第8話「戦火」

「何を食べたい? 真面目なお前のことだから下調べはしてきたんだろうが、この国はパンとチーズに肉は羊だ。野菜の種類は豊富だが、海が無いから魚はダメだ。塩漬けしかねえ」

 笑顔の中年ウェイトレスの前でそう捲くし立てるウラサスに、ロザリスは少々気まずそうな表情を見せた。

「安心しなよロザリス。ここの連中は俺達の国の言葉は知らねえ。来たばかりだ。適当にお薦めを注文しておこうか?」

「軽くでいい……疲れてるんだ」

 ロザリスが呆れ顔でそう答えると、ウラサスは慣れた発音で——現地の言葉でウェイトレスに注文を始めた。ロザリスも多少の勉強はしてきたつもりだったが、列車に揺られながらガイドブックを読んだ程度では、日常会話に必要な単語を幾つか覚えたにすぎない。

 注文が終わり、ウェイトレスがテーブルを離れ、ロザリスは軽く辺りを窺った。そして口を開く。

「仕事か? ここは中立国だ。戦場じゃないぜ」

 ウラサスはすぐに答える。

「じゃあ、お前こそなぜここにいる?」

 ロザリスは目を逸らして答えない。ウラサスが続けた。

「こんな場所じゃ、誰かに聞かれそうで心配か?」

 ウラサスは周りのテーブルに目をやる。決して広い店ではない。テーブル同士も近い。何組かの客がいるが、それぞれ思い思いに食事をしたりティーカップを口に運んだり……夕方に近付いた強い日差しが道路に面した大きな窓から入り込み、中立国ならではの“のどか”な空気だ。窓ガラスに直接書き込まれた不規則に並ぶ文字が、程よく日差しを遮っている。

 ウラサスはその光景を見ながら続けた。

「見てみろよ。この国境沿いの小さな街の小さな店の、のどかな風景ってやつだ。ここは見た目通りの古い店さ。この時間この店にいつも来る客は全て把握してある。今は常連客ばかりだ。全員の名前、住所、仕事、家族構成……全部調べたよ。しかも、少なくとも今ここにいる連中はここの言葉しか知らない。従業員もな。シフトも調べたが教えるか? 従業員っていっても、経営者の夫婦の他はアルバイトが二人だけだが……明日来る子は若くて可愛い子なんだけどなあ。紹介してやろうか?」

 ロザリスは身振りだけで断る。

「色気の無い奴だ……もう若くもないだろ?」

「アンタほどじゃないさ。まだ二四だ」

「俺もギリギリ二〇代なんだぜ。仲間外れにするなよ」

「それよりも——」

 ロザリスの目が一瞬で鋭くなった。そして続ける。

「さすがだな。プロの情報屋は違うよ。で? 今は戦争以外に何を追いかけてるんだ?」

「いや……戦争だよ……」

 ウラサスの目も鋭くなる。

 二人の目の前にコーヒーカップが置かれた。会話が中断される。中年のウェイトレスは、ウラサスと笑顔でいくつか言葉を交わしてカウンターに戻った。ウラサスはコーヒーに口をつけ、大きく溜め息をつくと、胸ポケットから取り出したタバコにゆっくりと火を点ける。そして言った。

「お前の“情報屋”は俺なんだよ」

 ロザリスの目が大きく開く。それを見ながらウラサスが続けた。

「さすがに驚いたみたいだな。俺からすると、お前がビシッとスーツにネクタイっていう方がビックリだったけどな。Yシャツもネクタイも派手だなあ。スーツも高そうだし……光沢が安物とは違うっていうのかな……で? お前の“仕事”は一体何なんだ?」

 少し間を空けてロザリスが答える——声のトーンは確実に落ちていた。ウラサスの目を見ようとはしない。

「……果物の、缶詰の営業だ……」

「缶詰?」

「この国の提携してる輸入業者に新商品の売り込みをする為に来た営業マンさ……」

「そりゃあ……缶詰の派手なパッケージに合わせるんじゃ、派手なネクタイも必要な訳だ。戦時下の国から来たとは思えねえ。“上”の連中もいい加減だよなあ——ってことは、その重そうな鞄の中身は缶詰か?」

「カタログだ——バカにしてるだろ。これだって大事な任務だぞ」

 まだロザリスは警戒心があるのか、“任務”のところで声を落とした。

「いやいや、お前のような奴に何人か会って“仕事”をしてるが、“上”も色々考えるもんだぜ……」

「そっちこそどうなんだ。一体どういうことなんだ」

「報道特権って、聞いたことくらいはあるだろ? アレさ……ジャーナリストの仕事をしてて——まあ色々と条件はあるが、“国際報道機関ID”を持っていれば、殆どの国の入国審査が楽になる。郵便物だってノーチェック——だから俺に情報屋の話が来たのさ。しかも俺みたいなフリーの方が自由に動けるしな。俺に言わせれば、つまり、お前らは実働部隊って訳だ」

「お前ら? 他にもいるのか?」

「今はいねえ。人によって任務内容だけじゃなくて期間も違うしな。俺はその内容は知らん……情報を流すだけさ。本職と両立出来て楽だしな。だからお前の任務内容も当然知らないし、お前も俺には伝えないように言われてきたはずだ。まあ……向こうから送られてきた指示書にお前の名前があった時はビックリしたけどな。偽名も使わないとはいい根性だ。通常であればホテルに三日は“缶詰め”になってもらうとこだが、お前との仲じゃそうもいかねえ」

