第6話『ああ無情-⑥-』

 彼女の家に向かう事にした二人。

 バスで三十分。そこから歩いて七分弱。


 セントラル郊外の住宅地にある彼女の家は庭も家の中も沢山の緑で溢れかえっていた。


「お、お邪魔します」


 土足で家に上がる事に躊躇しつつ、そろりそろりと足を踏み入れた。


「こちらがリビングとダイニングキッチン、お風呂とトイレはあそこです」


 家に入るなり、アスターはあらかた説明を受けていた。


「ミスター? いるー?」


 リビングに入るなりステラは呼びかけた。

 しかし返事はない。どうやら“ミスター”は留守にしているようだ。


「おぉ……」


 リビングに入ってすぐ立派な暖炉が出迎える。奥のダイニングキッチンとは煉瓦で縁どられた段差でなんとなく分けられていて、キッチン側の壁や棚と一体になった木製のダイニングテーブルや、キッチン脇の煙突の付いたレトロなコンロが印象的だった。


(なんだろう……)


 そこかしこに置かれた観葉植物と、木と土壁が温もりを感じさせる良い家ではあったが少し違和感があった。


 けれどその違和感の正体が何なのか分からずアスターは促されるままダイニングの椅子に腰掛ける。


「……?」


 一息つく前に別の違和感を視界の端で捉えてしまった。


 ダイニングテーブルの壁側に白いミニチュアハウスがあったのだ。


 そのミニチュアハウスは白壁が映える柿色の屋根と四角い窓があり、木製の小さなドアの上にMrと書かれていた。


「……?」


 それに気を取られている間に、ステラはケトルに水を入れコンロにくべた。


 けれど火を付けるでもなく、下の扉を開け中に向かって話しかけている。


「何してるんだ?」


「中にいる精霊さんとお話ししてたんです。火をつけてくださいって」


「ほぅ」

(精霊!? 何それ見たい!)


 しかしそんな子供みたいな事も言えないので、いつか見られるだろうと早る気持ちを鎮め平静を装った。


「お湯が沸くまで練習してみましょうか」


「おー」


「では、ちゃちゃっとやっちゃいましょう。風と水どちらにしますか?」


「んーじゃあ、水で」


「はーい。えーと紙、紙」


 アスターが包装を解き中身を取り出す間にステラはキッチン横の棚から少し大きめのメモ台紙とペンを取り出し、紙に術式を書き出した。


 二つの綺麗な円がスッと紙の中心に描かれていく。


「器用なもんだな」


「?」


「コンパスも使わずによく描けるなーって」


「コツがあるんです。後でお教えしますね」


「ん」


 ステラは会話を続けながら、その手は止めず術式を描き続けた。


 その内見たことのない文字が紙の上に並び八芒星の模様が中心に大きく描かれていく。


「それは何て書いてあるんだ?」


「古代語で水に関する言葉を書いてますね」


 ステラが普段使っている魔術は古いタイプのものだという。


「古代語……」


「覚えてしまえば簡単ですよ」


「覚えるまでが大変って事はないか?」


 その問いに彼女は何も言わず、にっこり笑って返す。


「……なるほど、理解した」


 その後すぐに陣は完成した。


「ではそのまま陣の上に指を置いて、魔具を右手に握ってください」


「ん」


「呪文は……そうですね。清らかなる水よ、枯れ地を潤す雫となれ、アクアと唱えてみてください」


「ごめん、もう一回言って?」


「……書きますね」


「お手数おかけします」


 その後紙に書かれた呪文を何度か唱えてみたが何も起こらなかった。


 何度も何度も、指からは水ではなく汗が出て無意味に紙をふやかしていく。


「出ねぇ……」


「おかしいですね……では感じを掴むために少しお手伝いしましょうか」


 そう言うとアスターの右手に手を添えた。

 仄かに伝わる手の温もりと柔らかい肌の感触。それに気を取られていると……。


「目を瞑って」


 近距離でつぶやく声が直接頭に伝わった。

 気付けばステラはテーブルに身を乗り出しアスターの額に自分の額を密着させていた。


「もう一度いきますね」


 恥ずかしさで熱を上げるアスターをほっといてステラはそのまま目を瞑り、ゆっくりとアスターの手をなぞっていく。


「心臓から腕、腕から手の平、そして指先へ流れる水をイメージして呪文を……」


「うっ……き、清らかなる――」

(集中出来ねぇ――!)


