなぁ。もっと好きな人が行くからとかそういう話が聞きたかったよ。ちなみに俺はそれで高校決めた」


 不意に誠弥の口から『好きな人』という単語が出てきたので巧人はどきっと反応してしまう。その人と同じ高校に行く為に必死で勉強して合格を勝ち取ったのだと昔を思い返しているのか、嬉々ききとして話す様子に胸が締め付けられる感覚がして心地が悪い。口の中に不快な酸味を感じ、掻き消そうとチョコレートに手を伸ばした。


「好きな人……兄さんにもそういう人がいたんだな」

「いたいた。まあ、結果的にその子とは何もなかったんだけど。というか、タクがそんなことに食いつくなんて意外だね」


 今まで素っ気ない返答をしていたばかりに『好きな人』にだけ反応したことがかえって墓穴ぼけつを掘ることになってしまう。誠弥の詮索せんさくをなんとか回避しようと穴を埋める材料を探した。


「べ、別に食い付いてなんか……。たまたまこの前クラスの奴がそんな話をしてたから」

「それって友達?」

「違う」

「なーんだ、違うのか。ということは盗み聞きしてたんだ、タク趣味悪〜い」


 からかうように悪戯いたずらっぽい目をして誠弥は「引いた」とでも言いたげに巧人から少し距離を置いた。かすかにできた巧人と誠弥との間隔はつかの休息か、息のしやすさをもたらす。だが、気道を通り抜け肺に溜まる空気は妙に冷たい。


「そんなわけないだろ、いやでも聞こえる声で騒いでたんだ。それで何故か俺にも話を振ってきたから覚えてただけで……」

「ふーん。『好きな人いるの?』……みたいな?」

「ああ、まさにその通りだ」

「やっぱ誰だって気になるよね〜そういうの。思春期って感じして良いなぁ」


 もうそんなものは遠い昔だと言うように誠弥は天井に目を遣る。「あの頃に戻りたいなぁ」というつぶやきに巧人は何も返せず、シンとする。グラスに入った氷が溶けてカランと音を立てた。


「で、いるの?」

「…………は、あ……?」


 一瞬生まれた微妙な雰囲気をものともせず、誠弥は巧人の方を見てそう言った。目が合って数秒、時が止まる。我に返ると巧人は咄嗟に斜め下に視線を落とした。「兄さん、あなただ」などとは言えるわけがない。頬杖を付き答えを待ちびているような誠弥を横目にちらりと見ては顔を逸らした。


「……なーんて。タクに限ってそんなのいるわけないかー、友達すらいないし」


 真剣な顔をしていたかと思えば誠弥はへらっと笑ってみせる。それから「困らせちゃったらごめんね」と巧人の肩に手を置いた。


「……う、うるさい、友達なんていらない……」

「またまた強がっちゃって〜。昔はよく友達できないって泣きついてきたのに。兄ちゃんはタクが寂しがり屋だってこと知ってるんだからね」

「そんなのいつの話だ」

「んーと、俺がまだ大学で先せ……タクのお父さんに教わってた頃だから……八年くらい前? いや、タクは少なくとも小学生の間はずっとそんな感じだったかな」


 小学生の頃の巧人は今以上に身体が弱くおまけに精神も弱かった。そんな自分がたまらなく嫌いだった。病は気からという言葉もあるからと強くなろうと決意し、中学校に上がるのを良い機会に現在のような性格に意識して変えたのだった。一人称を変え両親や誠弥に対する呼び方も変えた。するとそれに応えてくれるように両親は自主性を尊重してくれるようになり、誠弥も合わせて呼び方を変えてくれた。

 ただ、それで生まれ持った病弱が劇的に改善などするはずもなく、中学も登校した日数の方が少ないのが現状で現実だ。


「そんなどうでもいいこと、よく覚えてるな……」

「どうでもいいことないでしょ。高校入ったらちゃんと友達作りなよ? 俺の知らないところで一人で泣いてるんじゃないかって心配してるんだから」


 いつまでも〝兄〟から護ってもらわなければならない〝弟〟としてしか見られていないのだと思うと、巧人はもどかしくてちくりととげが胸に刺さったように痛み、そこから毒が全身をめぐっていくようにひりついた。


「俺はもうそんな子供じゃない」

「子供じゃなくても友達はいた方がいいでしょ。タクは何の為に高校行くの?」

「は? そんなの、勉強する為に決まってるだろ」

「勉強だけなら家でもできるでしょ。現にタクはずっと学校行けない日は家で自主学習してたし、高卒認定さえ取れば学歴も手に入る。それでも高校通う為に頑張ってるのはどうして?」

「…………」


 誠弥の言う通りだった。授業なんて受けなくても巧人は勉強できた。わざわざ馴染むことのない喧騒けんそうの中へ紛れこもうとしても、飛んで火に入る夏の虫は結局蚊帳かやの外に追いやられ孤立しながら勉強をすることになるのだ。

 だから、学校は好きじゃない。だが、それ以上に巧人は学校を好きになれない、好きになろうとしない自分が大嫌いだった。


「……別に友達もできないならそれでいいんだ、俺には無理な話だったってだけだから。だが、兄さんがそんなに言うならいても悪くないのかもしれないとは思ってる……ちょっとだけ」

「そっかそっか、じゃあ受験終わったら今度は友達の作り方教えてあげないとだね」


 巧人の心の内を手に取るように全て分かっていたのかと思わせる微笑みを見せ、全てを受け入れるように誠弥は頭をでた。どれだけ強がっても通用しなくて、巧人の中で渦巻く忘れようとしていた思いをより濃くはっきりと呼び覚まし諦めを手放させる。


「……友達の作り方なんてあるのか?」

「あはは、よく考えたらそんなのないかも。でも、ずっと見ててあげるし精一杯支えるから。ね?」

「そこまでしてくれなくても、いい……」


 約束と言って指切りしようと差し出された誠弥の小指に自分の小指を絡めることもできず恥ずかしくなってリンゴジュースを飲もうとグラスを手に取ると、巧人の分だけ表面に汗をかいていた。中の氷もすっかり溶けてしまっていて綺麗な透明の上澄うわずみができ上がっている。


「……取り替えてくる」


 グラスを持って立ち上がり誠弥に目もくれず部屋を出てドアを乱雑に閉める。そして、息を浅く吐き出しそこにもたれ掛かった。


(……俺は、何がしたいんだ? 分かりきってる勉強を教えてもらって、それ以上何もできないのに……)


 自分から触れることすらできない。臆病おくびょうな心に反して頭の中だけどんどん先に進んでいって、追い付くことなくむなしく取り残される。

 誠弥が好き、何もかもどうでも良くなってしまうくらいに好き。好きで好きで仕方がない。友達よりも欲しいものは誠弥だった。家に誰もいない日を選んで自室という密室に招き入れ、やりたかったことは数式を解くことなんかではない。しかし、日に日に膨らんでいくこの欲望は決して悟られてはいけない。何もなくとも確実にそこにある日常を失わない為には隠し通さなければならない。その反面、破滅してでも気付かれたいと危うい思想が揺らめく。

 今すぐ部屋に戻り不意に後ろから抱きついてそのまま身動きを取れない状態にして――また勝手に見えないところまで走り去ろうとする妄想をなんとか引き留める。ドアを挟んだ向こうで誠弥がどんな顔をしているのか考えるだけで胸が痛み熱を帯びてくる。

 落ち着け、と握るグラスの中身をぐいっと一気に飲み干す。薄くてぬるくて甘さが消えて、代わりに嫌な苦みや渋みが強調されて何にもならない。


(兄さん……)

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