 “国際情報機関ID”——戦時中となるとどの国も人や物資の出入りに厳しくなるが、その場合の各国の報道に於ける平等性を作り出す為に生まれた、国際法に則ったものだ。元々前回の世界戦争後に、多くの国から国際連合に提出された議案の一つだった。結果、国際連合に加盟する国——つまり殆どの国々に対して有効な国際法となる。しかし誰でもIDが入手出来る訳ではなく、経歴や前科等を踏まえた上で、国の政府と国際連合の認定機関の承認を得なくてはならない。今回の戦争では国際連合の中立的立場を担う国々の戦争ということで、現在は国際連合そのものが機能していないに等しい。よって、開戦後のID取得は出来なくなっていた。

「しかし、よくIDなんて手に入れられたな……アンタのことだから金で買ったのかと思ったよ」

「元々持ってたのさ。人聞きの悪いこと言うな。お陰で開戦前にはあちこちで役に立ったよ——」

 ウラサスの口調が変わる。

「考えてみたら、あの夜以来なんだなあ……戦争が始まってもう四ヶ月か……このまま年を越すんだろうなあ。ここがこの時期でも暖かい所で良かったぜ」

 ウラサスはステンレス製の灰皿でタバコを揉み消すと、コーヒーを飲み干した。形の変形した灰皿が、タバコを消した時の勢いでまだ揺れている。ウラサスは振り返り、ウェイトレスにコーヒーのお代わりを指示した。笑顔で歩いてくるウェイトレスに、ウラサスは再び声を掛ける。ウラサスはロザリスに向きなおすと言った。

「お前は? コーヒーどうだ? ここのは安いけど美味いだろ?」

 相変わらず品の無い男だ……。

「そうだな。もらおうか……」

 しかしロザリスは、この男が嫌いにはなれない。

 戦争が始まる前——ガス・シャビルにバレないように、なぜウラサスはロザリスを守らなければならなかったのか……他の人間たちのように、ロザリスを利用しようとしていたとも思えない……しかもその行動は、ジャーナリズムを逸脱していた。ロザリスには、それがずっと謎のままだった。

 まだ熱いコーヒーを喉に流し込み、ウラサスは二本目のタバコに火を点ける。

「お前は、大丈夫なのか?」

 ウラサスはゆっくりとした口調で続けた。

「あんなことの直後に戦争が始まって……しかもこんな任務に駆り出されて……」

「いや……こういう仕事の方が向いてるのかもしれないよ……そんな気がしてたんだ……あの頃に似てるというか……」

「それはあまり、良くないな——」

 ウラサスはそう言い放つと、タバコを消しながら続ける。

「あんなことからはもう離れた方がいい……そうしろ。戦争が終わってからまた続けるつもりならやめておけ。俺の仕事が真っ当とは言わないが、お前のアレも……どうかと思うよ……あんな感覚は、良くない」

「しかし任務だ——邪魔はさせない」

 毅然と応えるロザリス。しかしウラサスもはっきりと応える。

「今回は仲間だ——信用しな。嫌だと思ってたら、お前と違って断るのは簡単だ」

「大体どうしてアンタが——」

「それだよロザリス……俺とお前がこうしてここで会うなんて、偶然にしちゃあ出来過ぎてると思わねえか?」

 指示書にロザリスの名前を見付けた時から、ウラサスにはそれが気になっていた。考え過ぎとも思ったが、やはり気になった。

 ロザリスが応える。

「上の方は……少なくとも俺に任務の説明をした人物は、俺が何をしてきたのか知っているようだった……」

「てことは、俺のことも知ってる可能性は高いな」

「…………」

「お前の線を追いかければ、俺の名前が必ず出てくるはずだ」

「…………」

「なんだか……きな臭くなってきたな……」

 突然、二人の目の前に、大盛りの料理が次々と運ばれ始めた。

 喜ぶウラサスに対して、ロザリスは溜め息をつく。

 ……これの、どこが軽い食事なんだ……。



 そして、開戦から四年近く——。

 夏——。

 第一六部隊は強い陽射しの降り注ぐフランツのマース陸軍基地にいた——。

 戦況は膠着状態だった。どの国も押し引きを繰り返し、敵国と隣接している国々は、それぞれ占領地を広げたり縮めたり……優勢かと思えば劣勢になり、広がり続けるのは参戦している国々の被害と犠牲だけだった。もはや誰にも勝敗の行方の分からないまま、ただ月日だけが過ぎていく……。

 戦争が長引くほど、各国の内政、財政状態も悪化していく。それは貧しい国だけとは限らない。大国もまた疲弊していた。ネプチューンは八カ国同盟を、マースに至っては四カ国同盟の他に、参戦を表明した——もしくは表明せざるを得なかった各同盟国をそれぞれ軍事的に支援していた。今回の戦争の中心となっている二つの大国とはいえ、やはり戦争の長期化と共に財政支出の増加が際立つ。国家間の輸出入の収入と言っても、取引相手の外国が戦争状態で減っている以上、期待は出来ない。国内の税収にしても、人口が減り、景気も戦争の長期化で下降を続ける中で、安定を維持させることは難しい。

 そんな国内情勢を反映し、当然のように国民の不満が募っていく。もはやどんなプロパガンダを持ってしても、そこに開戦時の士気の高揚は感じられない。国の基盤を造っている国民そのものが、もはや疲弊していた。自由を掲げる民主主義の国民に至っては、声高に反戦を唱える者も増え続け、抑圧を受ける社会主義の国民ですら軍国主義のプロパガンダを逃れてそれに感化されようとしていた。

 そんな中、マース大陸の近くの島国——アークチュルス、プルート、アルカイドが、同時にマースとの軍事同盟を締結して参戦を表明。戦火の目と鼻の先にありながら中立を守るビーナスとリゲルが動きを見せない中、確実に戦争は泥沼の様相を呈していた。例え参戦国が増えたとしても、次のターニングポイントはビーナスとリゲルにあった。世界中が注目する中、その二カ国に各国の報道関係者と諜報員がひしめき合うことになる……そして情報が飛び交い、血が流れた……。

