第9話「立場」
ビーナス国内で一番大きな河は、首都ニコロを東西に分断している。行政機関の殆どは西側にあり、首都機能及び国家の中心がその西側にあると言っていい。東西を結ぶのはこの国一番の巨大な橋だ。片側三車線——計六車線と外側には広い歩道が付随し、橋の長さは二キロにも及ぶ。そこから見える河の流れは、まるで海峡のようでもあった。
その距離の為か、車や船で河を往来出来るとはいえ、国の中心である西側に比べると東側は決して栄えているとは言えない。ここ数十年で、裕福な者は西に暮らし、貧しい者は東に暮らすという流れが出来上がり、東にはスラム街まで存在するほどだ。その為、東の多くの者が橋を渡り、仕事を求めた。
国の産業の大きなものは地下から掘り起こされる原油である。国家へのその恩恵は計り知れないものがあったが、国家へ——であり、国民へ——ではなかった。国内の貧富の差は相当なもので、国際連合の中心となっている三カ国の中でも群を抜いている。国内で栄えている所は首都の西側と、国の西側の長い海岸線に点在するリゾート地くらいなもので、主に首都のニコロと言えば大河で分断された西側を指す。
その大河には、首都だけでもいくつかの港がある。西側に三か所、東側に二か所——それだけこの首都は大きかった。その東側の港の一つに——三人はいた。
港の一角——整地された広大なスペースに、山積みもしくは並べられた巨大なコンテナの群れがあった。船から下ろされたばかりの物もあれば、数か月足止めされたままの物もある。その管理は実にずさんだ。スペースが広いとはいえ、周りにフェンスや壁が存在する訳でもなく、入ろうとすれば誰でも簡単に入ることが出来た。最も、その周辺は砂漠が広がっているだけで、市民の居住区まではかなりの距離がある。
コンテナの群れのかなり奥に、ひと際派手に社名の印刷されたコンテナがあった。その大きなコンテナの中で悪態をついているのは、やはりウラサスだ。
「御大層なもんだな。国家予算でこんな派手な物造りやがって。ダミー会社なんだろ?」
それを聞いたロザリスも、さすがにウラサスのその言葉には同意見だった。自分の肩書用に書類の上でだけ存在していた会社が、初めて目の前に“実態”として存在する。社名入りのラベルが貼られた缶詰そのものが、コンテナ内部に段ボール箱で山積みされていた。正直ロザリスも驚いた。元々、それ用に用意されていたダミー会社なのだろう。コンテナの暗闇の中で、ランプ型の懐中電灯の弱い灯りが積み重なった箱を照らし出している。
「新人のスパイを送り込むのに何でここまで……税金の無駄遣いもいいとこだぜ」
そんなウラサスの悪態に応えたのはバスコノフだった。
「なかなかウマい設定だと思いますよ。このコンテナがどこの国を経由してここまで来たかお分かりになりますか?」
「四カ国同盟じゃねえのか?」
「確かに四カ国同盟からですが、その後で一度、中立国であるリゲルで止まります。問題はそこからです。常識であれば、リゲル国内で列車から船にコンテナを積み、ビーナスからリゲルに流れ込む大河を上って来れば簡単にここまで辿り着くことが出来ます。しかしリゲルからビーナスに、人間以外がダイレクトに流れることは無いんです」
「? どうしてだ?」
「この国が真の資本主義国家と呼べない理由です。砂漠地帯のこの地域では川の利権が原油と同じくらいの意味を持ちます。昔から生活の糧というだけでなく物流の拠点でもあるからです。その為に多くの港が点在しています。それは言い方を変えれば、“物”が各港から流出することも意味するんです」
「結構なことじゃねえか。それが文化ってものなんだろ? なあロザリス先生」
ウラサスはワザとロザリスに話を振った。しかしロザリスは、ウラサスの方を見ようともせずに黙っている。それを見ながらバスコノフが続けた。
「物が流れるということは、そこからその地域は豊かになっていく——極端な言い方ですが……」
「だから結構なことだろうが」
「国民にとっては結構なことですが、国の全てを管理したい政府にとっては、内情を掴みにくくなる為か……あまり喜ばしいことではないんです」
「全て……って、それじゃ社会主義国家じゃねえか」
「その通りです。ニコロの西側だけを見てると、とてもそうは思えませんけどね」
「形だけは資本主義の看板を掲げてても、実情は社会主義か……どっちもどっちだな。資本主義だって社会主義の母体の一つな訳だし……結局、この国は民主主義なのか? 社会主義なのか?」
すると今度はロザリスが口を開いた。
