アクリル板が晴れるまで

シルコ・シルラ

第1話コンテスト「赤いきつねと緑のたぬき」

「みいちゃん、赤いきつね。みいちゃん、赤いきつね」

 娘の弾んだ声が、透き通った店内によく響く。コロナが流行り出してから、この子がこんなに嬉しそうにするのは、ここに来たときぐらいだ。

「ミニの方にしたら?未唯のお腹にはちょうどいいよ」

「や〜だ〜。みいちゃん、おとなのおあげさんがいいも〜ん」

 私が夫と別れてから、未唯は何でも大人と同じものを欲しがるようになった。まだ小学校に上がる前だというのに、お子様ランチもお子様セットも、この子は卒業してしまった。

 もっとも最近では、ここに赤いきつねを食べに来るのが精一杯だ。一杯のカップ麺を、母娘二人で分けて食べねばならない事態でないだけ、マシだろうか。

「アハハハ。みいちゃん、大きいお揚げさんがいいよなぁ」

「うん、おっきいおあげさん、おっきいおあげさん」

 マスクの上に浮かぶ、二つの細い三日月。細かいことなど気にしないような人柄に癒される。でも店内は几帳面なほどに、いつも清潔に保たれている。マスクの下のどこを探しても、無精髭の手掛かりすら見つからないだろう。

 大将の頭の上には、額に入れられた「一陽来復」という書が、所在なさげに佇んでいた。

「この間もおうどん残しちゃったじゃない。どうせ食べきれないんだから」

「たいしょーに、あげるもん」

「まあ、駄目よ」

「いやあ、俺の方は構わねえですよ。うどんの一杯や二杯そこらじゃ腹一杯にならねえですから」

 そう言って明るく笑う大将の周りには、暗い空気など微塵も感じられない。でも、この店だってコロナ禍の影響は免れていない。

 元々、うまい酒を出す居酒屋としてそこそこ繁盛していたこの店の壁には、もはや酒のさの字もない。

 代わりに貼られた手書きの文字には、「赤いきつね250円」「緑のたぬき250円」と、黒いマジックで書いてあった。

 緊急事態宣言後、酒を提供できなくなったこの店からは、急速に客足が遠のいていった。

 資金繰りに困った大将は、窮余の一策を打ち出した。インスタントのカップ麺を提供する、世にも珍しい店として生まれ変わったのである。

 狭い店内は、まるで透明な水をたたえた水槽のよう。小口ネギを散らしてくれるとはいえ、普通に買うよりも高いお金を払ってわざわざ店で食べる物好きは、私たちぐらいだ。

「じゃあ、私は緑のたぬきにしようかな」

 コロナはこの店から、生命力とでもいったものを奪い去っていった。

 そして私の元からも。

 あの人と出会った店内は、あの頃のままなのに、中身はまるで別物だ。コロナが始まる前までは、全てが当たり前のようにそこにあった風景から、大切なものだけが奪われてしまっている。

