彼女が背負っていくもの ②

 でも、口に出して言えば彼女が気にするだろうと思い、僕は「そうですよね」と相槌を打った。

 ただ、この軽自動車だけは正直ミスったかな……という後悔は拭えなかった。せめてこういう事態が想定できていたなら、やっぱり父のセダン車を借りてくるべきだった。


「でも、絢乃さんに乗って頂くのに、こんな車じゃちょっともったいないですよね。自分で買ったんですけど、ケイじゃねぇ……。もっといい車にすればよかったかな、と思って」


 バツ悪く肩をすくめた僕に、彼女は「自分で車を買っただけでもスゴい」と言ってくれた。


 確かに、僕と同世代、もしくはもっと下の年代では、車を購入すること自体ハードルが高いのかもしれない。レンタカーで済ますか、親のスネをかじって買ってもらうかのどちらかだろう。僕のように軽が買えればいい方ではないだろうか。


 でも僕は、そのどちらもイヤだった。就職が決まった以上は自立すべきだから、親のお金をアテにしたくなかったし、だからといって毎日レンタカーというわけにもいかない。

 自分自身の当時の経済状況をかんがみて、とりあえずは軽に甘んじたが、軽は女性受けがあまりよろしくない。それでも彼女のように「軽でも構わない」と言ってくれる女性もいるのだと思うと、僕は嬉しかった。


「絢乃さんがそうおっしゃるなら、それでもいいんですけどね。この車のローン、もうすぐ終わるんです。そしたら、別の車に買い換えようかと思ってて」


 僕がそう言うと、彼女から興味津々で「もう車種は決まってるの?」と訊かれた。

「ローンの支払い額は高くなるけれど、次のはセダンにしようと思っている」と僕が答えると、彼女は一瞬表情を曇らせた。きっと、僕のその先の生活が苦しくなるであろうことに胸を痛めていたのだろう。

 経済的に厳しくなることは覚悟のうえで、それでも彼女にはもっといい車に乗ってもらいたかったので、僕にはもう迷いはなかった。


「次に絢乃さんをお乗せする機会があった時は、こんなに窮屈な思いはさせないで済むと思いますから」


 僕が何気なく言った一言に、彼女は照れたように「…………あ、ありがとう」と小さくお礼を言った。

 ……もしかして困っている? 俺、今絢乃さんをナンパしようとしてたのか!? 僕は顔から火が出るくらい恥ずかしくて、穴があったら入りたくなった。

 しばらく待ってみたが、彼女はすぐに嬉しそうにはにかんだ。その時はまだ、まさか彼女も僕に好意を抱いているなんて思ってもみなかったので、とりあえず彼女が困っていないことにホッと胸を撫でおろした。



**** 


 しばらく沈黙が続いた後、外の景色を眺めるのにも飽きてきたらしい彼女が、僕に質問を投げかけてきた。


「――ねえ、桐島さん。貴方のこと、教えてくれない? ご家族のこととか、今住んでるところとか」


「……はあ」


 チラッと助手席を振り返って見れば、彼女は体ごと僕の方を向いていた。「人と話をする時は、相手の方をちゃんと向くように」とお母さまからしつけられていたのだろう。もしくはお父さまから。


 彼女はどうして僕の家族のことや、住んでいるところに興味が湧いたのだろう? 僕なんて本当にどこにでもいそうな、何の魅力もない平凡な男なのに。

 疑問には思ったが、興味を持ってもらえたことは嬉しかったので、僕は身の上話を始めた。


「えっと、家族は両親と僕と、四歳上の兄の四人です。住んでるのは渋谷しぶや区の代々木で、僕は入社してからは実家の近くのアパートでひとり暮らしをしてます」


 ひとり暮らしの話までしたのは、今思えば下心も多少はあったに違いない。高校生相手に何を考えてるんだと自分でも呆れるが、健全な成人男子というのはてしてそういうものである。こればかりは男のさがなので、如何いかんともしがたいのだ。


