彼女が背負っていくもの ①
「――ところで、絢乃さんはどうやってお帰りになるんですか? ハイヤーで? それともお迎えが来るんですか?」
素知らぬ顔で僕が訊ねると、彼女は「そこまで考えていなかった」と答えた。
大通りに出てタクシーをつかまえるから、どうにかなる。――彼女はそう言った。
その「どうにかなるさ」という楽観的な考え方は嫌いではないが、万が一どうにもならなかったら、彼女は一体どうするつもりだったのだろうか? ……まあ、そうならないために、加奈子さんは僕に頼んだのだろうが。そして、僕が絢乃さんを見てデレーっと鼻の下を伸ばしていたことは、彼女には口が裂けても言えない。
――それはさておき。
「
言ってから「しまった!」と思った。「もったいない」なんて、思いっきり庶民の感覚じゃないか!
確かに、丸ノ内から自由ヶ丘までタクシー代は高くつく。が、絢乃さんならそんなこと気にしないはずなのに、貧乏くさいと思われたかもしれない……。僕はひとり、どっと落ち込んだ。
でも、彼女が気にしたのは別の、それももっと重要な点だった。
「……え? でも貴方、車は――」
彼女は僕がお酒を飲めないことを知らなかったので、飲酒運転はマズいのではないかと気にされていたようだ。
そこで、僕が「下戸なので飲んでいない」と言うと、ようやく安心された。
「ああでも、立派な乗用車とかじゃなくて、
こんなことになると分かっていたら、自分のケイではなく父のセダン車を借りて来ればよかった。実家は僕の住んでいたアパートのすぐ近くだったのに。
いくら何でも、絢乃さんを乗せるのにケイでは失礼すぎやしないだろうか? ……僕は何だかちょっと恥ずかしくなった。
でも、彼女は嬉しそうにこう言ってくれた。
「ありがとう。わたしは軽でも全然構わないわ。じゃあ……お願いしようかな」
「はい! 安全運転で、無事にお家までお送りします!」
嬉しさのあまり、僕が大真面目にそう宣言すると、彼女は声を上げて笑った。
……やっぱり可愛い。彼女はその小さな背中に、とてつもなく大きな
僕はこの先、彼女の支えになろう。そのために、会社は辞めずに部署を変わろう。――本気でそう思い始めたのは、きっとこの時だった。彼女の笑顔に救われたから、今度は僕が……。
あの決意があったからこそ、今の僕がいるのだ。
「うん。桐島さん、お願いします」
彼女は年上の僕を立てるように、礼儀正しくペコリと頭を下げた。その可愛らしい仕草に、僕の胸はキュンとなった。
****
「――絢乃さん、どうぞ」
地下駐車場の自分の車の前に来た僕は、彼女にできるだけ広々と座って頂きたいと思って後部座席のドアを開けた。……が。
「ありがとう。――でも」
そう言って、彼女は後部座席ではなく、助手席の前に立った。そして、モジモジしながら上目遣いで僕に伺いを立ててきた。
「……ねえ、助手席に乗ってもいい?」
「えっ? ……はあ、いいですけど。絢乃さんがいいんでしたら」
ご本人が「乗りたい」と言っているのに、僕に「ダメだ」という権利はない。むしろ、本当に助手席でいいのだろうかという、ちょっと申し訳ないような気持ちになった。だって、ケイの助手席はセダン車のそれよりも
「ちょっと狭いかもしれませんけど、どうぞ」
僕が助手席のドアを開けると、彼女は僕へのお礼を言い、「ワガママ言ってゴメンなさい」と小さく謝ってから車に乗り込んだ。どうやら、僕を困らせてしまったのではないかと気にされていたようだ。
「……いえ」
僕は首を横に振り、助手席のドアを閉めた。彼女がキチンとシートベルトを締めるのを見届けてから、運転席に乗り込んでドアをロックした。
シートベルトを締める時、この狭い車内では助手席にいる彼女との距離があまりにも近かったので、僕の心臓がバクバクいっていた。
好きな女性が、手の届く距離にいるというこのシチュエーションは、健全な成人男子にはかなりの毒である。刺激が強すぎる。
気まずくて顔を合わせられず、僕はまっすぐに正面を向いてエンジンをかけた。
でも、運転中に何も会話をしないままなのも不自然だったので、僕は自虐に走ることにした。
「――すみません、こんな貧乏くさい車で。窮屈ですよね」
言っている自分が、いちばん情けなかった。こんな小さな車しか買えなかった、安月給(……でもないが)のサラリーマンである自分が。それを自虐的に笑って彼女に話していたことが、かもしれない。
大財閥の会長令嬢として生まれ育った彼女は、僕にとっては高嶺の花、雲の上の存在だったのだ。
こんなことでもなければ、僕とは接点のなかった人。住む世界の違う人。このシチュエーションをセッティングして下さった加奈子さんには感謝だが、同時に父親が病に倒れ、ショックを受けている彼女の心の傷につけ込んでいることへの罪悪感も抱いていた。
「後部座席なら、もっと広いと思ったんですけど……」
こんなに小さくて貧乏くさい車なら、せめて後部座席に乗ってもらった方がまだマシだったのでは……と思い、さらに言葉を重ねた。
けれど、そんな僕の意に反して、当の彼女はワクワクしているようだった。
「ううん、いいの。わたしがお願いしたんだもの。助手席って、一度乗ってみたかったのよねー」
彼女は楽しそうに、初めて乗ったという助手席の窓から見える外の風景を無邪気に眺めていた。
「へえ……、前からだと外の景色ってこんなふうに見えるのね。面白ーい♪」
そのはしゃぎっぷりがあまりにも可愛いので、運転中だというのについ見惚れてしまいそうになった。……いかん! と自分を律しつつ、運転に意識を傾けながら彼女と会話を続けた。
「――絢乃さんは普段、車に乗られる時は後部座席なんですか?」
僕の素朴な疑問に、彼女は小首を傾げてから答えた。
「そうね……、乗る時はやっぱり後ろの席ばかりかな。もっとも、車に乗る機会自体、あんまりないんだけど」
「そうなんですか?」
意外な答えに、僕は驚いた。勝手なイメージではあるが、〝名家のお嬢さま〟といえば、黒塗りのリムジンなどで、お抱え運転手に送迎してもらうのが当たり前だと思っていたのだ。篠沢家のお抱え運転手だという寺田さんは、その数時間前に見かけたばかりだったし……。
でも彼女の話によれば、学校へは電車通学だし、寺田さんに送迎を頼むなんて申し訳なくてできない、とのこと。……彼女はなんて心のキレイな人なのだろう。使用人のことも家族として大事に思っているなんて。
それに、お父さまが運転なさる車で親子三人でお出かけになる時には、彼女は後部座席で助手席にはお母さまが乗り込まれるのだと。だから、前から見る景色がどんなものなのか見てみたかったのだそうだ。
つまり、この日が彼女にとって〝助手席デビュー〟だったわけである。その栄誉ある運転手の役目を、僕は加奈子さんから仰せつかったのだ。
「そうですか……。じゃあ僕は今、身に余る光栄を
「えっ?」
「だって、絢乃さんの助手席初体験が僕の車なわけですから」
何を言っているのか分からない、というように首を傾げた彼女は、僕の次の言葉に
「そんな、〝賜ってる〟なんて大げさねぇ。わたしは女王さまでも、お姫さまでもないのに」
心優しい彼女はそう謙遜したけれど、僕にとっては似たようなものだった。彼女は雲の上の人で、それでもこんな僕の運命の人だったから。
童話でシンデレラが
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