僕の運命が動いた日 ③

 こんな状況なのに、僕には何もできなかった。あの親子との直接的な接点がないただの平社員の僕が出しゃばるところでもなかったし……。


 他の招待客たちに紛れて成り行きを見守っていると、加奈子さんがスマホで誰かに電話し始めて、しばらくしてから白手袋をした一人の初老の男性が会場に現れた。彼はどうやら、篠沢家お抱えの運転手らしく、加奈子さんと一緒に足元のフラつく源一会長を支えながらパーティー会場を後にした。

 でも絢乃さんはパーティー会場にひとり残ることとなった。途中退出されたお父さまに代わり、パーティーを締めなければならないからだろう。


「――桐島くん、大変なことになっちゃったね……」


 三人と入れ違いに、外の受付にいたはずの小川先輩が会場内に入ってきた。


「小川先輩!? いいんですか、受付にいなくて」


「うん。もう誰も来ないだろうし、奥さまに言われたから。絢乃さんは会場に残るから、後のことは彼女の指示に従うように、って」


「そうですか……」


「私、秘書なのに何もできなかった。会長のお体の調子がすぐれないっていうのは、社内でウワサになってたけど……。まさかお倒れになるくらいお悪かったなんてね」


 そのウワサなら、僕も耳にしたことがあった。それで合点がいった。絢乃さんと加奈子さんが会長を必死になって探し回っていた理由は、これだったのだ。


「ええ……。先輩、あんまり気落ちしないで下さい。今日のところはまだ、会長のお体の具合もそれほど悪くないみたいですし」


「うん……、そうだね。でも、奥さまも、もっと私に頼って下さったらよかったのに」


「…………はぁ」


 なぜか悔しそうな小川先輩。彼女はどうやら、会長の体調も心配らしいが、こういう時なのに自分が頼られなかったことが悔しくてたまらないらしかった。


「とりあえず、私もお腹すいたから適当に席見つけてゴハン食べとくわ。桐島くんは、これからどうするの?」


「僕は……、とりあえずお嬢さんのことが心配なんで、様子を伺ってきます」


 ――僕は絢乃さんを探して、会場内を歩き回った。彼女はステージに一番近い席に戻る途中、招待客につかまっては一人一人に(時には二,三人が固まってくることもあったが)状況を丁寧に説明していた。