 その日、第一六部隊には五人の新兵が配属された。そしてその管理は一等兵に昇格したばかりのアルクラスに一任される。元々一等兵としてアルクラスより前に部隊に配属されていたウィズバスク・ガランと同じ階級になる。しかし軍隊組織の中では当然扱いは異なった。ガランは陸軍高等大学を卒業していたからだ。一等兵までしか上がることの出来ない志願兵のアルクラスとは違った。だからと言って、アルクラスにとって不満がある訳ではない。最初から分かっていたことだった。終戦後に陸軍兵士としてやっていくつもりもない。戦争を経験しながら、アルクラスは捨てかけていた“夢”を掘り起こし始めていた。

 サターンとイザルの国境を挟んだ戦闘も膠着状態のまま進展はなかった。イザルはサターンの他にジェミニとミザルの二国と国境を接している。それに加え南の海岸線からは、島国のスピカからのマース勢の攻撃に曝されていた。防衛すべき国境戦線はかなりの長さだ。唯一、同じ八カ国同盟のカペラとの国境が存在するが、他の危険な国境に比べたら決して長くはない。八カ国同盟は、ネプチューンの後ろ盾があるとは言っても元々は小さな国々の集まりだ。経済的にも決して裕福とは言えない。しかしだからこそ多くの革命が生まれ、結果的にどの国もユートピア思想を軸とした社会主義国家になったとも言える。

 当初のマース側の見立てとしては、ネプチューンと軍事同盟を結んでいるとはいえ四カ国同盟の国々によって分断されている地理的条件からも、八カ国同盟の国々の国力では長い間戦い続けることは不可能だろうと予測していた。空爆の被害も合わせて考えると、その損害状況はかなりのものと思われる。しかし未だに戦争は続いていた。しかも四年が経とうというのに進展は無い。

 その日も暑かった。イザルとの国境沿いは殆どが森林地帯だ。その森の中で部隊を展開させている方が、直射日光の当たる量が少ない分涼しくもあった。しかしその森林の多くは湿地帯である。行軍を続ける各部隊は、覆い被さるような不快な湿気と格闘しなければならなかった。

 フランツのマース陸軍基地から輸送ヘリで森近くのベースキャンプに降り立った第一六部隊は、他の先発している部隊に続いて森の中へと分け入った。とは言っても最前線は一〇キロ程先になる。敵部隊と遭遇する緊張感はまだ無い。偵察行動とは違った。散開しての移動ではなく、この段階ではまだ列を成して進んでいるに過ぎない。各自がライフルを携帯していても、新兵の五人以外は構えもせずに持っているだけだ。

 先頭はコンツァード、続くウォーフ、ガラン、スタコブ——五人の新兵を挟んで最後尾がアルクラス。森の中の、辛うじて道と思われる所を進む。先行している偵察部隊の残した目印を頼りに進む為、足場の歩きにくさ以外は決して難しくはない。五キロ程歩いただろうか、予定通り拓けた川岸の休憩所に到着した。それほど大きくはない川だが、その川音のせいだろうか、草木で遮られていた太陽の光が強く照り付けているというのに不快感は少ない。

「三〇分だ。通信兵は無線機のチェックをしておけ」

 ウォーフのその言葉で、隊員達は思い思いの場所に腰を下ろした。とは言っても不思議なもので、なんとなく気の合う者同士が固まるものだ。新兵五人は無言で微妙な距離を取りながら座り込む。それを見ながら自分の新兵だった頃を思い出していたアルクラスは、スタコブ、ガランと共に近場の大きな石に腰を下ろしていた。

 ライフルの弾倉を外し、その中を覗き込みながらガランがスタコブに声をかける。出発前にライフルのチェックをしていることを考えると、よほど神経質な性格なのだろう。

「少佐と中尉……最近やけに仲がいいと思いませんか?」

 離れた場所で、二人だけで話し込んでいるウォーフとコンツァードを横目で見ながらガランは続けた。

「たまに、ぶつかることもあったくらいなのに……」

「まあ、元々、仲が悪いってほどでもなかっただろうに……」

 ガランと同じように横目で二人を見たスタコブがそう答えると、今度はアルクラスが口を挟む。

「コンツァード中尉も、少しは人間が丸くなりましたかね」

 そのアルクラスに視線を移したスタコブが応える。

「お前も言うようになったな……本人の前で言ったら撃たれるぜ」

 アルクラスは何も応えない。スタコブが続けた。

「まあ、お前がアイツに懐疑的なのも分かるけどな。人に好かれるタイプじゃないのは事実だ……とは言っても、一年前のアレは断言出来ん」

「それもそうですが——」

 そう言って続けるのはガランだった。

「俺はアルクラスに救われました。だから、という訳でもありませんが……アルクラスの言うことも分かります」

「戦場に個人的な感情を持ち込むな。命に関わるぞ」

 そう言い放つスタコブに対して、アルクラスが呟いた。

「感情がいらないなら……戦争なんてロボットがやればいいんだ……」

「賛成だな。その内、本当にそうなるかもしれないぜ」

 スタコブが再びウォーフとコンツァードを横目で見ながら続ける。

「そして俺達は政治家にでもなるのさ」

 苦笑いをするガラン。スタコブが更に続けた。

「軍人の会話じゃねえな」

 アルクラスはこのヨシフ・スタコブという男が好きだった。すでに四六才になるが階級は少尉になって長い。軍の高等大学を卒業していない経歴のせいなのだろう。いつかは目の前のガランにも追い越されてしまうことはスタコブ自身にも分かっていることだった。しかし戦歴から来る統率力と人望は、そう簡単に真似の出来るものではない。アルクラスも完全に傾倒していると言っていい。その信頼感は、スタコブの大柄な体を更に大きく見せているかのようだ。上官に見せる軍人らしい規律と、部下に見せる親身な態度を見比べていると、戦火を潜り抜けてきたベテラン軍人に対するアルクラスの理想形を見るようだった。

