仕事と恋の狭間で ③
兄とその会話がなされたのは二月初旬だったが、その日以来、僕の中にはもうすぐバレンタインデー」という意識が根付いてしまっていた。
****
――翌日、絢乃さんが出社して来られる前のことだった。来社されていた取引先の重役の方が、手土産にと美味しそうなガトーショコラを下さったのだ。
「これ、御社の会長さんにどうぞ。お口に合うかどうかは分かりませんがね」
「あら……。お心遣い、感謝します。私は甘いものはあまり頂きませんが、娘はきっと喜びますわ! あの子、甘いものには目がなくて」
「どうもありがとうございます」
僕と一緒に応対をしていた義母は、絢乃さんがこのケーキを美味しそうに頬張っている姿を思い浮かべて破顔されていた。
――彼を一階のエントランスまで見送り、会長室へ戻ってきた僕は、頂いたケーキの箱をどうするか思案していた。
「これ、本当に美味しそうですよね。僕も食べたいくらいです」
……というのは冗談だったが。
「問題は、これをどこに保管しておくか、よね」
チョコレートが使われたお菓子だし、冬場とはいえビルの館内は暖かいので、室温の会長室に置いておくのは心配だった。
「ええ、そうですね……。絢乃会長が来られたら、コーヒーと一緒にお出ししようかな。会長代行、とりあえず給湯室の冷蔵庫に入れてきます。冷やしておいた方が美味しそうですし」
「そうね……、そうしておいてくれる?」
……というわけで、このガトーショコラは絢乃さんにお出しするまでの間、給湯室の冷蔵庫の中に眠らせておくことになった。
****
――いつものように僕が学校までお迎えに行き、出社された絢乃さんは、さっそくパソコンに向かうと一枚の書類をプリントアウトされた。
「――桐島さん、わたしね、そろそろ本格的に会長としての仕事に励もうと思うの。それでね、この会社の中でいくつか改革したいことがあって」
彼女はそのプリント用紙を僕に見せながら、そうおっしゃった。
そこに書かれていたのは、彼女ご自身が考えられたこの会社の改革案で、内容は小さなことから大層なコストがかかりそうな事柄まで
どうやら、前日に彼女が熱心にパソコンで書かれていたのはこの改革案だったらしい。
そしてその中には、驚くべき項目が挙げられていた。
「……えっ? お誕生日のパーティー、今年から廃止されるんですか? まあ、今年はまだ喪中だから中止するというのは分かるんですが……」
会長のお誕生日パーティーは僕が入社した頃にはすでに社内の年間行事に組み込まれて、廃止される日が来るとは夢にも思っていなかったのだ。
確かに、彼女はまだお父さまを亡くされたばかりだったので、お誕生日のお祝いどころではなかっただろう。それも、父親が倒れた会場で祝ってもらうということにも抵抗があったのだろう。
だが、理由はそれだけではなかった。
「組織のトップとはいえ、いち個人の誕生日をわざわざ会社の経費を使ってまでお祝いしてもらう必要はないんじゃないかと思ったの。それこそ公私混同も
彼女はそれも肯定したうえで、そう付け加えた。
私情からではなく、経理上の問題を理由にするところが真面目な彼女らしい。そんなことで会社の経費を使わんでよろしい、ということだろう。
「はぁ、なるほど……」
それに、彼女は会長の誕生パーティーに出席することが、管理職以上の人間の義務と化していたことにも頭を抱えていらっしゃったらしい。
祝う気持ちがないのに「仕事」と割り切って出席されても迷惑だろうし、現に僕がパワハラ被害に遭っていた原因の一端も、そこにあったのだ。
なので、社を挙げての会長の誕生祝いを廃止したいとおっしゃったのは、彼女の優しさや思いやりからだと僕は思っていたのだが……。
次の爆弾発言には自分の耳を疑った。
「お誕生日は、個人的に祝ってもらえればわたしはそれで十分だから」
……はいぃぃ!? 「個人的に」って誰に!? これはまさか、僕への誕生日プレゼントの催促なのか……!?
よくよく考えたら、この頃には絢乃さんはすでに、僕のことが好きだったらしい。好きな人に誕生日を祝ってほしいというのは、何とも可愛らしいオトメ心ではないか!
「……会長、それって僕に対するプレゼントの催促ですか?」
でもそのことには気づいていないフリをして、そこへズバッとツッコミを入れると、彼女は思いっきり取り乱していた。
「……ちっ、違うわよ!? 別におねだりしてるワケじゃ……。まぁ、くれるのなら嬉しいけど」
……やっぱり嬉しいんだ。僕は内心ニヤニヤが止まらず、「分かりました。善処します」とだけ答えた。
そこで、はたと気づいた。これはバレンタインデーの話題へ持っていく絶好のチャンスなのではないかと。
絢乃さんのお誕生日は四月三日(なぜ知っているかというと、IDカードに記載されているからである)。バレンタインデーは当然その前にやってくるのだ。
「ですがその前に、もうすぐバレンタインデーですよね」
なので、話の流れも自然とその方向へ誘導することに成功した。
「……うん、そうね」
彼女は一拍遅れて、僕の言葉に反応した。まさか、僕からチョコを催促されるとは思ってもみなかったようだ。
でも、バレンタインデーのことは彼女の頭にもあったらしく、しかも僕から催促するまでもなく手作りチョコを準備する気満々だったようで、「美味しい手作りチョコ、期待しててね」とご自身からおっしゃった。
まさかの手作りチョコ……。もちろん、絢乃さんのスイーツ作りの腕は僕もすでに知っていたし、迷惑なわけでは決してなかった。むしろ、天にも昇るくらい嬉しかった。
僕は「もらえるなら市販品でもいいか」くらいの気持ちで言っただけだったから、余計にだった。
「いいんですか!? 手作りチョコなんて、僕が頂いても。会長はただでさえお忙しいのに、そんなことに時間を割いて頂くなんて! 光栄です!」
「うん、もちろんよ。日頃の感謝の気持ちも込めて作るから」
「ありがとうございます!」
感謝の気持ち、というフレーズには「ん?」と思ったが、それでも僕は感激した。
後で知ったことだが、彼女がバレンタインデーに男性にチョコを贈った相手は、なんと僕が初めてだったらしい。
初めての助手席に、初めての男性へのバレンタインチョコ。彼女の色々な「初めて」の相手が僕であることは誠に光栄なのだが、同時に「こんな僕でいいのだろうか?」と首をもたげてしまう自分がいる。……もちろん現在も、だが。
――そういえば、絢乃さんが出された改革案について話していたのだった。
彼女も話が本題からかなり逸れてしまったことに気づかれたらしく、そこで仕切り直しとばかりに大きく咳払いをされた。
「――で、他の改革案についてなんだけど。桐島さん、貴方の意見を聞かせてもらえる?」
会長は改革案を書き出した用紙を指で軽く弾き、秘書である僕に意見を求めてきた。
ワンマン経営者なら、多分こんなまどろっこしいことなんかしないで一人でさっさと決めてしまうのだろう。……そういう点でいえば、彼女は決してワンマンな経営者ではない。少なくともこのグループにおいては、彼女はトップとしてふさわしい人物だったと言える。
「う~ん、どれも経費がかかりそうですが……。実現すれば、社員が喜びそうなことばかりですね。経理部の
それまでは当たり前のように思っていた会社の慣習や設備も、こうして見直してみるとまあ、ムダや足らない部分が出るわ出るわ……。どうして気づかずにいられたのだろうと、僕は不思議に思った。
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