「歴史と文化を勉強してこいよ——社会主義だ民主主義だと言ったって、完全に相反するものじゃない。表裏一体ってヤツさ。皮を一枚捲れば、どこの国のトップだって何かの思想にどっぷり浸かってなどいないのさ。——週刊誌には書いてないけどな」
「嫌味な野郎だ」
ロザリスは構わず続ける。
「問題はリゲルからどこを経由してここまでの流通経路が出来上がっているか——それが問題だ……説明してやってくれバスコノフ」
「——ネプチューンです」
「やっぱりかよ——」
そう言ったウラサスが舌打ちをしながら続けた。
「いったい何がどうなってんだ?」
「ビーナスとしては、ネプチューンが一度物流の管理をすることで、国内の一般企業が自由にその流れを取り扱うことを出来なくしてるんです。なにせ相手は世界最大の社会主義国家ですからね。勝手に干渉は出来ませんから。しかもネプチューンからすれば、それがビーナスとの繋がりになる。これはかなり以前からの、両国の癒着のようですね」
「しかしサターンの企業の物資を敵国のネプチューンが——」
「お分かりになりませんか?」
初めてバスコノフはウラサスの言葉を遮り、続ける。
「ここが中立国だからですよ。しかも物資の送付先はビーナスの大手企業——信頼度は抜群です。中身はほぼノーチェック。しかしその大手自身は、当然我々のダミー会社から自分達宛にそんな物が送られているとは知りません。もちろんここで足止めされるように税関経由で手は打ってあります。なにせ中立国ですから……もちろんこれは、我が国の諜報員の活動の成果です——そうですよねシオン中尉」
すると、ロザリスが応えるより早く、ロザリスの方を見たウラサスが口を開いた。
「お前の仕事か?」
ロザリスは毅然と答えた。
「そうだ。俺の仕事でもある。しかし俺だけじゃない。多くの諜報員がいるんだ」
「俺はてっきり、中立国のビーナスとリゲルが、ネプチューンに手を貸してるかどうかを調べてるもんだとばかり思ってたぜ」
「それは今でも最優先事項だ。その調査の過程で、この国のネプチューンとの繋がりが掴めただけでも成果は大きい」
「で——」
ウラサスはタバコに火を点けて続ける。その煙が、淡い灯りの中で揺れた。
「それが分かったとしても、こんな密輸まがいなことして何しようってんだ? こんな缶詰の量じゃ、俺達三人で食ったって一〇年はかかるぜ。しかも全部果物かよ」
「これはダミーですよ。あいにく、缶詰なら年単位で腐らずに済みます」
バスコノフがそう応えると、立ち上がったのはロザリスだった。そしてタバコの煙を避けるようにして言った。
「どこにある?」
バスコノフも立ち上がり、ランプ型の懐中電灯を手に取った。そのバスコノフを先頭に、溜め息をついたウラサスが最後尾となって三人はコンテナの奥へ——そこにいくつかの大き目の木箱がある。缶詰の入った重い段ボール箱をいくつか避けると、その木箱は三つ——。
バスコノフが懐中電灯で辺りを照らしながら、何かを探している。ロザリスは黙ってそれを見守るが、ウラサスは再び溜め息をついた。
灯りが止まる——バスコノフはその先に照らされた小さな段ボール箱を開けると、そこからドライバーを取り出して木箱の隙間に捻じ込む。鈍い音と共に木箱の蓋は簡単に開き、バスコノフはそれを開け放った。灯りで中を照らすと同時にロザリスが覗き込んで口を開く。
「国と軍の協力が得られないはずなのに、よくこれだけ揃えられたな」
「国はどうか分かりませんが、私の知る限り軍としては協力体制に切り替えたようです」
バスコノフはそう応えて、更に続けた。
「正直焦っているようです……ビーナスとリゲルの真意が掴めないまま、戦況は膠着状態ですからね。何としても軍は情報を欲しがっています。そうでなければ、今回の中尉の要望のこの品だって揃えることは難しかった……中尉自ら密輸方法を支持して下さったのも後押しにはなりましたが……」
「……膠着状態?」
二人の背後から、ウラサスの声が響いた。
「戦争の何が膠着してるっていうんだ……四カ国同盟は死にかけてるじゃねえか」
それに応えたのはバスコノフだった。
「あそこが無くなってもこの戦争は終わりませんよ。今やマース勢力とネプチューン勢力の争いです。四カ国同盟の内紛は戦争のキッカケに過ぎない——元々そういう危うさをあの国々は抱えているんです。だから戦争中だっていうのに国内でいざこざなんか——」
「無政府状態なのは戦争のせいだけじゃないのか……?」
「マースが四カ国同盟から手を引き始めたのも理由にはなると思いますが……」