 自分はスタコブに父親を求めているのかもしれない——アルクラスはそうも思った。しかし今はそれでいいのかもしれない、とも思う。アルクラスは、スタコブのような軍人として立派な父親を欲し、それを自らも追い求めた。だからこそ海軍への夢を諦めたくなかった。戦争はいつか終わる——自分が生き続ける限り、家族には恩給が支払われる。母親と弟に使い切れる金額ではない。そのお金が貯まりさえすれば、海軍高等大学に入学出来る……この戦争を、何としても生き残らなければならなかった。

 一年前のあの時も、アルクラスは生きることを選んだ……。

 その日も、まるで今日のように暑かった——夕方の五時を回り、やっと太陽が傾きかけてきたことを感じられる時間、第一六部隊は戦火の只中にいた。

 開戦後一年くらい経った頃から、部隊内の隊員の移動、再編が急激に増えていた。一説には過度な兵士間の交流を避ける為という噂も流れたが、真意のほどは分からない。しかし開戦から半年以上が経ち、年が明けたくらいから、戦闘中の兵士の逃亡が増えたのは事実だ。しかもその多くは亡命が目的だった。単独のこともあれば複数、もしくは一部隊がそのまま……という事態まで発生する。軍の機密情報が漏れる可能性もある。主に再編の対象となるのは一等兵と二等兵。しかし現実には大尉以下の階級全てに飛び火していた。しかもそれはマースの兵士ではない。全てサターンの兵士だった。

 それから二年余りが経ったこの頃、第一六部隊はかろうじて二等兵の新兵だけの移動で済んでいたが、心中穏やかでないのはまだ二等兵だったアルクラスとロズル・ツーベルだ。しかもここ数か月は新兵の補充すら無い。移動命令の下る可能性は高い。

 その日は、そんな状態での作戦への参加だった。隊員数は七人——心許ない応援部隊ではあったが、コンツァードに言わせると、使えない戦力は足手まといになる——ということらしい。ウォーフは相変わらず何も言わなかった。隊長らしく、粛々と部隊を率いる。

 そしてその日の第一六部隊は、他の二部隊と共に森の中を急いでいた。決められた隊列を守る余裕などは無い。コンツァードを先頭にして、合計三部隊の全員が走っていた。数キロ先で、四方を敵に囲まれて完全に孤立した偵察の二部隊からベースキャンプに通信が入ったのは三〇分程前。攻撃ヘリが先行したが、リアルタイムな情報はもちろん分からない。

 夕方とはいえ、未だ木々の間に突き刺さる強い日差し——視界を遮る草木——額から首筋へ流れ落ちる大量の汗——足元から湧き上がる湿気が軍服の到る所に染み込み、隊員達の疲労度を増した。足に絡みつく草木を避ける為、通常よりも高く膝を上げなくてはならない。そして走り続ける。足の付け根の関節が外れてしまうような感覚に襲われながらも、戦場はまだ遠い……。

 三部隊の隊員が草木と共に入り混じる。背後からの攻撃ヘリの轟音が進行方向に消えていく。やがてその音が増えた——前後、左右に飛び交う。地面からの振動と共に、前方に日光よりも強い光が現れた。

 直後に隊員達を爆音が包む——。

 攻撃ヘリからのミサイルの上げる炎と煙——。

 他は何も見えない——。

 爆音は激しい風を起こし、強い光と共に隊員達の顔を叩き付ける——その光の強さは周りを暗く思わせるほどだ。日の光の存在を忘れた。

 ツーベルがいない——アルクラスが気付いた。いつから見失っていたのか思い出せない。

「散開だ! 散れ!」

 どこかからの声——アルクラスは考えるよりも早く動いていた。そう訓練されていた。他の隊員達も同様に動く——しかしその散開によって、全ての隊員が自分の居場所を見失う——。

 他の隊員はどこだ——? 

 ——自分はどこにいる……助けるべき兵士達はどこにいる……。

 風、音、光、振動——……。

 その全てが兵士達と戦場の感覚を鈍らせる。

 アルクラスの耳元で爆音が響いたとき、すでにその体は宙に浮いていた。自分で自分をコントロールなど出来るはずもなく、そのまま大木に右肩から叩き付けられる。再び宙に浮いた体がゆっくりと草の上に落ちていく中、アルクラスの頭の中で空間が回った。何も抵抗が出来ないまま、アルクラスはその意識さえも何者かに支配されてしまったかのような不思議な感覚を覚え、ここが戦場であることを忘れた。

 小さな弾丸が空気を切り裂く音——その音が意識の近くで響いた時、アルクラスはようやく“今”に戻る。それまで何分……いや何秒かもしれない。

 恐怖が急に押し寄せる……ありとあらゆる感覚が次々とアルクラスを刺激した。そして身を低くしたまま自然とライフルに手を伸ばした時、右肩から首、背中にかけて激痛が走る——。

 顔を歪める——今までに感じたことのない痛み……苦しみだった。その痛みに呼応するかのように恐怖が膨らみ、今までとは明らかに違う冷たい汗を感じた。

 ——敵はどこだ……——アルクラスは立ち上がった。強く激しい光に、視界は役に立たない。どこに攻撃ヘリからのミサイル——敵部隊からの迫撃砲が落ちるかも分からない。アルクラスは走った。

 背中のバックパックが首と背中を重くする。震える空気が、引き金を引く為の右腕に突き刺さった。辺りの銃声が爆音の合間を見付けるように絡みつく。耳を掠めるその音がする度、体の中を冷たいものが走っていく。

