彼女が背負っていくもの ④

 次に彼女が言ったことは、「桐島さんに車で送ってもらってる」というようなことだった。お母さまからどうやって帰っているのか問われていたのだろう。

 そして僕の思い違いでなければ、加奈子さんは彼女にわざとそんな質問をしたのだと思う。

 ……なぜなら。


「うん……? どういう意味?」


 次の瞬間、彼女が困惑していたからだ。きっと、お嬢さんが僕に送ってもらっていることを冷やかしたかったのだろう。加奈子さんが面白がっていたことは、直接会話を聞いていなかった僕にも手に取るように分かった。


「……そう?」


 加奈子さんはうまくはぐらかしたのだろう。絢乃さんは疑問形で返事をしていた。明らかに納得していないようだった。

 僕は運転に集中するフリをしながら、内心ではホッとしていた。

 彼女は僕に約束して下さったとおり、僕が絢乃さんに一目惚れしたことや、実は鼻の下を伸ばしていたことをお嬢さんに内緒にしていて下さったのだ。……もちろん、僕自身からもそんなことは口が裂けても言えなかった。


「――うん。じゃあ切るね」


 絢乃さんは、帰宅したらご両親に大事な話があるからというようなやり取りをした後、通話を終えた。「電話ではちょっと」と言っていたので、お父さまに受診を勧めたいという話のことだろうと僕にも分かった。


「――お母さまは、何ておっしゃってたんですか?」


 助手席で大きく息を吐いた彼女に、僕はそう訊ねた。彼女は少し顔色が冴えなかった。あんな内容の電話では、さぞ気が重かったのだろう。僕は加奈子さんが絢乃さんに余計なことを言わなかったのかということよりも、絢乃さんご自身の精神面が心配でならなかった。


「あ……、『帰ってきたら詳しく話聞かせて』って。パパは今のところ、顔色もよくなってきてるみたい」


 彼女はそう言って少し笑顔を見せてくれたが、顔色は正直だった。一時的に容態が落ち着いていたとしても、それは気休めでしかないのだと彼女には分かっていたのだろう。


 他にどんなことを言われたのか訊ねてみると、「桐島くんによろしく」と言われた、という答えの後、僕が加奈子さんとどんな話をしていたのかという質問返しに遭った。


「それは……ノーコメントで」


 僕はとぼけることで、その答えとした。彼女を好きになったことは、僕だけの胸の中にしまっておこうと思った。

 彼女がこの先、重いものを背負っていくことになるのなら、僕も一緒に背負っていこう。僕が彼女の支えになろう。たとえ、彼女に迷惑だと思われても。それが僕自身の自己満足でしかなかったとしても、きっと僕は迷わずそうしていただろう。


****


 その十数分後、僕が運転する軽自動車は彼女の家である自由ヶ丘の篠沢邸のゲート前に着いた。夢のような時間はもう終わりだと、僕は自分に言い聞かせた。


「――桐島さん、送ってくれてありがとう! パパのことも、心配してくれてありがとうね」


 助手席のドアを外から開けて彼女を降ろした後、篠沢家の外観を見上げた僕はその大きさに圧倒された。その大きな門の前では、僕なんてちっぽけな人間に見えてしまった。まるでかかっていた魔法がけて、現実に引き戻されたように……。

 彼女にお礼を言われたことは覚えているが、こんな僕にお礼なんて言わなくていいのに……と卑屈になってしまう自分がいた。


「……いえ。こんな僕でもお役に立ててよかったです」


 僕は控えめに言い、彼女に会釈を返した。

 きっと、彼女との接点はもうなくなる。僕の恋も、どうせ一夜ひとよの夢で終わるのだ。そう思った。


 その先も彼女と接点を持ち続けるには、自分から連絡先の交換を持ち掛けなければならない。でも……、いいのだろうか? 彼女が快く応じてくれる保証はどこにもないのに……。そう思うとなかなか切り出せなくて、僕は玄関アプローチへと歩き出す彼女の背中を見送ることしかできなかった。


 ……けれど、彼女は突然きびすを返し、僕の方へと戻ってきた。

どうしたのだろう? 忘れ物にでも気づいたのだろうか? 彼女が戻ってくる理由に、僕はまったく心当たりがなかったのだが。


「……ねえ桐島さん。連絡先、交換しない?」


 彼女はほんのり頬を染めて、僕に連絡先の交換を求めてきたではないか!


