仕事と恋の狭間で ②

 ――絢乃さんは平日は毎日、朝から夕方まで、それはもう目の回るようなスケジュールをこなされていた。

 僕もたいがいハードワークだと思っていたが、彼女のみっちりなハードスケジュールに比べたらまだ可愛い方だったかもしれない。


 朝早くに起きて電車で一時間以上かけて登校され、一日授業を受けてから僕の送迎で出社しお仕事をされ、夕方に帰宅。

 帰宅時間はその日の予定によって、早くなる日もあれば遅くなる日もあった。

 そんなハードな日常を送られていた彼女はお疲れのようで、帰りの車内でうつらうつらと微睡まどろんでいらっしゃったことも何度もあった。


 ――その日の帰りにも、彼女は眠っていた。


「――絢乃さん、明日の予定はですね……あれ? 寝ちゃってるよ」


 僕が翌日の予定を確認しようと助手席に声をかけると、彼女はすでにスヤスヤと夢の中だった。

 オフィスから彼女のお宅までは、車でニ十分ほどで着く。でも、お疲れの彼女をニ十分のうたた寝だけで起こしてしまうのは忍びなく、そしてその可愛い寝顔が見られなくなるのは僕個人としてはもったいなく……。

 そういう時には、僕から義母に帰りが少し遅くなる旨を連絡し、わざと遠回りをするようにしていた。少しでも長く、彼女が寝ていられるように。


〈桐島です。

 絢乃さん、車の中でぐっすりお休みなので、少し遅くなります〉 ……


 義母のスマホにメッセージを送信し、僕はまたハンドルを握った。

 

 ――絢乃さんは、寝顔もまた天使級の可愛さだ。仕事中に見せられる、大財閥の総帥としてのキリッとした表情も僕は好きだが、十代の女の子らしい無防備な寝顔もまた、僕の心をしっかりと掴んで離さなかった。


 実をいえば、僕の煩悩の中でもっとも大きかったのが、彼女の無邪気な寝顔だったりするのだ。僕は何度、助手席で寝息を立てていた彼女に触れようと手を伸ばし、思い留まってその手を引っ込めたことだろう。


 それをしてしまえば、僕の気持ちが彼女に知られてしまう。せっかく築いてきた信頼関係も壊れてしまう。最悪、僕は絢乃さんから幻滅され、クビになってハイおしまい、だ。……そう僕は思っていた。何が言いたいのかというと、僕がいちばん恐れていたのは彼女に嫌われることだった、ということだ。


 ――と、そこへ義母からの返信が来た。


〈了解。

 桐島くん、いつも悪いわね。絢乃のことよろしくね〉 ……


 彼女も義母も、僕のことを心から信頼して下さっていた。そんなお二人の信頼を、裏切るわけにはいかなかったのだ。


****


 ――車内という密室の中、彼女への恋心と「秘書」という自分の立場とのジレンマにひとり悶え、野獣になりそうな自分自身との格闘の末、僕は気づけば篠沢邸のすぐ近くまで車を走らせていた。


「――絢乃さん、もうすぐお家に着きますよ」


「んん……? えっ、やだ! わたし、また寝ちゃってた?」


 やっとお目覚めの僕の眠り姫は、いつも僕に申し訳なさそうな表情を見せていた。それはきっと、無防備な寝顔を見せてしまったことを恥じていたというより、僕に余計な気を遣わせてしまったことを申し訳なく思っていたのだろう。


