僕の運命が動いた日 ②


****


「――いやー、島谷さんが来られなかったのは残念だが、彼には君のように若くて頼もしい部下がいたんだなぁ。まぁ飲みたまえ。さ、遠慮しないで」


「すみません。僕、アルコールだめなんです。本当に申し訳ないんですが」


 会場に入り、ビュッフェで料理を選んでからテーブル席に着くや否や、僕を待ち受けていたのは他の上役たちからの「飲め飲め」攻撃だった。

 うちの会社に、こんなにものん兵衛べえが多いとは思わなかった。パーティー会場内にはすでにアルコールの匂いが充満しており、飲めない僕でも酔いそうなくらいだった。


「このパーティーの料理はどれも美味いだろう? 一流ホテルの料理人がわざわざ出張で腕を振るってくれてるらしいからな」


「……はぁ。美味しいです……」


 味なんか分かるもんか。酔っ払いに絡まれながら食べたって、食べた気がまったくしなかった。ここでどんなものを食べていたのか、僕は今も思い出せない。

 それどころか、ストレスで胃がどうにかなりそうだった。


「もう帰りたいなぁ……」


 ウーロン茶をあおりながら、この日もう何度目かというため息をついた、ちょうどその時だった。

 僕の横を、柑橘かんきつ系の爽やかな香りをフワッと漂わせながら、彼女が通り過ぎたのは。


 身長は百六十センチ前後だろうか。ヒールの高い靴を履いていたので、もう少し高く見えた。茶色がかった長い髪には緩くウェーブがかけられており、淡いピンク色の膝下丈のドレスの上から黄色い上着を羽織っていた。


 僕の姿に気づいた彼女は、ニッコリ笑って僕に会釈してくれた。僕も慌ててお辞儀で返したが、その時に彼女と目が合った。 


 ちょっと下がりぎみの眉にクリッと大きな目、長いまつ、スッと通った鼻筋に、申し訳程度にピンク色のグロスが塗られたまだあどけなさの残る唇――。


 可愛い……。僕は彼女から目が離せなくなっていた。何とも恥ずかしいことに、僕は彼女に一目惚れしてしまっていたのだ。

 〝美人〟というよりは、〝可愛い〟というにふさわしい印象だったので、まだ未成年だろうということは予想できた。もちろんウチの社員ではないだろうことも。

 ということは、彼女は出席者の身内。もちろん、家族同伴で出席していた人も少なからずいたが、気になったのは彼女から漂うタダモノではないオーラ。

 もしかして、彼女は――。


「――そこのキミ、さっきウチの絢乃に見惚れてたでしょう?」


 不意に中年女性の上品な声がして、僕は肩をポンと叩かれた。ハッとして振り返ると、そこにいたのはウェーブのかかった長い髪の四十代前半くらいの女性。――彼女は平社員の僕もよく(顔だけは)知っている人物だった。


「も……っ、もしかして、会長の奥さまですか!?」


 僕に声をかけてこられたのは、なんと会長夫人のさんだった。


 スラリとした体型に、先ほど通りかかった女の子とよく似た大きな目。威厳に満ちた眼差し。長身でダンディな源一会長と並んでいたらすごく絵になるので、加奈子さんは僕たち社員の間で有名人だった。

 そして、源一会長が実は入り婿で、加奈子さんこそが篠沢一族の真のドンであるということも、周知の事実だった。


「あら、私のこと知ってるの? まあ当然よね」


 フフンと胸を反らした彼女に、僕はなぜかどこぞの女王を思い浮かべた。


「そりゃあそうですよ。……というか、先ほど〝ウチの絢乃に〟っておっしゃいませんでした?」


「ええ、言ったわよ。デレ~ッと鼻の下なんか伸ばしちゃって。高校生相手に」


「伸ばしてません! ……って、え!? 高校生!?」


 呆れたような、そしてちょっと面白がっているような彼女の言葉に、僕は耳を疑った。


「そうよ。あの子は私と篠沢源一の一人娘で、名前は絢乃。今、茗桜めいおう女子学院の高等部二年生。――何か訊きたいことある?」


「茗桜女子って……、あの、はち王子おうじにある、名門お嬢さま校ですよね? 名家のご令嬢とか、政治家のお嬢さんとかが通ってるという……」


 僕はその学校名に聞き覚えがあった。というか有名な学校だし、中学時代の同級生の女の子が、「あたしも茗桜女子受けたいけど、学費高いからウチの経済力じゃムリだ」とグチっていたのを覚えていたからだった。