「はい?」


  僕は思わずうろたえた。僕の方から連絡先の交換を切り出すことをためらっていたのに、彼女の方からそれを求めてくれたのだから。それも、破壊力バツグンの上目遣いで。

 もちろん天にも舞い上がりそうなくらい嬉しかったが、それと同時に「いいのだろうか?」という気持ちにもなっていた。


 けれど、彼女は僕が困っていると受け取ったようで、僕からのアドバイスを言い訳にしてオドオドと弁解し始めた。上目遣いといい、そのテンパった様子の可愛さといい、僕のハートはもうノックダウン寸前だった。

 とはいえ、決してそれが迷惑だったわけはなかったので、僕はその申し出を断るつもりなんてなかった。


「いいですよ、絢乃さん。交換しましょう」


 彼女の弁解をさえぎり、嬉々として連絡先の交換に応じた僕に、彼女はおずおずと「ホントに……いいの?」と念を押した。念を押されるまでもなかったので、僕がもう一度頷くと、彼女は「お願いします」と言ってクラッチバッグからご自分のスマホを取り出した。


 こうして僕と彼女は無事に連絡先の交換を終え、彼女は改まって僕にもう一度お礼を言った。


「桐島さん、……今日は色々と、ホントにありがとう」


「お礼なら、さっきも言って頂きましたよ?」


 僕はそんな彼女が微笑ましくていとおしくて、笑顔でそう返した。

 彼女はこんなにも大きな家の跡取り娘として生まれ育ったにもかかわらず、偉そぶらずに常に謙虚で、人に対する感謝の気持ちを忘れない人なのだろう。すごく立派な女性だ。……僕は素直にそう思って、彼女のことをますます好きになっていた。


「お父さまとお母さまに、よろしくお伝え下さい。じゃあ、僕はこれで。絢乃さん、おやすみなさい」


「……うん。おやすみなさい」


 彼女に挨拶をしてから、僕は車に乗り込んだ。ルームミラー越しに、彼女が僕の車を見送ってくれている姿が見え、僕の心は見事にわしづかみにされた。もちろん彼女に計算なんてなく、無意識にだったのだろうが、男にとって好きな女性からのこの行動はたまらない。逆に計算でやっていたのなら、彼女はそうとうあざとい女性だということになるのだが。


 ――代々木へ向かう途中の路肩に一旦停車し、僕は兄に電話をかけた。


「――もしもし兄貴。俺だけど」


『おう、貢じゃん。どした? 今日は上司の代わりにパーティーに出るっつってたんじゃなかったか?』


 まるで〝オレオレ詐欺〟みたいな第一声になってしまったが、兄はそこにはあえてツッコまなかった。


「うん、そうだよ。今帰りなんだけど、実は今日、大変なことになっちまってさ……」


 僕は兄に、会長がお倒れになったことや、絢乃さんと知り合って、とある事情から彼女をお家まで送り届けたことなどを話した。――ただ、彼女に恋をしたことだけは言わずにいた。兄はゴシップ好きなので、色々と突っ込んで訊かれると面倒なのだ。


『――お前、そんな大変なことになってんなら、会社辞めるどころじゃねえじゃん? これからどうすんだよ?』


 兄には、今日にでも「会社を辞めさせてほしい」と会長に直談判するつもりだったことは話してあったのだ。


「そのことなんだけどさ、……俺、会社辞めないことにした。この先、俺にしかできないことが見つかるかもしんないから」


『…………そっか。なんかよく分かんねえけど、とにかくオレもホッとしたわ。まぁガンバれよ!』


「うん、サンキュ。じゃあ切るよ。おやすみ」


 僕は兄に礼を言って、電話を切った。

 兄も僕のことを心配してくれていたので、新たな決意を報告できてよかった。これで兄も両親も、とりあえずは安心してくれるだろう。そう思った。


 僕にしかできないこと――。とりあえず部署を異動することは決めていたが、具体的に彼女のために何ができるのかは、異動先が決まってから考えようと思っていた。

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