第1章 恋の始まり
僕の運命が動いた日 ①
――僕が当時所属していた部署は総務課だった。社内にまつわる様々な雑務、イベントの運営進行が主な業務内容で、男女合わせて四十人ほどの社員が所属している。僕の同期入社も何人かいた。
この総務課のボスが、現在は退職してしまった
自他ともに認める〝お人
もちろん、断れない僕自身も悪いのだが、それにしてもひどすぎた。だいぶ後になって分かったことだが、彼の被害者は総務課の社員の九割に上っていたらしい。
「もう、この会社辞めたい……」
四つ年上の兄の
仕事自体は嫌いではなかったし、同じ部署の先輩たちはみんな僕によくしてくれていたから、何とかギリギリのところで踏み留まっていたが、それももう限界に近づいていた。
――そう。彼女に初めて出会ったあの日も。
****
「――桐島君、ちょっといいかね?」
「はっ、ハイっ!」
……来た! 僕は課長に呼ばれた途端、ビクッとすくみ上がった。
この頃、僕は彼に呼ばれるたびにキリキリと胃の辺りに痛みを感じるようになっていた。
今度は何なんだ!? その時だって、僕は課長から「急ぎで頼む」と押し付けられていたプレゼン資料を作成していたというのに。また僕に何か押し付けるつもりだろうか?
「今日、篠沢会長のお誕生日なのは君も知ってるな?」
「……はあ。存じておりますが」
彼女のお父さま・篠沢
「夜のお誕生日パーティーには、
「……はあ」
源一会長の誕生日パーティーには、管理職以上の社員とグループの役員、そして彼のご家族だけが出席を許されていたのだが……。課長の口ぶりに、僕はイヤな予感しかしなかった。
「残念ながら、私は他に用があってね。悪いんだが、君が代打で出席してくれんかね?」
……ほら、やっぱりな。「残念」とか「悪いんだが」とか言っているわりにはまったく悪く思っていない様子で、課長は僕にパーティーの代理出席を押し付けてきた。
「……は? 課長、今何ておっしゃいました!?」
「だから、君に、今晩の会長のお誕生日パーティーに、私の代わりに出席しろと言っとるんだよ。君なら物腰も低いし、上の人間の当たりも強くないだろうしな。頼んだぞ!」
彼は僕が「痛い」と顔をしかめるのもお構いなしに、僕の肩をバシバシと叩いてきた。
「……あの、その場合、僕に時間外手当はつくのでしょうか?」
上司の代理で会社の行事に出席する以上、これは立派な〝仕事〟のはずで。当然、給料にも時間外手当がついて然るべきだったのだが。
「これは仕事ではないから、そんなモンつくわけないだろう。では桐島君、頼んだぞ」
「ええーーーー……? ウソだろぉ……」
いけしゃあしゃあと勝手なことを言い、課長は僕の意思などお構いなしに決めてしまった。あまりにも身勝手すぎる。
「はぁ~~~~、なんで
「お前だけじゃないって、あの課長に振り回されてんのは。――胃薬いるか?」
自分の席に座り込んで頭を抱えている僕に、隣の席から同期入社の
ちなみに余談だが、僕のプライベートで……というか素での一人称は〝俺〟なのである。
「いや、胃薬はいらないから、お前がパーティーに出席してくれよ」
「悪いなぁ。オレも今晩、予定あるんだ。彼女とデートでさ」
「…………もういいよ。お前には頼まん」
僕は彼にプイっと顔を背けた。なんて薄情者なんだ! 僕を気遣ってくれたと思えば、いざとなったら本当に困っている
「桐島くん、災難だねー。あたし知ってるよー。課長、『用がある』なんて言ってたけど、ホントはクラブのお姉ちゃんと遊ぶだけなの」
「はぁっ!? 何すかそれ!」
女性の先輩が、課長の身勝手さをあっさり
――僕はこの時、久保が言った「あの課長に振り回されているのはお前だけじゃない」という言葉を大して気にも留めていなかった。ただ僕を慰めるための方便でしかないのだと。
ところが、それは紛れもない事実だった。僕がそのことを知ることになるのは、その半年ほど先だった。
……もう、本当にこんな会社辞めてやる! その決意が一層固まる中、僕はこの夜、パーティーに
その夜に、僕の運命が大きく動き出すことになるとは思いもせずに――。
****
――かくして、その日の夜。僕は退社すると一旦一人暮らしをしている
この車は篠沢商事の内定が出た時、ローンを組んで購入したマイカーだった。
ローンの支払いは、あと数ヶ月分を残すまで終了していたが、退職を考えていた僕がなかなか踏み切れなかった理由は、退職した後のローンの返済に困るからというのもあったかもしれない。
依願退職なら退職金は出るだろうけど、入社三年目では金額なんてたかが知れている。だから、会社を辞めるわけにはいかなかったのだ。
……それはさておき。「パーティーに出席するのに、車で大丈夫なのか?」と疑問に思った人もいるかもしれないが、その心配は無用である。僕は
地下駐車場に車を停め、エレベーターで二階に上がると、大ホールの前の受付で僕は課長から預かってきた招待状をジャケットの内ポケットから取り出した。
「――本日はご出席どうも……、あれ、桐島くん?」
受付にいたのは、会長付秘書を務められていた小川先輩だった。
「小川先輩、どうも。お疲れさまです」
「お疲れさま。……って、どうして桐島くんがここにいるの?」
目を丸くした彼女に、僕は「上司の代打で、仕方なく」と答え、課長宛ての招待状を提示した。
「はい、ありがとう。――島谷課長のウワサは色々聞いてるけど、桐島くんも大変ねぇ……。断ればよかったのに」
「断れないから困ってるんじゃないですか。先輩、僕がどういう人間がご存じでしょ?」
「…………そうだったね。あなた、学生時代からお人好しっていうか、頼まれると断れないくらい意思が弱いっていうか」
「……先輩、それ
笑いながらそう言った小川先輩に、僕はジト目でツッコミを入れた。
「ああ、バレた?」
彼女は悪びれた様子もなく、おどけてそうのたまった。僕はどう切り返したらいいか分からず、大きなため息をついた。
「それでも、桐島くんは偉いよ。『会社辞めたい』とか言ってたわりに、辞めないで仕事続けてるんだもん。昔っから責任感強いからねー、桐島くんは」
「…………それはどうも」
これは間違いなく、彼女の褒め言葉だった。学生時代から僕のことをよく知っている先輩だからこそ、言えたのだと思う。
「ほらほら、そんな辛気臭い顔しないの! 代打とはいえ、せっかくのパーティーよ。楽しんでいきなさい」
「……はい」
僕はあまり乗り気ではなかったので、戦場に向かう若武者のような気持ちで会場へ乗り込んでいった。
その会場で、僕は彼女に出会ったのだ。
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