第1章 愛し、愛され

#1 100BPM

「続きまして、新入生代表の挨拶です。新入生代表、槙野まきの巧人たくと


(いくら練習してきたとはいえ、緊張するな……)


 舞台の横で待機していた巧人は司会から名前を呼ばれると声を上擦うわずらせることなく「はい」と返事し、階段を一段ずつ踏みしめ壇上へ上がる。僅かにきしむ音が静寂に響く。整然と並んだパイプ椅子に座り待つ同級生や教職員、来賓らいひんや保護者たちの視線に支配され空間にある音はそれの他には何も巧人の耳には届かなかった。

 上へ行けば行く程心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。たった数段の段差が最高峰へ続く険しい山道のように感じられて息の仕方を忘れそうになる。

 舞台中央に設置された演台を前に立つ。会場にいる人全員を見下ろした景色は威圧以外の何物でもない。威圧するのではなく威圧されるのだ。特別偉いわけでもない、ただ入試の成績が一番良かっただけの一新入生にとっては舞台の下のその他大勢の方が圧倒的に強い。

 深呼吸を一回、ブレザーのポケットから用意していた原稿を震える手で取り出す。ペーパーノイズがマイクに乗ってしまった。


「暖かな春の訪れと共に、僕たち三一〇名の新入生は光陽台こうようだい高校第六十八期生として入学致しました。本日は、このような素晴らしい入学式を行って下さりありがとうございます」


 緊張で声が震えてしまわないように気を付けながら、昨日の夜遅くまで考え練習した文章を一言一言丁寧に口に出していく。


「両親を初め多くの方々の力を借りここまで来ることができました。まだまだ未熟な僕たちですが大人へと成長していく為に、三年間互いに良い刺激を与え合い高校生活を充実させていきます」


 二枚目へ原稿をめくろうとすると、握りしめる手に力が入ってくしゃりと親指の形にシワが寄っているのに気が付いた。手には汗をかいているのに口の中はからからに乾いていて不快感がつのる。あと少しだと自分に言い聞かせ一息つくと、二枚目の一行目へ目を遣った。


「光陽台高校の生徒としての誇りを強く持ち、責任感のある行動がとれるように自らを向上させていきます。校長先生を初めとした先生方、先輩方、いかなるときも努力していきますので、どうぞよろしくお願い致します」


 最後に名前を言って一礼すると、肩の荷が下りたようにふっと力が抜け膝から崩れ落ちそうになる。なんとかこらえ、来た方とは反対側の階段から舞台の下へ降りる。ぐらり、立ちくらみがした。視界が黒い霧に支配される。


(……昨日の寝不足がたたったか、情けない。今日の為に体調は万全にしてきたつもりだったんだがな……)


 鈍く痛む頭を押さえ霧が晴れるのを待ち軽く背筋を伸ばすと、自分の席へ向かった。ずらりと並ぶパイプ椅子の列の横を通りかかったとき、静まり返る中およそ厳かな雰囲気には似つかない雑音が聞こえた。


「ぐぅ……ぐぅ……」


(入学式に居眠りとは呑気のんきな奴だな。……俺とは違うくせに)


 眠りこける同級生を横目に巧人はぽつんと一箇所だけ穴が空いたように空席になっていた席についた。

 その後のプログラムは校歌斉唱のみで新入生である巧人たちに歌えるはずもなく、教師陣や在校生たちが歌っているのを聞き流して式は閉会した。雑談する声があちこちから聞こえ始める中、クラス単位で体育館を後にしようと出入口に足をかけたそのときだった。


「君、顔色悪いけど大丈夫?」


 誰かに肩を掴まれそう声をかけられた。優しく落ち着いた男性の声で、ほんの少し色っぽさも混じっていて無意識に懐かしさや安心感を巧人に抱かせる。


「はい? 俺はいつもこんな……っえ」


 一体誰だ。そう思いちらりと顔を左へ向けて声の主を見る。白衣を着た教師らしい。視線を少し落とした先に見えた教職員証には杜松ねず誠弥せいやという名前が。まさか。咄嗟とっさに顔を上げると巧人のよく見知った人物の顔がそこにあった。


「に、兄さん⁉」

「しーっ、声大きい。って、周りの方が騒がしいか」


 口の前にそっと人差し指を立て、もう片方の手で肩をぽんと軽く叩く。式が終わり緊張の糸が切れざわつく空間に苦笑しているのは、巧人が幼い頃から〝兄〟としたっているその人だった。


「兄さん、こんなところで何を……」

「何って、仕事?」

「えっ、ということは……兄さんの赴任ふにん先って」

「ここ。びっくりした?」

「びっくりも何も、そういうことは先に言ってくれ……」


 驚きと高揚こうようで身体が熱くなってくる。誠弥が高校で養護教諭をしていることは以前から聞いていたが、まさか赴任先が自分の通うことになる学校だったとは思わなかった。嬉しい……。巧人は先程とは似ているようで全く違う鼓動の高鳴りを感じていた。


「だって言ったら志望校変えそうだったし」

「そんなことで変えるわけないだろ」

「それもそっか。ここ選んだのも家から一番近いからだったっけ?」

「ああ」

「成績だけだったら県内トップの盟大めいだい附属にも行けただろうにってタクの担任の先生から聞いたよ。それなのに釣り合わない学校でこうやって逢えたなんて……運命かな?」

「…………」

(そういうことを、軽々しく言うな……っ)


 身長に合わせ視線が合うように少し猫背になった誠弥に顔を近付けられ微笑ほほえみかけられる。どきり、心臓が跳ね上がる感覚がした。熱くなった身体が更に熱を帯びて、火照ほてる。顔に出てしまいそうだ。


「あれ、顔色悪いと思って引き止めたけど、そうでもない? というか、むしろいつもより血色良い?」

「そ、そんなことない……いっ、いつも通りだ……」

(やばい……顔に出てる……)

「そ? なら良いけど。スピーチの練習で夜遅くまで起きてたなら今日は早く帰ってゆっくり休みなよ、心では大丈夫と思っててもタクは身体弱いんだから」

「分かってる……」


 全てお見通しだと言われているようだった。やはり兄さんにはかなわない、そう感じ巧人はあらがうように目をらしておきながら従うことしかできなかった。


「保健室のベッドで寝ててもいいけど、どうする?」

「いやいい。……もう行く」

「そう? まあこれから教室に集まるんだろうし、最初の顔合わせって結構大事だもんね」

「……それじゃ」

「うん、また明日ね」


 手を振る誠弥を横目で見て巧人は体育館を去る。教室へと向かい渡り廊下の真ん中付近に差し掛かったところで「あっ」と何かを思い出したような誠弥の声が聞こえた。振り返ると、振っていた手を開ききらず閉じきらない微妙な形にして胸の高さで止めている。


「?」

「スピーチ、良かったよ」

「! あ、ありがと……」


 それだけを伝える為に引き留めたらしく、誠弥は笑いかけ再び手を振ると体育館の奥へ姿を消した。

 兄さんに聞かれていた、見られていた――そう思うと急に恥ずかしさがぶり返してきてオーバーヒートしそうになる。もたれ掛かった無機質な壁の冷たさが全身に染み渡る。

 巧人は一度立ち止まって考えてみる。誠弥がこの高校にいる。すなわち、三年間毎日のように顔を合わすかもしれないということだ。その事実に気付くと途端に脈が速くなりドクンドクンとうるさくなって仕方ない。


(……代表挨拶なんかより、ずっと緊張するじゃないか……)

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