仕事と恋の狭間で ④
それに気づき、改革しようとお考えになった彼女の着眼点はすごい。女性ならではの視点なのか、そうではないのかは僕にも分からないが……。
「ありがとう! じゃあ、次の会議の議題はこれでいきましょう。会議は……そうね、来週の月曜日くらいでいいかしら」
この日は木曜日だったので、三日もあれば十分な資料が作成できる。彼女から与えられた猶予が、僕にはありがたかった。
何せ、総務にいた頃には自分の仕事と並行して、課長の仕事まで押し付けられていたのだ。それも、「明日までに」などと無茶な期限をつけられて。
「はい、ではこの後さっそく、草案の作成に取り掛かります。――会長、決裁が済んでいない案件はあとどれくらい残っていますか?」
「今日は少なかったから、今のところは全部終わったかな。――桐島さん、コーヒーをお願い。いつものね」
大きな仕事はひと段落ついたので、会長は休憩を挟みたいとおっしゃった。
「はい、了解です。――あ、そうだ。今日は取引先から頂いた美味しいケーキがあるんで、一緒にお出ししますね」
その日はコーヒーだけでなく、彼女もお好きなスイーツもあった。時にはこういう特別な日があってもいいと思うのだ。
ただでさえ、彼女は学業と経営業を両立させていてお忙しい身なのだから、糖分を摂ってリフレッシュして頂きたかった。
「わあ、嬉しい! ありがとう!」
「では、少しお待ちくださいね」
彼女の可愛らしいはしゃぎっぷりに、僕は頬が緩むのを抑えきれたかどうか……。
給湯室へ行くと、いつもどおり丁寧にコーヒーを淹れ、ドリップを待つ間にガトーショコラを冷蔵庫から出し、ナイフでカットして二切れほど皿に載せた。――おっと、フォークも忘れずに!
コーヒーにミルクと砂糖も淹れてかき混ぜ、準備ができたところでガトーショコラの皿と一緒に会長室へ運んで行った。
****
――彼女に中からドアを開けてもらい、僕がデスクまでトレーを持っていくと、彼女は書棚から取り出した経営学の本を読んでいたようで、デスクの上にはページを開いたままの本が置かれていた。
「ありがとう、桐島さん。わぁ、美味しそう! さっそく頂くわね」
席に戻ると、彼女は「美味しい!」と顔を綻ばせながらケーキを食べていた。この様子を見ていられるのは、秘書である僕のいちばんの特権かもしれない。
「会長に喜んで頂けてよかったです。お出しした甲斐がありましたね」
かと思えば、しばらくして彼女はフォークを持ったまま、何やら思案顔になっていた。――どうやら、バレンタインに僕にガトーショコラを贈るべきか否かとお悩みだったらしい。
僕はスイーツ男子だし、絢乃さんのスイーツ作りの腕も知っていたので、彼女がバレンタインデーにどんなチョコスイーツを下さったとしてもありがたく、そして美味しく頂くつもりでいたのだが。
彼女は「初めてのバレンタインにガトーショコラは重いかな」と悩んでいらっしゃったらしい。……そんなところまで可愛らしく、僕は愛おしくて仕方がないのだ。
「――会長、その本は……。もしかして、経営のお勉強を?」
僕は今気づきました、という風にさりげなく、別の話題へ持っていった。
彼女は学校のお勉強に会長のお仕事に、とご多忙なうえに、経営のお勉強までなさっていた。
僕が心配になって、「あまりご無理はなさらないで下さい」と言うと、彼女は感謝の言葉とともに「真摯に受け止めます」とおっしゃった。
人間、ひとりでできることには限度というものがある。ましてや彼女は、真面目すぎるせいですべてをご自身で抱え込んでしまうような人だった。
だから僕は秘書として、一人の男として、彼女にはもっと僕に頼ってほしい、甘えたり弱音を吐いたりしてほしいと思っていた。
「――さて、僕もボチボチ資料作成にかかりますかね」
僕は自分の席へ戻り、会議に使う資料の作成に取り掛かり始めた。
彼女はというと、残っていたガトーショコラとコーヒーをお供に、また新たに受信した社内メールに目を通し、返事を返していた。
****
――その日は絢乃会長の〝終業時間〟である夕方六時に僕も退社した。
彼女を自由ヶ丘のご自宅までお送りした後、まだ早い時間だったため、アパートへ帰る前に代々木にある書店へ立ち寄った。
「――う~~ん……、〝オフィスラブ〟のお手本ってどんなのだ?」
僕が向かったのは、いわゆる女性向けの恋愛小説が並ぶコーナーだった。
棚にはピンク色その他、女子受けがよさそうなカラーバリエーションの背表紙の文庫本がズラリ。その中でも人気があるらしいジャンルの一つが、〝オフィスラブ〟らしい……のだが。
「……ドS? 俺様?
