第2話アクリル板が晴れるまで

「みいちゃん、中ラーメン。みいちゃん、中ラーメン」

 娘の弾んだ声が、透き通った店内によく響く。コロナ禍になってから、この子がこんなに嬉しそうにするのは、ここに来たときぐらいだ。

「小ラーメンにしたら?未唯のお腹にはちょうどいいよ」

「や〜だ〜。みいちゃん、おとなのラーメンがいいも〜ん」

 私が夫と別れてから、未唯は何でも大人と同じものを欲しがるようになった。まだ小学校に上がる前だというのに、お子様ランチもお子様セットも、この子は卒業してしまった。

 もっとも最近では、ここにラーメンを食べに来るのが精一杯だ。一杯のラーメンを、母娘二人で分けて食べねばならない事態でないだけ、マシだろうか。

 カウンター席に座る私たち親子の前には、透明なアクリル板がそびえ立っている。このベルリンの壁みたいな無機質で非人間的な樹脂が、無言で状況を物語っている。

「アハハハ。みいちゃん、もう大きいもんなぁ」

「うん、みいちゃん、おっきもん。中ラーメン食べる」

 威勢のいい声に顔を上げると、アクリル板の上には、白いマスク。さらにその上には、二つの細い三日月が浮かんでいた。細かいことなど気にしないような人柄に癒される。

 でも店内は几帳面なほどに、いつも清潔に保たれている。おそらくマスクの下のどこを探しても、無精髭の手掛かりすら見つからないだろう。

 大将の頭の上には、額に入れられた「一陽来復」という書が、所在なさげに佇んでいた。

「この間も中ラーメン頼んで残しちゃったじゃない。忘れちゃったの?」

「たいしょーに、あげるもん」

「まあ、駄目よ」

「いやあ、俺の方は構わねえですよ。ラーメンの一杯や二杯そこらじゃ腹一杯にならねえですから」

 そう言って明るく笑う大将の周りには、暗い空気など微塵も感じられない。でも、この店だってコロナ禍の影響は免れていない。

 元々、うまい酒を出す居酒屋としてそこそこ繁盛していたこの店の壁には、もはや酒のさの字もない。

 代わりに貼られた手書きの文字には、ラーメンの大中小と、太いマジックで書いてあった。

 緊急事態宣言後、酒を提供できなくなったこの店からは、急速に客足が遠のいていった。

 資金繰りに困った大将は、ラーメンだけを出すことにした。元々は大将がまかないで作っていた、常連客だけが知る裏メニューだ。

 具材はシンプルにもやしだけ。飲んだあとに食べたくなる、あっさりとした醤油味だ。

 私は実においしいと感じるが、実際には酒のあとだからということもあるのだろう。わざわざここにラーメンだけを食べにくる物好きは少ないようだ。

「じゃあ、私も中ラーメンをお願い」

 狭い店内は、まるで透明な水をたたえた水槽のよう。コロナはこの店から、生命力とでもいったものを奪い去っていった。

 そして私の元からも。

 あの人と出会った店内は、あの頃のままなのに、中身はまるで別物だ。コロナが始まる前までは、全てが当たり前のようにそこにあった風景から、大切なものだけが奪われてしまっている。

「はい、みいちゃん、お待ち。熱いから、フーフーしなよ」

「みいちゃんの中ラーメン、みいちゃんの中ラーメン」

「そう、みいちゃんのラーメンだよ」

「すぐに食べちゃヤケドするわよ。まだ熱いから、フーッ、フーッてしなさい」

 フーッと勢いよく飛び出た小さな息は、先行きが不透明な幼女の行く手を白く染めて見えなくした。

「中ラーメン、おいしい」

 麺を啜るのは辿々しいが、大好きなラーメンに満足したのか、未唯はニッコリと微笑んだ。私はこの笑顔を誰に見せたがっているのだろう。

「ヤケド、大丈夫だった?」

「みいちゃん、へいきだもん。フーフーしたもん」

「はい、奥さんも。お待ちどうさま」

 大将が長い手を伸ばして、トン、と私の前にも丼を置いた。熱いスープから盛んに湯気が立って、目の前を曇らせる。なんだか、大将が手の届かない霧の向こうに行ってしまったみたいな気がした。見上げれば、そこに月は出ているというのに。