「そういうことか……」
ウラサスはそう呟くように言うと、タバコを床に落として足先で揉み消した。それを見ながら、ロザリスが口を挟む。
「ジャーナリストも形無しだな」
ウラサスがロザリスを睨みつけるが、それを無視するかのようにロザリスは続ける。
「どっちにしても、戦況はかなり動くと見ていい訳だな」
それにバスコノフが応えた。
「今の段階では何とも言えません……仮に四カ国同盟がネプチューンか八カ国同盟の手中に落ちたとしても、今更それがどんな意味を持つのか……少なくとも軍部は、ビーナスとリゲルの動向を探ることが最優先と見ています」
「四カ国同盟が落ちる前に……もしくは中立国が中立国である内にその確証を得なくては……ということか?」
そのロザリスの言葉に返したのは、意外にもウラサスだった。
「もしかしたら……ビーナスとリゲルは四カ国同盟が落ちるのを待ってるんじゃないのか? ……そうすれば、いくらかは雰囲気だけでもネプチューン勢力側に傾くだろうよ。それなら無意味ってことはねえや」
すると、少しだけ間を空けてロザリスが応えた。
「さすがにジャーナリストだな。確かにその可能性はある。だからここまで——四年もの間、中立国でいたのかもしれない。そうすると、マースが手を引き始めるタイミングを読んでいたか……知っていたのか……」
「まさか——」
吐き捨てるようにバスコノフが続ける。
「それじゃ、まるでマースが——」
「さて——」
遮ったのはウラサスだった。すぐに続ける。
「どうだかね。推測だけで語るならやめだ。週刊誌じゃねえんだからよ」
そして木箱に近付きながら更に続ける。
「小難しい話よりも……結局お前ら何を密輸して——」
木箱を覗き込んだウラサスの声が止まり、息を呑んだ。そのウラサスにバスコノフが平然と応える。
「セミオートのサブマシンガンです。しかもこれは軍隊だけではなくて警察でも正式採用されてるタイプで——」
「いや……そういうことじゃなくてな……」
ウラサスのトーンは低い。
ロザリスがバスコノフの言葉を引き継ぐ。
「動き回るにはこの手の小型のタイプが扱いやすい。しかもこいつは、このタイプの中では群を抜いて故障が少ない。信頼性は申し分ないはずだ」
「いや……だからな……」
更にトーンの落ちるウラサス。
更に続けたのはバスコノフだった。
「アレも指示通りに用意しましたよ——我が軍がマース軍と共同開発した小型爆弾です。起爆剤そのものが粘土状になってますので、様々な場所に取り付けが可能です。起爆装置の目盛りで爆発までの時間も一〇秒単位で最大一〇分まで——」
「おい」
「はい」
ウラサスの言葉に反射的に反応するバスコノフ。ウラサスは何かを確認するように、あくまでゆっくりと次の言葉を絞り出した。
「……これは、なんだ……?」
「はい。ですから我が軍がマース軍と共同開——」
「そうじゃなくてよ」
「セミオートのサブマシンガンが一〇丁と弾丸が——」
「何でこんな物がここにあるのか聞いてるんだ!」
予想以上にコンテナの中で人間の声が響くことを、この時バスコノフは初めて知った。そして不思議そうな眼差しをロザリスに向けると、ロザリスがそれに応える。
「こいつは諜報員じゃない。一般の情報員だ。本物のジャーナリストだよ」
それを聞いて目を丸くするバスコノフに、尚もロザリスが続けた。
「安心しな。こいつは戦争前からの仲だ。俺がここで何をしてるのか——知らないだけさ」
「はあ……銃を持ってたんでてっきり……」
バスコノフは呟くようにそう応えるので精一杯だった。
更にロザリスが続ける。
「別にワザとこれを教えるつもりはなかったんだが……昼飯の約束してたからな」
ウラサスがやっと口を挟んできた。
「——何する気なんだお前ら……この国でテロ活動でもする気なのか?」
するとバスコノフが応える。
「諜報活動ですよ。その為の——これはいざという時の護身用で——」
「本気でそんなこと思ってんのか若造……護身用にセミオートのサブマシンガンなんか使うか! 拳銃だったらこっちの闇市に行きゃいくらでも買えるんだ! お前はロザリスを知らなすぎる!」
ウラサスのその声が、再びコンテナの中に響いた。
しばらくその余韻が流れる中、三人の男達は黙った——。
そして、静かに口を開いたのはロザリスだった。
「まるで、テロリスト扱いだな……」
「違うのか……?」
ウラサスのその言葉に、ロザリスは口調も変えずに聞き返す。
「それならお前は、テロリストの助手か? 本当に“覚悟してなかった”と言えるのか? アンタは、そんな単純な男じゃない」
