第7話『ああ無情-⑦-』
どこだか分からない暗い場所で見知らぬ男が涙を流して泣いていた。
男は膝をついて屈み彼の手を握る。
『――がまた笑えるように……魔法を掛けてあげようね』
男が誰の名を呼んだか思い出せない。
けれどその声と手のぬくもりだけはおぼろげだけど覚えている。
***
「ん……」
目を覚ますと目尻に涙が溜まっていた。
(変な夢を見たような……)
悲しいような、でも少し嬉しいような。
そんな不思議な感覚を引きずったまま目を擦る。
「外めっちゃ暗くなってる」
窓辺に置かれた小さなランプが辺りを照らす。いつの間にか外は闇に包まれていた。
「はぁ……」
彼は随分軽くなった体を起こしベッドから降りた。
「ん?」
そこでまず異変に気がついた。
ズボンが床に落ち、足はもつれ袖も手が出せない程余っていたからだ。
全体的に服が大きくなったような、そんな感じを受けアスターは改めて自分の手元を見た。
「――んんん?」
完全にずり落ちてしまった下着に目もくれず、慌ただしく脈打つ鼓動を抑える事もせず、部屋のドアを勢い良く開けリビングに飛び込む。
「……えと」
悠長にお茶を嗜んでいたステラが戸惑いの表情を浮かべた。
「ヤバイ! 俺っ縮んでる!!」
自身でも明確に分かる程幼くなった声に二度びっくりしながらステラに駆け寄る。
「随分とお可愛らしく……」
「もっと驚いて!」
これだからファンタジーは! とアスターが地団駄を踏んでいるとステラが頬に手を伸ばして体を引き寄せた。
「へ……な、なに?」
「減ってる……」
「え? なっ何が?」
至近距離でまじまじと見られ、なおかつ腰に手を回されたアスターの心音は加速する。
「私、魔力供給が不慣れであれっきりと決めていたのですが今はそんなことを言ってる場合ではないようです」
「えっ、ちょっ、んんっ——!」
「ふっ……ん……」
ぎこちなく重ねられた唇は以前より熱を帯びていた。
「もっと口、開けてください……」
「ちょっ、やめっぷぁ!」
口の中を撫で回すステラの舌先が動く度、頭から足の先まであの時と同じ、電気が走るようなこそばゆくも気持ちの良い感覚に襲われる。
「……ど……です……アスターさん、おっきくなれ……? わっ大変鼻血!」
「キュー——」
あまりの気持ちよさと慣れなさにアスターは文字通りキャパオーバーを起こした。
「ごめんなさい……」
「今の俺の体を維持する何かが足りないのは分かった。その補給手段がキ……キスとかハグなのも理解した。でも説明もなしにいきなりああいう事するのはビックリするしどうかと思う」
(くっそ気持ち良かった……)
と言いながら身体は正直である。
「っとにかく君は嫁入り前なんだしもっと男に警戒とか抵抗とか、あと恥じらいとか持ってほしいとお兄さんは思います!」
「はい……すみません、おっしゃる通りで。でもその……本当に危ないと思って……」
ライネックの影響が残っていると考えたステラはアスターに魔力供給を試みた。
粘膜同士の接触が一番迅速かつ効率的に供給できる為かなり情熱的なキスになってしまったが……。ただかなりの魔力を注いでもアスターの身体は縮んだままだ。
「はぁ……」
(危なかった……)
あのまま続けられていたらと思うとまた身体が火照る。
(イカンイカン、平常心平常心……)
「ていうかこれ着るのか……」
実の所彼はいま別の問題に直面していた。
鼻血で汚してしまったのもあるが、体のサイズが極端に変わってしまったので、ステラが幼少のころ使っていたペンギンの着ぐるみパジャマを用意されてしまったのだ。
「着替え終わりました?」
「あ、ごめんもうちょっと」
下着は鼻血を出してぶっ倒れている間にステラが買ってきた物があるため女児物を履くのは免れたが、やはりいい歳してこれは……と抵抗がある。
(うわぁ……)
あまりに愛らしいそのパジャマに、本気で着るのかと自問自答をするが他に選択肢がない。
(スカート履くよりマシ……うん……)
アスターは諦めた。
「私は片付けてくるので、着替えが終わったらリビングで待ってて下さいな」
「分かったー」
ステラは引っ張り出した衣類を片付けるといって二階に上がった。
一方アスターは着替えを終わらせリビングに戻ったのだが目の前の状況に困惑していた。
「何ジロジロ見とんじゃワレェ」
「!?」
「おぉん!? 何処のクソガキ様だ? んん? 迷子ですかアァン!?」
彼の眼前には赤いスカーフを首に巻き二足歩行でゆっくり近づいてくる緑のカエルがいた。
「あら」
そうこうしている内にステラも戻る。
「おかえり、ミスター」
(⁉︎)
彼女と一緒に暮らす家族は人ではなくカエルだった。一人修羅場と化している彼を放置し、一人と一匹の会話は続く。
「おう! にしても何だこのガキは?」
「こちら今日から暫く一緒に住むアスターさんよ。仲良くしてね」
「はぁぁぁああん!? 一緒に住むぅう!?」