「ゴメンね! 桐島さんも疲れてるのに、また遠回りさせちゃったみたいで」


「いえ、お気遣いなく。僕なら大丈夫ですから。それに、絢乃さんもお疲れでしょう? あまりにも気持ちよさそうにお休みになっていたので、起こすのが忍びなくて」


 手を合わせて詫びた彼女に、僕は澄ましてそう言った。……実は、この数十分間のドライブだけで、僕の心がどれだけ満たされていたことか。


 彼女は僕が気を悪くしていないことにホッとされたようで、少しだけ寝ぐせのついた髪を手櫛でササッと整え、膝掛け代わりにしていたコートを羽織った。


「――絢乃会長、今日もお疲れさまでした。明日の予定は、また後ほどメールでお知らせします」


 僕は篠沢邸のゲートの前に停車し、彼女を降ろすと、秘書の顔に戻って我が愛しのボスにそう告げた。


「うん、ありがとう。じゃあ、お疲れさま」


 彼女は僕に挨拶を返し、ゲートをくぐっていく。――その姿をしっかりと見届けてから、僕も車に戻り、帰路についた。

 でも、僕は気づいていなかった。彼女もまた、自宅へと帰っていく僕の姿をチラチラと振り返ってくれていたことに。

 こんな僕らが、実は出会ったあの夜からすでに両想いであったことを知るのは、それから一ヶ月半ほど後のことだったが。この頃はまだ、今にして思えばじれったいくらいにお互いの気持ちが通じ合っていなかったのだ。


****


 ――こんなじれじれだった僕の恋をさりげなく(……いや、わざとらしく?)アシストしてくれていたのが、誰あろう僕の兄だった。


 絢乃さんの話は兄にもしてあったのだが、兄は彼女の顔を知らなかったはずだ。

 ところがどっこい、彼女が会長に就任した後になって突然、兄は「絢乃ちゃんって可愛いよなぁ」と言い出したのだ。


「…………ちょっと待て! なんで兄貴、彼女の顔知ってんだよ!? 俺、写真も見せたことないよな!?」


 たまたまアパートへ来ていた兄をそう問い詰めると、兄はしれーっとこう答えた。


「え、お前知らなかったのかよ? あの就任会見の様子、ネットでもTVでも中継されてたんだぜ?」


「……へっ? マジで? 知らなかった」


 僕はこの会社の立派な社員なのに、そして絢乃さんにいちばん身近なポジションにいるのに、そんなことは一度も知らされていなかった。


 ちなみに、兄が言った「就任会見」というのは、あの株主総会の日の午後に行われた会見のことだろう。TVやネットで中継されていたことは初耳だったが、新聞や経済誌にその記事が載っていたことは僕も知っていた。


「おいおい、お前秘書だろ? ヤバくね? ……ほれ見てみ、オレ録画してあっから」


 兄はメディア再生アプリでその映像を開き、僕に見せてくれた。


「あー、ホントだ。キレイに映ってんな、絢乃さん」


「だろ?」


「うん」


 総会の時と同様、彼女は会長就任にあたっての意気込みなどを原稿なしの百パーセントアドリブで、淀みなくスラスラと述べていた。

 その姿は何度見ても惚れ惚れするほど勇ましく、堂々としていた。


「――お前さ、毎日この子の送迎やってんだろ? 狭い車ん中に二人っきりになってさ、野獣化しそうになったりしねぇの?」


 映像ファイルを閉じた兄は、よりにもよって僕のいちばんイタいところを衝いてきやがった。 


「…………うー、ない……とは言い切れないけど」


「だろうな。安心したわ、お前もオトコだったってことだよな」


 兄は笑っていたが、「安心した」って何にだよ、何に!


「でも、ガマンしてんだ? お前、よく耐えてるよなぁ。こんなに可愛いコがすぐ側にいんのに。……あ、オレも手は出さねぇよ? 出したら犯罪になるもん」


「…………」


 この発言は、まったくもってシャレになっていなかった。

 絢乃さんはこの当時、まだ十七歳。兄は十二歳ひとまわり上の二十九歳。手を出せば明らかに児童福祉法に引っかかる。


「つうか、それ以前に弟の好きな女に手ぇ出さんって」


「……あっそ」


 兄の言うことは、イマイチ信用できなかったが……。


「――んでもさぁ、この時期はお前にとっちゃビッグチャンス到来なんじゃねぇの?」


「……ほへっ!? ビッグチャンスって何が?」


 兄の話がいきなり思わぬところへ飛んだので、僕は間抜けな声を出してしまった。


「今月は二月だろ? そんなら決まってんべや、もうすぐバレンタインデーじゃん?」


「あ……、そっか。もうすぐバレンタインデーか……」


 僕はそれまで女性とあまりいいご縁がなかったので、すっかり忘れていた。バレンタインデーというビッグイベントがあったことを。


 まさか絢乃さんからもらえるとは思ってもみなかったし、社会人になってからはなぜか社内の女性から義理チョコその他をドッサリもらう日という認識だったからである。

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