 注意力散漫で詠唱する中、彼女がふと顔を上げた。


「!」


 当たる鼻先とぶつかり合う吐息。

 彼女が互いの距離をやっと自覚した頃、ケトルの口から勢いよく漏れ出たお湯がジュっとコンロを濡らし蒸発していった。


「わ、忘れてました。そ、それではお茶にしましょうか!」


「お、おう」


 そのまま炊事場に立つステラを見ながら、彼は今だ手に残る温もりを確認する。


「……っ」

(熱が……取れない)


 そうこうしている内に準備は進み、振舞われた紅茶の香りを嗅ぐ。


 鼻の奥に熱気と共に柑橘系の香りが運ばれ一瞬慌てたが、体の熱も一緒に冷ますように一息また一息と紅茶に息を吹きかけて少しずつ口に含んだ。


「お部屋の事なんですが」


 ようやく顔の火照りも収まった頃、部屋の話になった。


 二階にふたつある内のひとつを使えとの事だった。


 その後、一息ついてバケツに水を汲み、雑巾とホウキを用意して二階へ上がる。


 まっすぐ伸びた廊下に階段横のテラス。

 廊下に淡い光が差し込んで空気中を舞う埃がキラキラ輝いている。


「こっちのお部屋を使って下さい」


 二階にはドアが二つあった。

 彼が案内されたのは一番奥の部屋、位置的にリビングの上に位置する部屋だ。


「手前の部屋は誰の部屋なんだ?」


「そこは物置として使ってる部屋ですね」


「そっか」


 そんな会話をしながら奥の部屋の扉を開ける。


「うぉ」


 開けたと同時に湿気って重くなった埃が床を転がりカビ臭さが鼻を刺激した。


 ステラがすぐに窓を開け、窓枠に薄く積もった埃を指ですくう。


「夏に入る前に掃除したんですが。すみません……もう少し掃除しないとですね」


「だなぁ」


 アスターは辺りを見渡した。

 ベッドの骨組みとマットレスが壁に立て掛けられている。


「ここって元々誰かの部屋だったんだよな」


「ええ、私の部屋でした」


(他の家族はどの部屋を使ってるんだ?)


 一階はリビングとダイニングキッチン、そして風呂とトイレとステラの部屋がある。


 でも二階は二部屋とも使われていない部屋しかない。どう考えても他に家族がいるとは思えなかった。


(実は地下室か屋根裏部屋があるとか?)


 悩めるアスターを放っといて、ステラはマットレスの埃をはたいていた。


「うーん、まだ使えると思うんですが。湿気ってますねぇ」 

 

 今から干したところでさほど意味は無いだろうが、物は試しとマットレスをテラスで干し、床を掃いて徹底的に掃除した。


 元々物が少ないためか部屋は割と早く片付いたのだが……。


「うーむ」


「駄目そうですね」


「だなぁ」


 マットレスのカビ臭さと湿気は全然取れていなかった。


「買い換えが必要ですね」


「え、いやいや何もそこまでしなくても」


 どうせ短期間しかいないのだから、一階のソファを使っていいのならそこで寝れるとアスターは言う。


「ダメですよ。この時期夜は結構冷えますし、そうだ、いっそコレを炙ってみるというのはどうでしょうか」


「炙る」


 何と恐ろしい言葉だろうか。


「嫌な予感しかしないんだが」


「物は試しですよ」


「いやいや絶対ヤバイ奴だって」


「まあまあ私だって魔道士ですよ? これくらいちょちょいのちょいなんですから。ではいきますよー」


「えっ、ちょっと!」


 彼の制止もむなしく、それは強行された。

 ステラはマットレスの前にその身を構え、淡々と呪文を唱え始める。


「聖なる炎で我が眼前の湿気りを枯らせ、イグニス」


 唱え終わったと同時に、杖から放たれた小さな火種はマットレスに移り、湿気が蒸気となって溢れ出た。


「――っ!」


 純粋に凄いと思った。

 ただマットレスから火柱が上がり、激しく燃え始め無ければ今頃彼女に賞賛の言葉を送っていたと思う。


「「あ」」


 炎はすぐに燃え広がった。

 アスターは雑巾の汁で淀みまくったバケツの水を無言で掛けた。


 焦げ臭くなった室内とびしょ濡れのマットレスを目の前にステラがポツリと呟く。


「火属性の術の使い方を誤れば、こういう事になるという事をですね」


「そういうのいいから」


 こういう失敗例を見るとやはり火は怖いなと彼は実感した。


(貰ったものが水と風で良かった)


 本当にそう思えた。


「はぁ……」


 全ての始末を終えたのは、おやつ時をとうに過ぎた頃だった。


 昨日の睡眠不足も相まって、体は相当堪えたのか拭き終えたばかりの床にアスターはへたり込む。


「疲れた……」


 溜息と欠伸を連発する彼を見て、仮眠を取ってはどうかとステラは進言する。


「こちらの部屋を使ってください」


 案内されたのは一階のステラが使っている部屋だった。


 棚や机の上のびっしり並ぶ鉱石と、吊るされた草花、それとひと目で魔術関連だと思えるメモがあちこちに貼られた壁には彼女の身の丈よりも大きなホウキがドンと真横に飾られている。


(こういうのを見ると魔女っぽいよな)


 女の子の部屋というよりも魔女の部屋と言った方がしっくりくるとアスターは思った。


「うー、すまん……」


 当然彼女のベッドを借りる事になったが素直に従う事にした。


 とにかく眠たくてしょうがないから、これは仕方がないのだと自分に言い聞かせる。


「苦手な食べ物とかあったりします?」


「特に……無いかな……」


「分かりました。起きたらお夕飯にしましょうね」


「ん……」


 会話中悪いと思いながら瞬きを二、三度したところで意識は夢の中へ誘われた。


 ステラもそれに気がついたのだろう。おやすみなさいと呟いてそっと部屋を出て行った。

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