ミスターはものすごい跳躍力でアスターの肩に飛び乗ると、ずいっと顔を近づけ鼻息荒く顔を覗き込む。
至近距離のカエルの顔はこんなにも気持ちの悪いものなのかとアスターは耐え切れず必死で目を逸らした。
「一緒に住むって親はどうした親は、こんなガキほっとくなんてひでぇ親じゃねぇか」
「……」
「異界の方よ。頼れる所が他に無いのよ」
「異界人!? この歳で!? ファー!!」
やたら高いテンションにアスターはげんなりだ。
「仲良くしてね?」
「はーーん!」
ミスターが湿り気のある手でアスターの頬をペチペチ叩く。
「こんなに小せぇのになぁ同情するぜぇ。でもよぉ間違っても変な気起こすんじゃねぇぞおぉん?」
「起こさねーよ!」
「はぁああああん!? 俺様のステラが可愛くないっていってんのか? ヤんのかハァン!!」
仲良く出来そうなビジョンが見えないと思うアスターなのであった。
「お待たせしました〜」
そうこうしている内に夕食の支度が整い、テーブルの上にシチューやサラダ、パンが次々並んでいった。
(何だ、この状況……)
同じテーブルで食事を取るミスターに彼はどうしても目がいってしまった。
「ウメェ! ウメェ!!」
小皿に盛られた生肉をムチャムチャ音を立て頬張っているこの姿に、好奇心とはいえ見てしまったことを激しく後悔した。
その後無心で食事を済ませ、ステラが風呂に行っているタイミングで彼は再びミスターと部屋に残されていた。
(好きに読んでいいと言われたものの……)
リビングの本棚を物色するアスター。
手の届く高さには料理やお菓子のレシピ本と園芸やら植物について書かれた趣味の本ばかりが並んでいて、なかなか手が伸びない。
「ん?」
本棚の一番下の段に辞書に紛れて絵本が置いてある事に気が付いた。
少ない文字数にページいっぱいに絵の描かれた児童向けの本。それを片手に暖炉前のソファに座る。
「おい」
「……」
「もしもーし!」
「……」
「聞いてまちゅかー? 僕タンはお耳が遠いのかなー? んんー?」
ミスターがアスターに飛び乗り、ペチペチと顔を叩きながら邪魔をする。
アスターはミスターを掴んでは降ろし、掴んでは降ろしを繰り返し次第に苛立つ。
「なーなー、なーってばよー!」
「あーもう。さっきから何だよもう!」
「お前やっぱ聞こえてんじゃねぇか! ふんっまぁいい。頼みてぇ事があってよー」
床に戻されたミスターは再びアスターによじ登り身振り手振り、大きなジェスチャーでゴマをする。
「あのよー風呂場のドア開けてくんね? 俺様今すぐ用があんのよアイツに~。ほんのちょーっとでいいんだけどよぉ」
「用ってなんのだ?」
するとミスターは一瞬言葉に詰まった。
「じきに上がってくるんだからその時じゃ駄目なのか?」
「いやぁ、だからだなぁ~」
「そんなに急を要するんなら俺が代わりにきくけど」
そう提案するアスターにミスターは真剣な面持ちで言い放つ。
「今しかねぇんだ」
「?」
その声音は真面目そのものだった。
「だから何の――」
「覗くなら今しかねぇんだ」
「は?」
ミスターは続けた。
「俺様だって……俺様だって風呂場でアイツとキャッキャウフフしたいのよ!」
(何言ってんだコイツ)
馬鹿なこと言うんじゃないとアスターは嗜めるがミスターは止まらない。
「玄関とここはよぉ、俺様自由に行き来できるんだけどよぉ、風呂場だけは結界が張ってあって俺様だけじゃあ行けねぇのよ。ったくいっつも俺様を置いて行きやがってよぉ。ひでぇよなあ? 下心なんてこれっぽっちもねぇってのによぉ」
(覗きがどうとか言ってたよな?)
アスターは問い詰めたい衝動に駆られるも延々続く意味のわからない主張に辟易し行動に移す事にした。
「おっ! 行くか! 行くのんか!」
「ああ」
ミスターは顔面から掴まれ視界を塞がれている。
アスターが歩く度その期待値は上がりドアが開く音を聞いて今か今かと胸躍らせている。
「よっこらショット‼︎」
アスターは玄関先から庭の隅の草むらに向かって思いっきりミスターを放り投げた。
「うぉおおおおおおおおお!?」
「アディオス、ミスター」
投げ放たれたミスターは綺麗な弧の字を描いて敷地外の柵の向こうに音を立てて落ちていった。
何か喚いているがアスターは聞かなかった事にした。
「後は……」
玄関のどこかに穴か仕掛けがある筈だとアスターは目を凝らす。
「これかな」
玄関扉のすぐそばに小さなドアが取り付けてあったのを見つけた。
そのドアを外から重たいプランター、中からはその辺にあった置物を使い手早く塞ぐ。
後は家中の窓という窓を入念にチェックして何事も無かったかのように読書を再開した。
「はぁ、久しぶりにいい事をした気がする」
こうしてステラの純潔はひっそりと守られていた。
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