第1章 恋の始まり

僕の運命が動いた日 ①

 ――僕が当時所属していた部署は総務課だった。社内にまつわる様々な雑務、イベントの運営進行が主な業務内容で、男女合わせて四十人ほどの社員が所属している。僕の同期入社も何人かいた。


 この総務課のボスが、現在は退職してしまった島谷しまたに照夫てるお課長。五十代半ばで、大手メガバンクで支店長を務めている僕の父親と年齢はそう変わらないと思う。典型的な中間管理職、そしてワンマン課長で、「部下の手柄は自分のもの、自分の失態は部下の責任」というとんでもない考えを持った上司だった。


 自他ともに認める〝お人し〟である僕は、そんな島谷課長のパワハラの格好の餌食えじきになっていた。彼がしなければならない残業を無理やり押し付けられたり、彼のミスを僕のせいにされたり、完全にキャパオーバーな仕事をさせられたり……。

 もちろん、断れない僕自身も悪いのだが、それにしてもひどすぎた。だいぶ後になって分かったことだが、彼の被害者は総務課の社員の九割に上っていたらしい。


「もう、この会社辞めたい……」


 四つ年上の兄のひさしや、大学の二年先輩で秘書室所属、会長付秘書を務めていた小川おがわ夏希なつきさんに何度そうこぼしたことだろう。

 仕事自体は嫌いではなかったし、同じ部署の先輩たちはみんな僕によくしてくれていたから、何とかギリギリのところで踏み留まっていたが、それももう限界に近づいていた。


 ――そう。彼女に初めて出会ったあの日も。


****


「――桐島君、ちょっといいかね?」


「はっ、ハイっ!」


 ……来た! 僕は課長に呼ばれた途端、ビクッとすくみ上がった。

 

 この頃、僕は彼に呼ばれるたびにキリキリと胃の辺りに痛みを感じるようになっていた。

 今度は何なんだ!? その時だって、僕は課長から「急ぎで頼む」と押し付けられていたプレゼン資料を作成していたというのに。また僕に何か押し付けるつもりだろうか?


「今日、篠沢会長のお誕生日なのは君も知ってるな?」


「……はあ。存じておりますが」


 彼女のお父さま・篠沢源一げんいち会長はこの日、四十五歳のお誕生日を迎えられており、夜にこのビルの二階にある大ホールで誕生パーティーが行われることになっていた。これは毎年恒例の社内行事のようなもので、彼の会長就任当時に有志メンバーで始めたのだと聞いたことがあった。


「夜のお誕生日パーティーには、わたしも招待されてるんだが……」


「……はあ」


 源一会長の誕生日パーティーには、管理職以上の社員とグループの役員、そして彼のご家族だけが出席を許されていたのだが……。課長の口ぶりに、僕はイヤな予感しかしなかった。


「残念ながら、私は他に用があってね。悪いんだが、君が代打で出席してくれんかね?」


 ……ほら、やっぱりな。「残念」とか「悪いんだが」とか言っているわりにはまったく悪く思っていない様子で、課長は僕にパーティーの代理出席を押し付けてきた。


「……は? 課長、今何ておっしゃいました!?」


「だから、君に、今晩の会長のお誕生日パーティーに、私の代わりに出席しろと言っとるんだよ。君なら物腰も低いし、上の人間の当たりも強くないだろうしな。頼んだぞ!」


 彼は僕が「痛い」と顔をしかめるのもお構いなしに、僕の肩をバシバシと叩いてきた。


「……あの、その場合、僕に時間外手当はつくのでしょうか?」


 上司の代理で会社の行事に出席する以上、これは立派な〝仕事〟のはずで。当然、給料にも時間外手当がついて然るべきだったのだが。


「これは仕事ではないから、そんなモンつくわけないだろう。では桐島君、頼んだぞ」


「ええーーーー……? ウソだろぉ……」


 いけしゃあしゃあと勝手なことを言い、課長は僕の意思などお構いなしに決めてしまった。あまりにも身勝手すぎる。


「はぁ~~~~、なんでおればっかりこんな目に」


「お前だけじゃないって、あの課長に振り回されてんのは。――胃薬いるか?」


 自分の席に座り込んで頭を抱えている僕に、隣の席から同期入社の久保くぼいたわわるような声をかけてくれた。

 ちなみに余談だが、僕のプライベートで……というか素での一人称は〝俺〟なのである。


「いや、胃薬はいらないから、お前がパーティーに出席してくれよ」


「悪いなぁ。オレも今晩、予定あるんだ。彼女とデートでさ」


「…………もういいよ。お前には頼まん」


 僕は彼にプイっと顔を背けた。なんて薄情者なんだ! 僕を気遣ってくれたと思えば、いざとなったら本当に困っている同期ぼくより彼女の方を選ぶなんて!