そういう小説に登場するヒーローで人気がありそうなのは、僕自身とは正反対の男がほとんどだったので、僕はどっと落ち込んだ。
僕は御曹司なんかではないし、ドSでもないし(むしろMかもしれない)、俺様でももちろんない。
こんなの参考になんかなりゃしないし、僕みたいな平々凡々な男が〝オフィスラブ〟なんかしていいのだろうか……? 僕は自信をなくしかけていた。
もちろん、絢乃さんの好きな男のタイプもこんなの(失敬!)だとは限らなかったのだが……。
「――桐島くん? 何してんの、こんなところで」
唐突に背後からかかった声に、僕はビクッと飛び上がった。
「……先輩!? もう、ビックリさせないで下さいよっ!」
パッと振り向くと、そこに立っていたのは小川先輩だった。――そういえば、先輩が住んでいたのも代々木だったのだ(今も住んでいるかどうかは分からないが)。
「驚いたのはこっちよ。ここって女性向けの恋愛小説コーナーだよね? 桐島くんこそ、こんなところで何してんのよ?」
彼女は通勤用のスーツにコートを羽織った姿だったので、きっと仕事の帰りに寄ったのだろう。
……まぁ、女性である彼女がこういう小説を好むのは分からなくもない。大学時代からの先輩・後輩の関係だが、彼女の趣味やら何やらを熟知するほど僕と先輩とは親しいわけでもない。
「……えーっと、ちょっとオフィスラブの参考に……と思って物色してたんですけど。登場する男キャラが僕とはかけ離れてるヤツばっかりなんで……」
「オフィスラブ……、って絢乃会長と?」
いきなり核心を衝いてきた先輩に、僕はのけ反った。
「な…………っ、なんでそういう発想になるんですか!」
「あれ、違ったっけ?」
「……………………」
違いません。違いませんけど、他に言い方なかったんですか、先輩! ……という抗議の言葉は飲み込み、僕は別の言葉を探した。
「どうしてこういう小説には、ドSとか俺様とかみたいな男ばっかり出てくるんですかね? 世の女性たちはホントにこういう男が好きなんですか?」
「そりゃあ、需要があるからでしょ。でも、それは創作の世界だからウケるんだよ。現実にそんな男に迫られたら、私なら蹴り飛ばしたくなるわ」
「蹴り……、マジっすか」
僕は絶句した。気の強い小川先輩なら、あり得なくもないが……。
「少なくとも、絢乃会長の好みのタイプじゃないと思うな、このテの男たちは」
「……そう、ですよね」
僕は納得した。絢乃さんは多分、こういうタイプの男がキライだと思う。……というか、本当におキライらしい。
「彼女の好みはもっと思い遣りがあって、優しくて誠実な人だと思う。桐島くんなんか、ピッタリなんじゃない?」
「はあ」
僕は彼女の――絢乃さんの気持ちを知っていたから、先輩の言葉にもなるほど、と思えたが。果たして自分が本当にそういう男なのか、という点ではいささか疑問だった。
「僕は……そんなにできた男じゃないですよ」
年上であるがゆえに、彼女の前ではしっかりものとして振る舞っていただけで、本当の僕はもっと浅ましい男だった。彼女が好きだという自分の本心と、彼女の秘書という偽りの自分とのジレンマに苦しんでいた、ただの平凡な男だったのだ。
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