「ええ。あの子は初等部から通ってるわ。それも、私と夫が入学れたんじゃなくて、自分から通いたいって言ってね。何でも、制服が気に入ったらしいわ」


「へぇ……、そうなんですか……」


 親に押し付けられたのではなく、自分の意思で小学校受験をした子なんて珍しいと思った。何より、「制服が気に入ったから」という理由が何とも女の子らしくて微笑ましい。


「――ところでキミ、所属と名前は? 招待客じゃないわよね?」


「ああ……、ハイ。僕は本社の総務課所属で、桐島貢といいます。もちろん招待客ではないんですが、ウチの課長が別件で出席できないから……と、代理出席を命じられまして」


「あらまぁ、災難ねぇ。――というか桐島くん、あの子が私の娘だって気づかなかったの?」


「…………えっと、ハイ」


 そういえば、加奈子さんに何となく雰囲気とか、顔立ちも似ているような気がした。彼女から漂っていた〝タダモノではないオーラ〟の正体は、コレだったのだ。


「あの子はまだ幼いから。でも、あと五年十年経てば、きっと化けるわよー♪」


「……はぁ」


 彼女は当時、十七歳。それから五年後だと二十二歳、十年後では二十七歳。……きっととびっきりの美女になっているだろう。十九歳の今でも十分美人だが。


「まぁ、私の娘なんだから当たり前だけどね。というわけで桐島くん、あの子に手出しちゃダメよ? まだ女子高生なんだから」


「ですから、出しませんってば! これでも僕、常識はわきまえて――」


 そう言いつつも、僕の目はバーカウンターのところにいる会長の元へ行く絢乃さんについつい行ってしまっていた。彼女はどうやら、お父さまを探し回っている途中だったらしい。

 それにさとく気づいた加奈子さんが、僕にカマをかけてきた。


「あら? もしかして桐島くん、絢乃に恋しちゃったの?」


「…………」


 僕はグッと詰まってしまった。ウソをつくのが下手な僕に、否定できるはずもなかった。


「…………はい、実は一目惚れしてしまったみたいで……。お嬢さんが高校生だなんて知らなかったもので」


「あら、いいのよぉ。あの子、初恋もまだなんだもの。桐島くんみたいな誠実そうな人が初めての恋人になってくれたら、親としてどれだけ嬉しいか。――あ、そうだわ!」


「……? 何ですか?」


「今日パーティーが終わったら、あの子を家まで送り届けるの、あなたに任せていいかしら?」


「はい!?」


 加奈子さんのあまりにも突拍子のない提案に、僕は耳を疑った。


「あなたなら、下戸みたいだから車の運転も大丈夫そうだし。今日も車で来てるんでしょう? あなたがマイカー通勤してることは、ちゃんと知ってるわよ」


「……そうですけど」


 僕がマイカー通勤していることも、下戸だから飲んでいないことも、どちらも紛れもない事実だった。


「それに、あの子との距離も一気に縮められるかもしれないわよ? あなたが一目惚れしたってことは、あの子には内緒にしててあげるから♪」


 そう言って可愛らしくウィンクする加奈子さん。どうやら彼女は、僕のこの不毛な恋を後押ししてくれるつもりのようだった。


「はいっ! 奥さま、ご協力感謝します!」


「大げさねぇ。じゃあ頼んだわよ。――あら、あの人あんなところにいたわ。それじゃ、私はこれで」


 加奈子さんは僕に手を振ると、バーカウンターで話しているご主人とお嬢さんの元へ行ってしまった。


 篠沢家は、どうやら〝かかあ天下〟であるらしい。普段は会社で堂々たる風格をたたえていらっしゃる会長も、加奈子さんには頭が上がらないらしかった。加奈子さんに叱られている会長を見ていて、僕は何だか微笑ましい気持ちになった。


 小川先輩は、会場内には現れなかった。途中から来られる招待客やその同伴者もいるので、その対応で忙しかったのだろう。――僕が小川先輩のことに気を取られていた、次の瞬間。悲劇が源一会長を、いや篠沢親子を襲った。


 ――ガタン! 何かが倒れる音に続いて、彼女と加奈子さんが会長に必死に呼びかけている声が聞こえてきた。

 僕はすぐ近くにいたから、ハッキリと状況を掴むことができた。会長が倒れ、母娘おやこが彼を必死に介抱しているのだと。

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