 その答えに頷いた彼女は、今度は家族の職業を訊いてきた。

 僕自身のことはもちろん、僕の家族のことまで知りたがる理由はこの後明らかになったのだが、その当時の僕はそれを彼女の冗談だと思っていた。


「父は、大手メガバンクで支店長を務めてます。母は専業主婦ですけど、結婚前は保育士だったそうです。兄は……フリーターで、アルバイトを三ヶ所くらい掛け持ちして働いてます。調理師免許を持ってて、将来は自分の店を出したいって言ってます」


 兄とは決して仲が悪いわけではない。むしろ、社交的で何事にも積極的な兄のことを、僕は羨ましいとさえ思っている。女性にもモテるので、昔から恋人が途切れたことがない人だった。できればその恋愛テクニックと料理の腕は、ぜひとも伝授してもらいたかったくらいだ。

 ただ、僕がかつてバリスタを目指そうと思っていたことを逆手に取って、「将来は兄弟でイケメン喫茶やろうぜ!」としつこく誘ってくるところだけは、今でも正直ウザいと思っている。そこさえ除けばいい兄貴なのだが。


 彼女は父の職業を知り、僕の誠実そうなところはきっと父譲りでしょうと言った。

 父のことは、僕も尊敬している。出世に目がくらんだ政略結婚などではなく、母と恋愛結婚し、地道にコツコツと信用を勝ち取って今の地位にいる父は、たたき上げの銀行マンと言っていい。願わくば、僕も業種こそ違うが父のようでありたいと思う。

 そんな父のことを褒めてもらえて、僕は心から嬉しかった。


 とはいうものの、息子というものは、自分の父親のことを面と向かって褒められるのは気恥ずかしいものだ。……なので。


「そうですかねぇ……。ありがとうございます」


 僕は照れ隠しのため、あえてぶっきらぼうにお礼を言った。万が一にも彼女から〝ファザコン〟だと思われたくなかったというのも、まぁなくもなかったが。


「――桐島さんは、お父さまと同じように銀行に就職しようとは思わなかったの? もちろん、篠沢に入社してくれたことは嬉しいけど」


 彼女は、僕が父のことをこれだけ尊敬しているのに、どうして父と同じ銀行マンになる道を選ばなかったのかと疑問をぶつけてきた。


 もちろん銀行員もサラリーマンなので、彼女の家のようにしゅうである必要はないが、父親の働く姿に感銘を受けて息子も同じ職業に就くということはままあるだろう。でも、僕はそれをしなかった。


「はい。人には向き不向きってものがありますから。少なくとも僕は、銀行員には向いてないなって自分で分かってたので、就活の時真っ先に銀行は外しました。父の後を継ぐ必要もないですし」


 自分が金融関係に向いていないことは、僕自身が一番よく分かっていた。こんなお人好しの典型みたいな人間が銀行にいたら、勤め先の銀行はもちろん融資先の企業も大損をするだろうことは目に見えていた。そこまでひどくなくても、父のようにはいかなかったに違いない。


「そうよね……。うん、なんとなく分かるわ」


 彼女が頷いたのは、「父の後を継ぐ必要がないから」という理由にだろうか? それとも、「僕はお人好しだから、銀行員には向いていない」という部分にだろうか? もし後者だったら、僕はきっと立ち直れない。


 実は就職活動の時、僕は篠沢の他にも数十社の――それも、ありとあらゆる業種の――入社試験を受けていて、そのうちの数社から内定を頂いていた。

 最終的に篠沢商事ここを選んだ決め手は、大学時代の先輩だった小川さんが在籍していることと、何より総合商社であるところが大きかったと思う。今思えば、運命的に引き寄せられたのかな……という気もしなくはないが。


「僕は篠沢に入社してよかったと思ってます。……まあ、正直給料もいいですし、でもそれだけじゃなくて。大企業なのに、みんなが家族みたいっていうか、アットホームっていうか。すごく働きやすくて、居心地がいいんです。絢乃さんのお父さまのおかげです」


 このセリフは半分本音で半分は建前だった。居心地は……、ちょっとばかり悪かった。辞めようとまで思っていたくらいだから。

 でも、彼女はまだパワハラの事実をご存じなかったので、この時にはまだそのことを打ち明けられなかったのだ。

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