彼女が背負っていくもの ③
そんな僕の本心を知ってか知らずか(いや、多分知らなかっただろうが)、彼女は嬉しそうに僕にお礼を言った。
「ありがとう! それ聞いたら、きっとパパも喜ぶと思うわ」
源一会長も、総務課でのパワハラ問題についてはご存じなかったらしい。でも、自社の社員が自分の経営する企業を褒めてくれるというのは、トップとしても喜ばしいことだと思う。
「愛社精神」というのはトップが社員に押し付けるものではなく、社員一人一人の心に自然と芽生えてくるものだ。そういう意味でも、この会社は優良ホワイト企業であると断言できる。
「会社やグループのみんな、源一会長のことが大好きなんですね。だからこうして、毎年会長のお誕生日に会社のイベントとしてパーティーを開催してるんですよね」
会社の行事として、経営者の誕生日が祝われる企業はそうそうないだろう。……まあ、経費のムダ遣いという部分は否めないが、そこを差し引いても源一会長がそれだけ社員みんなから愛されていたことの証明にはなったはずである。
絢乃さんは、会長に就任されてからそのことをキッパリ断言され、このイベントを廃止されたが、それでも社員が彼女を会長として慕う気持ちは変わっていないはずだ。
「うん……。でも多分、パパの誕生パーティーは今年が最後になると思う」
僕の言葉を聞いた彼女は、悲しそうにそう言って俯いた。きっと彼女なりに、過酷な現実を必死に受け止めようとしていたのだろう。
けれど、僕は何だかいけないことを言ってしまったような、非常に申し訳ない気持ちで心が痛んでいた。そのせいか、車内にはしばらくの間、気まずい空気が流れていた。
……どうにかこの空気を変えられないものか。僕は脳をフル回転させ、この重い話題とは真逆の話題を振ることにした。
「――あの。絢乃さん、一人娘なんですよね? ご結婚相手に制約とか、条件なんてあったりするんですか?」
父親が重病かもしれないという深刻な時に、それも当時はまだ高校生だった相手に結婚の話題を振るのは血迷ったとしか言いようがないのだが、彼女の気を紛らわせるショック療法にはなったようだ。
「ええっ!? 急に……そんなこと訊かれても……」
彼女はリアクションに困っていたが、「こんな時に不謹慎な」と怒られることはなかった。一生懸命考えながら、僕の質問に答えてくれた。僕の作戦は大当たりしたのだ。
「えーっと、制約は……特にはないの。どんな職業でも、どれくらいの年収でも、年がどれだけ離れてても問題はないの。常識の範囲内なら。……ただ、コレだけは絶対に譲れないっていう条件が一つだけあるわ」
篠沢家というのは、名家のわりに開けた家系のようだ。相手の年齢はもちろんのこと、職業や年収にも
「……それって、どんな条件ですか?」
僕はハラハラしながら、眉をひそめて訊ねた。「これだけは絶対に譲れない」というからには、相当厳しい条件なのでは……と不安になったのだ。
……ところが。
「長男じゃないこと。それだけよ」
彼女の答えは、非常に簡潔で単純なものだった。僕は彼女の目の前だというのに、脱力してしまった。
……さっきまでの緊張感は一体何だったのだろうか? まったく心臓に悪いが、ホッとしたのも事実だったので。
「なぁんだ、そんなことか……。なんか、力抜けちゃいました」
僕は強張っていた表情を和らげたが、彼女は「そんなこと」という言い方にムッとしたようで、篠沢家にとってはそれが一番大事なことなのだと力説していた。
何でも、加奈子さんが当時はまだイチ社員に過ぎなかった源一会長を婿に迎えたように、一人娘である絢乃さんも婿を取り、将来的には家を継がなくてはならないから、相手は長男以外でなければならないのだそうだ。
そこで、「好きになって交際までしていた相手が『婿入りできない』と言ったらどうするのか」と訊くと、「その時は、残念だが相手のことを諦めるしかない」と彼女は悲しげに答えた。
「はあ……。大変なんですね、名家って」
彼女が背負っていかなければならないものは、あまりにも大きい。そこに婿入りする男にもまた、それ相応の覚悟が必要なのだろう。……僕は
万が一僕が彼女と結婚することになったら、僕は果たして、婿として彼女の重荷を一緒に背負っていけるのだろうか……と。
もちろん、先のことなんてどうなるかまだ分からなかったし、そうなると決まっていたわけでもないのだが。――実際、この一年後には結婚どころか、僕と彼女の仲が崩壊寸前に陥ったこともあったくらいだ。
「大変……なのかしら? わたしはまだ恵まれてる方だと思うけど」
けれど、僕の呟きを聞いたらしい彼女は首を傾げてこう言った。セレブの中には、生まれた時から結婚相手が決められている人も少なからずいる。だから、相手を自分で決められる自分はまだマシな方なのではないか、と。
後から知ったことだが、彼女にはまだ幼い頃から政略結婚の話が舞い込んできていたらしい。それもご両親からではなく、よく知りもしない親戚から。
ご両親はむしろ政略結婚には否定的で、絢乃さんが将来本当に愛する人と結婚できるようにと、その縁談をことごとく断ってくれていたのだという。
「だからね、……たとえばの話、貴方もわたしのお婿さんの候補に十分当てはまるってこと」
次の瞬間、彼女の何気ないこの一言で、僕の思考はフリーズしてしまった。もしや、彼女も僕に好意を持ってくれているのかとも思ったが、現実的な理由は多分これだろうと勝手に解釈し、勝手に納得していた。
「……それって、僕も次男だからってことですか?」
確かに、僕は次男である。家を継ぐ必要もないし、そもそも桐島家は継ぐような家柄でもない。兄だって継ぐ気はさらさらないだろう。
でも、きっと僕は彼女の婿候補の一人でしかなく、もっと立派な別の家柄の次男が彼女のハートを射止めることになるのだろうと、彼女の気持ちをまだ知らなかった僕は思っていた。……のだが。
「そうよ」
頷いた彼女の口調には、若干の熱が込められているような気がした。この返事には、もっと深い意味があるのかもしれない。そう考えると、僕は勘違いかもと思いつつもつい嬉しくなってしまい、顔がニヤけてしまうのを抑えられなかった。
「そうなんですね……」
そんな僕の表情をまじまじと眺める彼女と目が合ったような気がして、僕は決まりが悪くなったので慌てて車外の道路標識へ視線を逃がした。
ちょうど
「――ゴメンなさい、桐島さん。ちょっと電話かけてもいい?」
「ああ、お母さまにですよね。どうぞ。お家で心配なさってるでしょうし」
いくら加奈子さん本人が僕に「絢乃さんを家まで送ってきてほしい」と頼んだといっても、やっぱり母親としてはお年頃のお嬢さんがこんな夜遅くに――もう九時半になろうとしていた――、男と二人きりだというのは心配すべき状況だったろう。
もちろん、僕が〝送り
絢乃さんは僕にお礼を言ってから、電話をかけ始めた。どうやら発信した番号はお家の固定電話ではなく、加奈子さんの携帯の番号らしかった。
彼女はお母さまに「ありがとう」と言ってから、今は恵比寿のあたりにいると答えていた。多分、「今どこにいるの?」と訊かれたのだろう。そしてお礼を言ったのは、パーティーの閉会宣言という大役を無事に終えたことを労われたからだろう。
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