「はい、みいちゃん、お待ち。熱いから、フーフーしなよ」

「5分たった、5分たった」

「そう、5分経ったよ」

「みいちゃん、かずかぞえれるよ。いーち、にーい、さーん、しーい…」

「ほら、ご飯食べるときに遊んでちゃ駄目よ。熱いから、フーッ、フーッてするのよ」

 フーッと勢いよく飛び出た小さな息は、やっと20まで数えられるようになった幼女の行く手を白く染めて見えなくした。

「おとなのおあげさん、おいしい」

 大好きなお揚げにかぶりついて、ニッコリと微笑んでくれる。私はこの笑顔を誰に見せたがっているのだろう。

「ヤケド、大丈夫だった?」

「みいちゃん、へいきだもん。フーフーしたもん」

「はい、奥さんも。お待ちどうさま」

 熱々の緑のたぬきから立った湯気が、アクリル板を曇らせた。途端に大将が手の届かない霧の向こうに行ってしまったみたいな気がした。

「この店、繁盛してます?」

「ご覧の通りでさ」

 霧の向こうから遠い声がした。人と人とを結び付けるはずの温かな食事は、それが温かであればあるほど、人との距離を遠ざける。

「奥さんの方はどうです」

「ここに来るぐらいですわ」

「違えねえ」

 ささやくような笑い。コロナの前は、もっと豪快に笑う人だったと思った。

「もう奥さんじゃないわ」

「そうでしたね。すいやせん」

「いいのよ。私、大将に謝られるような女じゃないわ」

 いわゆる、コロナ離婚というのだろう。流行には疎い方だ。タピオカも飲んだことがないというのに、どうしてこれだけは乗っかってしまったのだろう。夫が家にいる時間が長くなればなるほど、すれ違いが多くなっていった。

「奥さん、いえ、みいちゃんのお母さんのせいじゃありやせん。みんなコロナが悪いんです」

 そんなことない。元々彼とは、心のボタンが掛け違っているようなところがあった。こうなることは、どこかで分かっていたのではないか。

「そうじゃないのよ。今だから思うけど、私、本当のあの人を見ていなかったような気がするの。私が見ていたのは、有名企業に勤めているとか、次男坊だとか、そういう、彼の上に乗っているものだけだったんじゃないかって。あの人が出ていったのは、私のせいだと…」

「ママ〜、みいちゃん、おなかいっぱい」

 案の定、未唯はうどんを半分以上残してしまっていた。

「だから言ったでしょ。ちょっと待ってて、タッパに入れて持ち帰るわ」

「たいしょー、あげる」

「そういうことしちゃ駄目なの。分かるでしょ」

「あ、いえ、いいんですよ奥さん。あ、いや、お母さん。へへっ、俺の晩飯っすから。他に客なんて来やしませんし」

 おつゆから湯気が立たなくなって、大将の顔が見えるようになった。まるで山上で霧が晴れて、絶景が見えてきたときのように。

「いえ、いけませんわ」

 麺だけを素早くタッパに詰め込むと、パチンとプラスチックの蓋を閉めた。

 私たちの間には、依然としてたった数ミリの分厚い透明な壁がある。

「そろそろお暇しましょう。未唯、ちゃんとごちそうさま言うのよ」

「たいしょー、ごちそーさま」

「ああ、みいちゃん、おいしかったかい」

「うん、おとなのおあげ、おいしー」

 マスクを付け直して、立ち上がる。

 店の扉を引くと、空から冷たいものが落ちてきていた。

「あら、雨」

「店の傘、使ってくださいよ」

「火照っていますわ。結構なものをいただいたばかりですもの」

「そんなこと仰らずに。しっかり消毒してありますから」

 そこを疑ってはいない。この大将がそういうことを怠るはずはないから。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「今度いらしてくれたときでいいですから」

「たいしょー、バーバイ」

「ああ、バイバイ。また来ておくれよ」

 大将は十分に距離をとってしゃがみ、手のひらを振った。

 未唯はこの人に懐いている。でも、ママ以外の人には触っちゃ駄目だと言い聞かせている。アクリル板がなくても、私たちの間には一定の距離がある。

「今日はごめんなさい。なんか、私、変なこと言っちゃったわ。あんな話を聞かされたって、大将には迷惑だったわよね」

 恥ずかしげに俯く、私。

「奥さん、コロナはいろんなものを壊していきました。でも、俺にはどうしても壊されたくないものがあるんです」

 ハッとして顔を上げる。いつになく、真っ直ぐな瞳がそこにあった。

「赤いきつねや緑のたぬきだって、俺がガキの頃から壊れずにずっとあります。きっと良くなりますって。こんな店の大将が言うのもなんですけど」

「そうよね」

 自然と顔が綻んだ。お出汁の効いたおつゆを飲んだときのように。

 今度は壊れないようにしたい。

「またお邪魔しますわ」

「たいしょー、またね」

「ああ、みいちゃん、またな」

 何もかもが壊れたって、一つぐらい壊れないものもあるわ。

 強くなりかけた暗い雨の中、湯気を立てて一歩踏み出した。

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