 ただ、走った——立ち止まってはいられなかった。まるで銃声と爆音に背中を押されるように走り続けた。目の前に何があるのかなど、アルクラスにはもちろん考える余裕も無い。気持ちよりも先に体が動いていた。

 ——声……? 誰かの声が聞こえる……叫び声だ……。

 周りの音の僅かな隙間に紛れるその声は、途切れ途切れにアルクラスの耳に微かに届いた。誰の声なのか、どこからの声なのか、まるで見当もつかない。

 どこだ——? じぶんの居場所すら理解出来ていないアルクラスの意識は、その声に翻弄された。やがてその声は完全に辺りの不規則な騒音と混ざり合い、アルクラスの存在を再び孤立させる。

 直後、“光”がアルクラスを包んだ——。

 音と爆風がその光を追いかけ、アルクラスを襲う——ほんの数センチ、体が真横に動いた——まだ立っていた——足が動く——光がゆっくりと引き、アルクラスの目の前に“声”が突如として現れる。

 ……ダメだ——!

 誰の声だ……聞いたことがある……。

 ……落ち着け——!

 アルクラスの足の動きに合わせ、しだいに声が近付く……。

「やめるんだツーベル! 何をしてるか分かってるのか!」

 ガランが——叫んでいた——。

 その声に、周りの銃声が溶け込む……アルクラスはすぐには事態を呑み込めなかった。

 ツーベルが、ライフルを構えている……目の高さで固定されたそれは、確実にガランを狙っていた——。

 ガランはライフルを手にしてはいるものの、銃口をツーベルに向けてはいない。両腕を軽く広げるようにしながら、少しずつ後退している。ツーベルは少しずつ詰め寄っていた。

 一歩ずつゆっくりと……。

 二人の周り、そして間を、何発もの銃弾が掠めていく。

 その光景を前に、アルクラスは動けない——。

 しかし叫んでいた——。

「どうしたツーベル! 何があった!」

 ツーベルは何も応えない。

 突如、ガランの体が後ろに崩れた。後ろ向きに歩いていたせいか、何かに足をとられたのだろうか……足元を隠す深い草木で、その原因はアルクラスからは見えない。後ろに腰から崩れたガランに、ツーベルは一気に歩み寄っていた。その銃口はもはやガランの目の前——。

 ツーベルは一言も口を開かなかった。アルクラスからは、言葉を発しているようにも見えない。ただ、時折辺りを照らす熱を帯びた光が、ツーベルの獣のような目つきを浮かび上がらせている。

 どのくらいの時間が経っているのだろう。もはやガランも口を開けないでいた。直接、目の前に銃口を向けられるということがどういうことなのか、アルクラスにはその恐怖が少しだけ実感出来た。どこから飛んでくるか分からない弾丸に対しての恐怖ではない……その弾丸は、確実に自分を狙っている……自分が何かをするよりも早く、それは自分を貫く……ガランはまさに今、その恐怖と戦っていた。

 アルクラスにとって、今の恐怖とは何だろうか……あの時、訓練最終日のあの時を思い出していた。あの時、自分は何を目撃し、何をしたのか……少なくとも、今のアルクラスに分かったことが一つだけあった。

 感情がある——それだけを感じた。あの時よりも、今の自分の方が感情の存在を認識出来た。

 そして、アルクラスの体はツーベルのすぐ横にあった。アルクラス自身が気付いた時には、いつの間にか自分がそこにいた——両腕でライフルを構え、その銃口はツーベルの頭へ……。

 一瞬、静寂のようなものが辺りに漂う……なぜかアルクラスの耳には、周りの銃声が途切れたように感じられた。

 誰も動けずにいた——。

 やがて、ツーベルの眼球だけが動き、アルクラスを捉える——いつもの目ではない……しかしアルクラスには、獣の目とも思えない……気持ちは読めなかった……言葉が出ない……。

 巨大な鉄の矢が空気を突き抜け、甲高い音を立てる——。

 地面に巨大な火の玉を造り出し、その光と振動が三人を包んだ——。

 何かの均衡が崩れる——立ち上がるガラン——それを追うツーベルの銃口……。

 最初に口を開いたのはガランだった。

「アルクラス二等兵……ツーベル二等兵は反逆罪だ——」

 どこかで、そんな言葉を聞いたことがある——アルクラスの脳裏に、不思議な感覚が蘇った。

 ガランが続ける。

「——連行しろ…………殺すな……」

 アルクラスは、全身に何かが駆け巡るのを感じた……しかしそれが何なのか、アルクラスには分からない……。

 ツーベルは動かない。ライフルの銃口がガランを捉えたまま——。

 アルクラスも動かない——例え引き金を引く時に腕と肩に激痛が走ることが分かっていても、気持ちを緩める訳にはいかなかった。

 銃弾が自分のすぐ背後を飛び交っていく——背中の神経が震えた……そのアルクラスの耳に、ガランの声が聞こえる。

「……ツーベル二等兵……仲間を殺したくはない……銃を下ろせ……」

 それまでとは違う……ガランのその言葉は柔らかいものだった。周りの爆音が、その違和感を際立たせる。

「今なら、まだ……罪にしなくても済む……下ろすんだツーベル……」

 ガランの恐怖はどれほどのものだったのだろうか……目の前の相手の指が動くだけで、確実に自分が死ぬ……その想像は、その後しばらくの間、アルクラスの頭から離れることはなかった。そしてその指を動かすことがどれほど難しいのかも、同時に考えていくことになる。

 そしてアルクラスは、人間の目付きが一瞬で変わる光景を初めて見た気がした。それはこの時のアルクラスにとって、そう思わせるだけの劇的なものだった。まるで、ツーベルの目の色までもが変わってしまったかのような、そんな気さえさせた。