「桐島くん、災難だねー。あたし知ってるよー。課長、『用がある』なんて言ってたけど、ホントはクラブのお姉ちゃんと遊ぶだけなの」


「はぁっ!? 何すかそれ!」


 女性の先輩が、課長の身勝手さをあっさりばくしてくれた。僕は課長に対して、全身の血が沸騰ふっとうしそうなほどの怒りを覚えた。


 ――僕はこの時、久保が言った「あの課長に振り回されているのはお前だけじゃない」という言葉を大して気にも留めていなかった。ただ僕を慰めるための方便でしかないのだと。

 ところが、それは紛れもない事実だった。僕がそのことを知ることになるのは、その半年ほど先だった。


 ……もう、本当にこんな会社辞めてやる! その決意が一層固まる中、僕はこの夜、パーティーにのぞむのだった。

 その夜に、僕の運命が大きく動き出すことになるとは思いもせずに――。


****


 ――かくして、その日の夜。僕は退社すると一旦一人暮らしをしている代々木よよぎのアパートへ帰り、ビジネスバッグを置いて財布とハンカチ・パーティーの招待状(ただし課長宛てだ)・スマホだけをスーツのポケットに突っ込み、愛車である軽自動車ケイで本社ビルへ取って返した。


 この車は篠沢商事の内定が出た時、ローンを組んで購入したマイカーだった。

 ローンの支払いは、あと数ヶ月分を残すまで終了していたが、退職を考えていた僕がなかなか踏み切れなかった理由は、退職した後のローンの返済に困るからというのもあったかもしれない。

 依願退職なら退職金は出るだろうけど、入社三年目では金額なんてたかが知れている。だから、会社を辞めるわけにはいかなかったのだ。


 ……それはさておき。「パーティーに出席するのに、車で大丈夫なのか?」と疑問に思った人もいるかもしれないが、その心配は無用である。僕は下戸げこなので、アルコール類は一切飲めない。したがって、飲酒運転の心配は皆無なのだ。


 地下駐車場に車を停め、エレベーターで二階に上がると、大ホールの前の受付で僕は課長から預かってきた招待状をジャケットの内ポケットから取り出した。


「――本日はご出席どうも……、あれ、桐島くん?」


 受付にいたのは、会長付秘書を務められていた小川先輩だった。


「小川先輩、どうも。お疲れさまです」


「お疲れさま。……って、どうして桐島くんがここにいるの?」


 目を丸くした彼女に、僕は「上司の代打で、仕方なく」と答え、課長宛ての招待状を提示した。


「はい、ありがとう。――島谷課長のウワサは色々聞いてるけど、桐島くんも大変ねぇ……。断ればよかったのに」


「断れないから困ってるんじゃないですか。先輩、僕がどういう人間がご存じでしょ?」


「…………そうだったね。あなた、学生時代からお人好しっていうか、頼まれると断れないくらい意思が弱いっていうか」


「……先輩、それめてないですよね?」


 笑いながらそう言った小川先輩に、僕はジト目でツッコミを入れた。


「ああ、バレた?」


 彼女は悪びれた様子もなく、おどけてそうのたまった。僕はどう切り返したらいいか分からず、大きなため息をついた。


「それでも、桐島くんは偉いよ。『会社辞めたい』とか言ってたわりに、辞めないで仕事続けてるんだもん。昔っから責任感強いからねー、桐島くんは」


「…………それはどうも」


 これは間違いなく、彼女の褒め言葉だった。学生時代から僕のことをよく知っている先輩だからこそ、言えたのだと思う。


「ほらほら、そんな辛気臭い顔しないの! 代打とはいえ、せっかくのパーティーよ。楽しんでいきなさい」


「……はい」


 僕はあまり乗り気ではなかったので、戦場に向かう若武者のような気持ちで会場へ乗り込んでいった。

 その会場で、僕は彼女に出会ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る