 それにも疲れたらしい彼女は、やっと席に戻ると食事を始めたが、味なんか分からない様子で黙々と料理を口に運んでいるという感じだった。


 そんな様子の彼女を放っておけなかった僕は、どうにか彼女を元気づけたいと考えを巡らせた。

 彼女のいるテーブルへ向かう途中、デザートビュッフェの前を通りかかると、その中に美味しそうなフルーツタルトがあることに気づいた。

 実は僕もスイーツ男子で、甘いものには目がない。彼女もきっと、料理は食べられなくてもこれなら……。「甘いものは別腹」という言葉もあるくらいだし。


 でも、男ひとりでデザートビュッフェに並ぶのには勇気がいる。他に並んでいたのは同伴者の女性ばかりだった。

 彼女をダシに使わせてもらうのは忍びなかったが、デザートタイムに付き合ってもらうくらいならバチは当たらないだろう。


 僕は勇気を出して、彼女のテーブルへ向かい、彼女に話しかけた。


「――失礼ですけど、絢乃お嬢さん……ですよね?」


 オレンジジュースを飲みながらスマホを気にしていた彼女は、ハッと顔を上げた。そして、声の主が僕だと分かると、すぐに警戒を解いてくれた。


「えっ? ……ええ、そうだけど。――貴方あなたはさっきの……」


 僕と目が合い、お互いに会釈を交わしたことを、彼女は覚えていてくれた。僕は嬉しくて表情が緩みそうになるのをどうにかこらえ、礼儀正しく自己紹介をした。

 ……どうでもいいが、年下のはずの彼女がため口で、年上の僕が敬語なのはどういうことだろうか? まあ、特別疑問には思わなかったが。


「はい。僕は〈篠沢商事〉本社総務課の、桐島貢っていいます。……あの、向かい、座ってもよろしいですか?」


 おそるおそる伺いを立ててみると、彼女は「どうぞ」と快く許可してくれた。


「失礼します」


 僕が座るのを待ってから、どうして自分の名前を知っているのか訊ねた彼女に、加奈子さんから聞いたこと、彼女の学校名と学年まで教えてもらったことを打ち明けた。


「あそこって名門の女子校ですよね」と僕が言うと、彼女はそのことを大して気にしていないらしく、「そうらしいわね」と返してきた。

 僕だって、学校名のブランドなんかに興味はない。大事なのはどこの学校に通っていたかではなく、その人がどういう人間かだと思う。

 彼女は家柄や学校名に捉われなければ、ごく普通の女子高生だった。初めは一目惚れだったが、僕が彼女に惹かれた理由もそういう気取らないところからだったのだ。


 僕は小・中・高校と公立校に通い、大学も一流ではなかった。それから平凡に就職して、平凡なイチ社員として平和にサラリーマン生活を送ることができればそれだけで幸せだった。……あのパワハラさえなければ。

 

「――ねえ。貴方、総務課って言ってたよね? 今日、総務課の課長さんは?」


 ちょうど島谷課長のことを忌々いまいましく思っていたところへ、彼女からの鋭い質問が飛んできた。

 招待客ではない僕がこの会場に来ている理由を、彼女に話さないわけにはいかない。でも、パワハラのことまで話してしまえば、心優しい彼女はきっと心を痛めてしまうだろう。ただでさえ、父親が倒れてメンタル的に参っている時だというのに……。


 さて、どこまで彼女に話したものかと悩んだ末、僕は「課長に急用ができて出られなくなったので、自分がピンチヒッターで」という事実だけ打ち明けることにした。


「そうなの。……うん、確かに貴方、頼まれたら断れないタイプに見えるわ」


「…………」


 それに対しての彼女の評価は、ズバリ当たっていた。

 確かに僕は、課長の命令(もはやこれは、〝頼み〟という次元の話ではなかった)に「イヤ」と言えずにあの場にいた。そして、そんな横暴な上司も嫌だったが、それ以上に「イヤ」と言えない気弱な自分も嫌でたまらなかった。


 それでも上司と会長、どちらの顔も潰すわけにはいかず、一応は義理を果たすためにああして命に従ったのだが。実は源一会長があんなことにならなければ、僕はあの日、退職させてもらえるよう彼にじか談判だんぱんするつもりでいたのだ。

 会長に、社員の人事をどうこうする権限があるのかどうか分からなかったが、少なくとも会長から人事部へ話は通してもらえたはず。でも、予定が狂ってしまった。僕はこれからどうすればいいのだろう……?


 もし彼女に出会っていなかったら、僕はきっと途方に暮れていたか、もしくはこんな会社にさっさと見切りをつけて辞めてしまっていただろう。僕は彼女の存在に、少なからず救いを見出していたのかもしれない。


 彼女は僕に、「パワハラに苦しめられてるなら、労務に相談した方がいい」とごもっともなアドバイスをしてくれた。

 彼女に出会う前の僕なら、すぐに反発していただろう。「それができないから、困ってるんです!」と。でも他人事ではなく、まるで家族を心配するような言い方だったので、僕は不思議と素直に彼女の言葉に頷けた。


「でも、今日はむしろ出席してよかったと思ってます。絢乃お嬢さんや加奈子さんとお話しする機会なんて、こういう場でもなければめったにありませんし」


 これは僕の本心であり、そしてほんの少しの下心もあったのだと今は思う。

せっかくなら、この縁をもっと深くして彼女との距離をより縮めたいという願望。……まあ、彼女は男性に免疫がなかったらしく、それには気づいているのかいないのか分からなかったが。

 

 心なしか、彼女の顔が赤かったような気がするのは僕の気のせいだったのだろうか。その謎は今もって謎のままである。


 ほんのちょっと、彼女を困惑させてしまったかもしれない。「ヤベっ」と思った僕は、とっさに話題を変えた。一足早く帰宅された源一会長の容態が心配になってきたのだ。


「――そういえば、お父さまは大丈夫ですか? さっきお倒れになったでしょう?」


 打って変わってシリアスな話になり、彼女も僕が本気でお父さまの体調について案じているのだと理解してくれたらしく、僕に本音を打ち明けてくれた。


「ええ、そうなの。母に付き添われて、早めに帰ったんだけど……。パパは最近、具合が悪そうだったからわたしもママも心配してて。でもまさか倒れるくらい悪かったなんて……」

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