 ツーベル……——アルクラスの指が、いつの間にか引き金にかける力を緩める……。

 しかし同時に、人間の頭が意外なほどに柔らかい物であることを、アルクラスは知った——。

 それは一瞬のことだったのかもしれない……しかしアルクラスには、その一瞬が長い時間に感じられた……——ツーベルの額が膨らむ——そして、頭の半分が吹き飛び、宙に舞った…………それはアルクラスの額にもかかる——熱い……体全体で感じた……。

 ゆっくりと、ツーベルの体が崩れていく……それは一瞬の出来事であり、アルクラスとガランが腰を落として辺りを警戒するまでも、同じく一瞬の流れだった……。

「——落ち着けアルクラス——」

 ガランの声だった。しかし体のあちこちにまだ温かい返り血を浴びたまま落ち着ける訳もなく、アルクラスは忙しなく周りに銃口を向け続けた。

 やがてその銃口の動きが止まった時、その先に現れたのは、愛用の重機関銃を構えた——コンツァードだった。

「……お前らか……」

 同時にコンツァードのそんな声が聞こえてきた。

「俺の弾には当たるなって言ってるだろうが。動かないと死ぬぜ」

 そう言いながら近付いてきたコンツァードは、二人の目の前に倒れているツーベルを見付けると、その頭を掴んで持ち上げた。そこからは何かがボタボタと落ちるが、アルクラスからは逆光でシルエットしか見えない。コンツァードはツーベルを地面に落とし、言い放った。

「お前らも——死にたくなかったら気を付けるんだな」

 コンツァードは背中を向けて歩き始める。

 アルクラスの銃口が動いていた——その目に危険を感じたのか、その銃身をガランが押さえつける——。

「ダメだアルクラス——!」

 ガランが小さな声で続ける。

「流れ弾かもしれない——」

 しかしアルクラスの目は変わらない——。

 例え重機関銃とはいえ、あの威力ということは近い距離だ。しかし、近くに敵は見当たらない……。

「あいつじゃない……アルクラス……あいつじゃないんだ……お前が反逆罪になるぞ——落ち着け……我慢するんだ——」

 コンツァードの姿が爆風の向こうに消える……。

 こんなにあったのかと思うほどの周辺の多くの音が、痛いくらいにアルクラスの鼓膜を刺激し始めた。アルクラスの中で、何かがその音に紛れるようにして薄れていく……納得した訳ではなかった……何かが変わっていったのか、もしくはごまかしただけなのか……。

 それから一年経った今でも、アルクラスはその答えを見い出せないでいた……。



 強い日差しの中での休憩時間というのも善し悪しで、黙っていてもヘルメットの中から汗が湧き出してくる。かといってヘルメットを脱ぐと日射病の危険があった。かろうじてすぐ横を流れる川の水音が、兵士達の気持ちを和らげている。動いている方が楽かもしれない——そう思う者がいたとしても当然であろう。しかしアルクラスだけは、全く別の想いに耽っていた。

「スタコブ少尉は、どう思いますか?」

 アルクラスのその質問に、少し間を開けてから溜め息をついて、ゆっくりとスタコブは応える。

「一年前のあれか……? 俺はその現場にいた訳じゃないからな……想像だけで答えを出す訳にはいかんよ」

「しかしあの時、周りには——」

「それよりも——ツーベルがどうしてあんなことをしたのか——という方が、俺には重要に思える」

 アルクラスはスタコブから目を逸らし、黙った。それを見てスタコブが続ける。

「お前と同期だ。年もそれほど変わらない。何か目的があったのか……それとも気が触れたのか……」

 スタコブはガランに視線を移した。すかさずガランが口を開く。

「俺は何も身に覚えがないんです……一年前に説明した通り……しかもあいつは……俺に銃を向けたまま、一言も喋らなかった……」

 何となくだが、ガランのその言葉にアルクラスは嘘のようなものは感じなかった。ガランが嘘をつくような軽薄な男ではないことも分かっていた。

 気のいい男だった。その為か上からの受けもいいが、下に対しても気さくな性格で、新兵からすると兄貴分のような存在だ。実際、ツーベルからガランの悪口等はアルクラスは聞いたことがない。ツーベルもアルクラス同様に、ガランを慕う新兵の一人だったのだ。

 しかし新兵の中には、同性愛者であるガランを明ら様に避けている者もいる。それでもガランは変わらなかった。堂々とさえ見える。その姿を慕う兵士がいるくらいだ。アルクラスやツーベルだけでなく、スタコブですらその精神的な強さには一目置いていた。スタコブからすれば、気が荒いだけのように見られるコンツァードよりも、ずっと信頼の出来る部下でもあった。

 信頼という観点で考えると、スタコブも最近のコンツァードの動きには怪しいものを感じていた。元々コンツァードと性格的に合わない部分があるのは、スタコブ自身分かっている。コンツァードも似たようなものを感じているだろうとも思っていた。しかし実戦となった場合に、コンツァードの実力を認めている部分はあった。危険な作戦の多い特殊強襲部隊の出身のせいか、部隊の中でその動きは飛び抜けている。軍人になって長いスタコブから見ても見事なものだった。

 しかしガランの言うように、確かにウォーフとコンツァードには気を付けておく必要がありそうだと感じていた。時には激しく言い争いをすることもあったというのに、近頃は二人だけで話しをしている姿が目立つ。部隊の中で仲違いをされるよりはいいのだが、その会話はどうやら、誰にも聞かれたくないもののようだった。二人だけの会話の時には、どういう訳か他の隊員を避けている——少なくともスタコブにはそう感じられた。そう感じられる場面が多々あった。元々ウォーフに対してもそうではあったが、軍人としての素質は認めても、なぜか全幅の信頼を置く気にはなれなかった。性格的な相性だけとはスタコブは考えていない。それは、スタコブの軍人としての素質からくる“感”なのだろうか……。

