第3話 世界の風味を君へ
一之瀬家の玄関には、これから食の旅へ出かける正輝と、それを見送る美羽の姿があった。
「じゃあ。行って来るから。
多分10日間くらいで戻ると思う。」
正輝はこれから始まる旅行にワクワクとして、キラキラと瞳を輝かせていた。
そんな正輝に美羽は
「行ってらっしゃい。気を付けて。
アールシュさんによろしく。」
と声をかけた。
アールシュとは、夫婦が店のイートインコーナーで振舞うための茶葉を探してインドを訪れた時に出会った茶畑のオーナーだ。
そしてアールシュは正輝のヨガの師匠でもあった。
正輝はアールシュの下で、茶葉の勉強とヨガを学ぶ予定なのである。
「分かった。伝えておくよ。アールシュは美羽さんにも会いたがっていたからね。
アッサムの茶葉のでき具合も聞いておくよ。」
と正輝が答えた。
「そうだね。これからの季節はアッサムでミルクティーにして出すと、あのふんわりとした優しい香りと味にみんな笑顔になるの。」
美羽は既に、アールシュの茶葉でミルクティーを皆に振る舞った時のイメージを広げてワクワクしていた。
ところで、なぜ酒屋の店主の正輝が酒だけではなく、茶葉を調達しに行くかと言うと、それにはちょっとしたエピソードがあった。
それは正輝の古くからの友人が酒を一滴も飲めないからでる。
いや、飲めないのではなく飲まないのである。
なぜ彼は酒を飲まないかと言うと、彼は小児科医だからである。
病院は夜間でも休日でも関係なく、いつ患者が具合が悪くて受診をしに来るか分からないからである。
中には緊急を要するような時もある。
「どんな時にも誰かのために全力を注ぎたい。」
これが彼の信念であり、彼が医者を志した時から変わらない思いなのである。
正輝はそんな彼をとても尊敬して、
皆からも町の小児科医として、慕われている彼を誇りに思っていた。
しかし、彼のライフスタイルは暇さえあれば、書籍や論文を読み漁り、あまり家から出ないというものだった。
そう言った生活が彼はとても幸せだと言う。
正輝は勿論、彼のそう言ったライフスタイルをとても尊敬していた。
しかしその反面で、毎日誰かのために頑張っている彼に、時々少しの時間でも良いから休息して欲しいと言う思いもあった。
-友人のために何かできないものか…?-
正輝はずっと彼のために考えていた。
唯一彼は、仕事以外に好き物があって、
小さな楽しみがあった。
それはスイーツを食べることだった。
そこで正輝は、
-酒がダメなら、美味しいお茶はどうだろう?-
と考えたのである。
ラ・ブリエールで扱う茶葉は紅茶、緑茶、白茶その他にも色々な種類のものを契約して季節に合わせて調達している。
色々な産地のお茶は、実際に正輝が現地を訪れて、舌で味わい香りを感じ、作り手の話を聞いて買い付けるのである。
日本に留まらず、海外まで足を運んだ。
普段、あまり家から出ない彼が、お茶の味わいや香りで沢山の世界を感じられたら良いなと正輝は考えたのだ。
そして、彼は正輝が選んで来たお茶が大好きだった。
彼は正輝にとても感謝していた。
そんな風にして友情から、正輝の大好きな仕事が生まれたのだ。
誰かを思いやる。
それだけで人の心は豊かになるのである。
正輝は玄関を出て駅へ歩き始めた。
美羽は夫とのしばしの別れを少し寂しそうに、
「まさ!行ってらっしゃい。良い旅を。」
と言って、しばらく正輝の後ろ姿を見守っていた。
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