「この店、繁盛してます?」

「ご覧の通りでさ」

 顔を上げないまま語りかける。霧の向こうから遠い声がした。人と人とを結び付けるはずの温かな食事は、それが温かであればあるほど、人との距離を遠ざける。

「奥さんの方はどうです」

「ここに来るぐらいですわ」

「違えねえ」

 ささやくような笑い。コロナの前は、もっと豪快に笑う人だったと思った。

「もう奥さんじゃないのよ」

「そうでしたね。すいやせん」

「いいのよ。私、大将に謝られるような女じゃないもの」

 いわゆる、コロナ離婚というのだろう。流行には疎い方だ。タピオカも飲んだことがないというのに、どうしてこれだけは乗っかってしまったのだろう。夫が家にいる時間が長くなればなるほど、すれ違いが多くなっていった。

「奥さん、いえ、みいちゃんのお母さんのせいじゃありやせん。みんなコロナが悪いんです」

 そう思いたい。でも、そんなことはない。元々彼とは、心のボタンが掛け違っているようなところがあった。こうなることは、どこかで分かっていたのではないか。

「そうじゃないのよ。今だから思うけど、私、本当のあの人を見ていなかったような気がするの。私が見ていたのは、有名企業に勤めているとか、次男坊だとか、そういう、彼の上に乗っているものだけだったんじゃないかって。あの人が出ていったのは、私のせいだと…」

「ママ〜、みいちゃん、おなかいっぱい」

 案の定、未唯はラーメンを半分ほど残してしまっていた。

「だから言ったでしょ。ちょっと待ってて、タッパに入れて持ち帰るわ」

「たいしょー、あげる」

「そういうことしちゃ駄目なの。分かるでしょ」

「あ、いえ、いいんですよ奥さん。あ、いや、お母さん。へへっ、俺の晩飯っすから。他に客なんて来やしませんし」

 スープはまだ温かかったが、暴力的な湯気はなりをひそめ、アクリル板越しにも大将の顔が見えるようになっていた。まるで山上で霧が晴れて、絶景が見えてきたときのように。

「いえ、いけませんわ」

 麺だけを素早くタッパに詰め込むと、パチンとプラスチックの蓋を閉めた。

 私たちの間には、依然としてたった数ミリの分厚い透明な壁がある。

「そろそろお暇しましょう。未唯、ちゃんとごちそうさま言うのよ」

「たいしょー、ごちそーさま」

「ああ、みいちゃん、おいしかったかい」

「うん、おとなのラーメン、おいしー」

 マスクを付け直して、立ち上がる。

 店の扉を引くと、空から冷たいものが落ちてきていた。

「あら、雨」

「店の傘、使ってくださいよ」

「火照っていますわ。結構なものをいただいたばかりですもの」

「そんなこと仰らずに。しっかり消毒してありますから」

 そこを疑ってはいない。この人がそういうことを怠るはずはないから。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「今度いらしてくれたときでいいですから」

「たいしょー、バーバイ」

「ああ、バイバイ。また来ておくれよ」

 大将は十分に距離をとってしゃがみ、手のひらを振った。

 未唯はこの人に懐いている。でも、ママ以外の人には触っちゃ駄目だと言い聞かせている。アクリル板がなくても、私たちの間には一定の距離がある。

「今日はごめんなさい。なんか、私、変なこと言っちゃったわ。あんな話を聞かされたって、大将には迷惑だったわよね」

 恥ずかしげに俯く、私。

「奥さん、コロナはいろんなものを壊していきました。でも、俺にはどうしても壊されたくないものがあるんです」

 ハッとして顔を上げる。何物にも遮られることのない眼差しがそこにあった。

「こんなラーメンでよかったら、またいつでも食べにきてください。大丈夫ですよ。そのうちきっと良くなりますって。こんな店の大将が言うのもなんですけど」

「そうよね」

 再び現れた二つの三日月に、自然と顔が綻んだ。いつまでも沈まないでいて。そう願った。

 今度は壊れないようにしたい。

「またお邪魔しますわ」

「たいしょー、またね」

「ああ、みいちゃん、またな」

 何もかもが壊れたって、一つぐらい壊れないものだってあるわ。

 強くなりかけた暗い雨の中、湯気を立てて一歩踏み出す。

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アクリル板が晴れるまで いもタルト @warabizenzai

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