「あいつは確かに、おかしかったのかもしれません……」

 アルクラスが声のトーンを落とし、呟くように続けた。

「初めて実戦を経験してから……無口になって、常に思い詰めたような……そんな毎日でしたから……」

 スタコブは溜め息をついて、言った。

「確かにな……それは俺もガランも心配してたんだ。色々頑張ったつもりだったが……俺達が助けてやれなかったのかもしれないな……」

 するとガランも口を開いた。

「あいつは、軍人には向いてなかったのかな…………スタコブ少尉、軍人に向いてるって、どういう人間のことなんですかね……」

「俺達みたいな人間のことだろ」

「そりゃ嬉しいや」

 ガランはわざと笑ってみせた。

 しかしスタコブは、真剣な目でアルクラスを見て言った。

「お前は違うけどな」

 違う……? ——アルクラスはなぜか言葉を返せなかった。

「軍人ってのは、続けられる人間と続けられない人間がいる訳じゃない。続けた方がいい人間と、続けない方がいい人間がいるだけだ。お前も、自分で限界を感じたら、早目に足を洗うんだな。限界を感じることすら出来なくなったら、お終いだ……」

「ツーベルも……」

 アルクラスのその呟きに、スタコブは即答する。

「さあな。かもしれん……だが、それが分かるようなら俺は哲学者になれるぜ……やっぱり軍人の会話じゃねえな」

 スタコブは苦笑いをした。



 冬まではもう少し……サターン国内ではだいぶ涼しくなってきた頃だが、大陸の反対側のビーナスは年間を通してそれほど気温に変化の無い国だ。国土が広い為に北と南の違いはあるが、領土の中心部から南は殆どが砂漠である。

 ビーナスと国境を共にする同じく中立国のリゲルも、西側——つまりビーナス側の国土の多くは同じ風土の砂漠地帯であり、文化も近い。八か国同盟の一番西に位置する小国のメラクも同様で、しかもメラクの場合は国土の全てが砂漠と言ってもいい。文化圏としてもやはりビーナスとほとんど相違がない。

 それに対し、ビーナスの北側と国境を接するのが北国のネプチューンだ。常緑樹の森林地帯が国土の大半を占め、北限の地方は極寒の地と言っていい。常に雪に包まれた高く聳え立つ山々からは、雪解け水が地下水となり、南に行くことでそれは川となり、大陸の至る所に豊かな大河を形成した。まさに自然の恩恵と言えるだろう。その大河の一つがネプチューン国内で二つに枝分かれをし、さらにその一つがビーナスまで続き、ビーナス国内に二つの大河を造り上げている。広大な砂漠地帯を要するビーナスとしては、その二つの大河こそが生活の営みの糧であり、文化の中心だった。当然主要な都市の殆どが川岸に造られている。更にその大河の一つから枝分かれした大きな川は、リゲルを経由し、八か国同盟のアンタレスを通過——その沿岸から海の恵みへと姿を変えていく。

 ビーナスの首都——ニコロの国立図書館でこの地方の歴史や文化の文献を読み漁っていたロザリスは、その日も大きな窓際の席に座り、分厚い古書を目の前に積み重ねていた。

 数か月前、ウラサスとほぼ同時期にビーナスに入国したロザリスだったが、未だにこの国の八カ国同盟との共謀に関しての証拠は何一つ掴めていない。時にビーナスとリゲルを行き来し、サターンにはあれから一度も帰っていなかった。

 サターンとの情報のやりとりは、もっぱらウラサスが専門に行っている。しかしそのウラサス本人は、本職の為に時々サターンに帰国していた。この日もそんな日だった。一週間ほど前にウラサスがビーナスを出国してから、ロザリスは毎日この国立図書館に通い詰めていた。時間はまちまちだったが、手に取るのは決まって歴史や文化の本だ。

 そんな生活を続けて、すでに一か月近くなるだろうか……ウラサスも不思議がっていた。まるで取り憑かれたようだったからだ。任務と関わりのあることなのか、ロザリスは決して語ろうとはしない。ウラサスはデータとしての情報をサターンに流すだけで、ロザリスの任務に直接関係したことはなかった。具体的にロザリスがどんな任務を遂行しているのか、ウラサスはほとんど知らない。

 この日、ビーナスに戻ったウラサスは、その足で国立図書館へと向かった。少なくとも首都ニコロの中では国会議事堂に次ぐ大きな建物だ。蔵書の数も近隣の国々の中ではトップクラスのもので、事実世界的にも有名だった。まさにこの地方の文化圏の中心と言えるだろう。国の力の入れ方も相当なもので、文化や風土の博物館と言っても過言ではない。

 広い中庭は緑で溢れ、日の差し込むその庭園には、そこが砂漠の真ん中であることを忘れさせる力があった。その広い庭園を囲むガラス張りの建物。その大きなガラスに沿うように、建物の中には大きな机と椅子が幾つも並べられている。多くの来館者は、そこで庭園の造り出すゆっくりとした時間の流れに身を浸しながら読書を楽しむ——しかしロザリスは違った。満足に庭園を眺めたことなどは一度もなかった。今の彼に興味があるのは歴史と文化だけ——それを苦痛に感じることの無い彼にとっては、それに没頭することこそが自分に対する癒しだった。

「やっぱりここだったか。勉強熱心な奴だぜ」

 突然、そう声を掛けてきたウラサスに、まるで驚きもせずにロザリスは応えた。

「今回は早い帰りだったな。もっと遅いかと思ってたよ」

 顔も上げないロザリスの向かいの椅子に腰を下ろすと、ウラサスは大きく溜め息をついて言った。

「俺も予想外だったよ。四カ国同盟の検問所……何か所か機能してなくてな」

 やっとロザリスが、目だけをウラサスに向けて応える。

「噂は、本当だったってことか?」

「完全と言えるかどうかは分からないが、確かにあれは無政府状態だな」

「どこだ——」

「アルゲニブとアルクシャーだ。線路が残ってるのが奇跡だよ。ネプチューンが部隊を侵攻させるのも時間の問題だろうな」

「そうすると、だいぶ戦況も動くな……」

 ロザリスは再び視線を本のページに戻して続けた。

「帰るなら……早い方がいいのかもしれないな」

「そう思うな。どうする?」

「お前は帰った方がいい……帰れる内にな……俺は残る……」

「残る? お前の仕事がどんなものかは知らねえが——その読書は仕事の為か?」

ウラサスは手を伸ばすと、ロザリスの目の前から開いたままの本を奪い取った。

「おい——」

 とっさに声を発するロザリス。

 軽く目を通すフリをして、ウラサスは言った。

「小難しい本なんか読みやがって……今更こんな歴史の勉強なんかしてどうすんだよ」

「歴史と文化を知らずに政治は語れない……国民の為だけに、なんて綺麗ごとだ。思想がどこから生まれるか——」

「宗教もだろ——とりあえずよ……」

 ロザリスの言葉を制しながら、周りに目を配るウラサス——隣の机まではだいぶ距離はある。そう簡単に二人の会話が誰かに聞かれることは無いが、油断は出来ない。そしてウラサスが続ける。

「ここは公共の場だぜ。気をつけな……ただでさえ、中立国のこの国だって最近は血生臭い……あちこちの国のスパイとやらが動き回ってるみたいだしな。これじゃあ、この国だって戦場みたいなもんだ」

 ロザリスが何も応えないまま、ウラサスが続ける。

「俺はジャーナリストだ。自分の足で動いて自分の目で見る——歴史を知ってたって、今が見れなかったら——この先のことなんて分からない」

「今と先の判断をする為の材料は、過去の知識と歴史だ——」

「それじゃあ……人を殺すことも材料なのか?」

 ウラサスはそう言うと、開いたままの分厚い本をロザリスの目の前に突き返した。ロザリスはその本を、音を立てて閉じる。館内の広いホールに、その音が響いた——。

 少し間を開けて口を開いたのはウラサスだった。

「今、何時だ?」

 腕時計を見ながら続ける。

「もうこんな時間かよ。昼飯でも食いに行こうぜ」



 国立図書館正面の幅一〇〇メートル近くもある階段を降りながら、ウラサスが喋り続けていた。それを続けるに充分なくらいに段数も多い。

「これからもっと薄い本にしろよ。小さいヤツとかあるだろうが。あんなデカくて分厚い本ばっかり何十冊も選ぶから、片付けるのも一苦労だ」

 後ろを続くロザリスが渋々といった感じに応えていた。

「俺は片づけを頼んだ覚えはないけどな」

「親切心で手伝ってやったんだろ。そんなに活字が読みたきゃ週刊誌にでもしとけよ。街中どこでも売ってるじゃねえか」

「それこそ、くだらないよ」

「この国の週刊誌は少しお堅いぜ。俺達の国とは違うようだ。お前好みじゃねえか?」

 ウラサスはいやらしい笑みを浮かべた顔で後ろを振り返った。明ら様に嫌そうな顔をするロザリスを見て、続ける。

「昼飯の後にでも買いに行こうぜ」

 階段の途中で足を止めたままニヤニヤとするウラサスを、ロザリスは黙って追い越した。

 更にウラサスは続ける。

「なんなら俺が買ってきてやろうか?」

 その声を背中で聞きながら、ロザリスは階段を降り続けた。しかしウラサスと同じ方向からの別の男の声に足が止まる——。

「——シオン中尉——」

 無意識に、ロザリスの右手は腰の前まで動いていた——ジャケットの上から銃の有無を確かめる——その背後のウラサスの右手はジャケットの左脇の中——すでに銃のグリップを握っていた——しかし、二人はまだ振り向かない——。

 そして、明らかに張り詰めた空気の中で最初に口を開いたのは、その空気を感じていない三人目の男だった。

「お久しぶりです。シオン中尉——」

 ウラサスはその声で計った——左後ろ——腕を伸ばせばすぐ——。

 左脇からリボルバーを抜いて右方向に体を回す——“あいつ”のように左利きだったらもっと素早かったのにな……そう思った時には、ウラサスのリボルバーは茶色のハンチング帽を被った男の顎に突き付けられる——。

 しかしそのリボルバーを鷲掴みにして制したのは、ロザリスだった。

 状況を掴めないウラサスに、ロザリスは低い声で言う——。

「相手の位置と距離を考えた上での見事な身のこなしだが——ここでは派手すぎる……銃をしまえ——」

 ロザリスはゆっくりとリボルバーを下げさせた。納得の出来ないまま、その動きにゆっくりと呼応するウラサス。それを確認しつつ、ロザリスが口を開く。

「顔の前に銃口を突き付けられても表情を変えないとは胆の据わったヤツだ……見た顔だな。名前は?」

 するとハンチング帽の男がゆっくりと答えた。

「バスコノフ・スヴァルです」

「バスコノフ……?」

「四年前……入隊したばかりの頃に——」

 ゆっくりと視界から消えていくリボルバーを目だけで追いながら続ける。

「同じ部隊で一度だけ……御一緒しました」

「…………思い出したよ……だが、今の俺は缶詰のセールスマンだ……それを忘れるな」

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