ウラサスは応えない……黙っていた。僅かな灯りの中で、その表情はロザリスからも分かりにくい。
ロザリスは、それ以上は何も言わなかった。
数か月後——年が明けてすぐ、戦況は大きく動き始めた。
ネプチューンの、四カ国同盟の全ての国への軍事侵攻が始まった。マースからの支援を断ち切られた状態では、元々内政の厳しい四カ国同盟には成す術が無い。唯一隣接するジェミニやウラナスからのネプチューンに対する支援攻撃だけでは、その国力の違いも相まり、とても状況を打破出来るレベルではなかった。
しかし同時に、八カ国同盟へのマース勢力の攻撃も熾烈を極めていた。最初の要因としては、やはりスピカの積極参戦だろう。戦争の長期化によってマースからスピカへの経済制裁が始まったことが事の起こりだった。
この頃になると、どこの国もすでに“戦後”を考え始めていた。それはスピカも同じである。強引な経済制裁という形で、マースはスピカの“内政”に入り込む。“戦後”を考え始めていたスピカには、当然選択肢は残されていない——マースのご機嫌をとることが、戦争——戦後の最低条件とされた。結果スピカが軍隊として参加することが、八カ国同盟を脅かすことになっていく。南に海岸線を持つアンタレス、カストル、カペラ、そしてイザルの沿岸地帯はもはや壊滅状態だった。イザルに於いては北からジェミニ、東のサターンからのマースとサターンの連合軍の進行が激しく、その領土を大きく明け渡している状態だ。
その国内の中部には、北から南へと続く巨大な山脈がある。その北部はジェミニから続く長い物で、気候を大きく分断させるほどのものだ。その山々の一歩手前まで、マースとサターンの連合軍が迫っていた。
季節は冬——その周辺の最前線も深い雪に覆われ、元々の地形の形状も分からないほどだ。ここ一週間ほどの連日降り積もる雪の為、地上部隊の進行は停滞していた。目の前に立ち塞がる巨大な山々と、その姿までも隠そうとするかのような深い雪によって、山を越えての空爆も難しい。
マース軍の上層部としては、更なる侵攻作戦を春まで待とうという動きも出てきていた。それまでは南からの——海側からの攻撃だけに留めておく算段だ。同じくイザルに北から地上部隊を配置させていたジェミニの侵攻が、同じように雪の為に攻撃の手を緩めざるを得なくなているのも理由だった。更にジェミニは北にネプチューンが存在し、イザル以上に厳しい天候でありながらも、そこでのネプチューンからの激しい攻撃に喘いでいた。
戦況は大きく動いていく——。
第一六部隊も、イザル国内の、巨大な山脈を目の前にした最前線にいた。
雪の中のベースキャンプは苛酷だ。寒さだけではない。降り続く雪が、様々な物を覆い隠していく。山沿いともなると、天候によってはそのスピードも早い。軍隊のような統率力のある組織であっても、その自然の猛威の中に於いては機動力を著しく損なわれる。いざという時に対処できなければ、兵士一人ひとりの命に関わる。戦場に於いて——まして最前線となると、その緊張感は更に高まる。常に道を確保し、不測の事態にいつでも対処出来るように車両関係に目を配り、それが雪に埋もれてしまわないように気を配る。それは仮設のテントでも同じだ。多くの兵士が、交代とはいえ、決して気を休めることが出来ないでいた。並行して疲労度も増していく。
春までは、まだ遠かった。第一六部隊の隊員達も、自分達がここにいる間に戦闘になるとは正直思っていなかった。そう遠くない内に部隊ごと交代になるだろうと思っていたからだ。事実、殆どの部隊がその繰り返しだった。そんな状態で春まで待つとはいっても、部隊の移動には労力も資金もかかる。上層部の頭の痛い所だった。
第一六部隊がベースキャンプに来てからもう二週間になる。数か所あるベースキャンプの中では一番北に位置していた。更に北にはジェミニのベースキャンプもある。山を越えればイザルの空軍基地がある場所でもある。イザルにとっては山脈の山々が大きな防衛線となっていた。もちろんイザル側も、容赦なく降り積もる雪がその価値を押し上げているのは分かっていた。イザルはその雪を利用して軍備の再編成と補充を、マースとサターンの連合軍はその雪に苛立つ——お互い、雪の為に時間を費やしていた。
その日も大粒の雪——深い足跡でも一分と持たない。その形はすぐに周りの風景に溶け込んだ。まだ昼を過ぎたばかりだというのに、辺りは薄暗い。昨夜から絶え間なく雪を降らせ続ける厚い雲が、僅かな太陽を更に遮る。風の強さが視界の難しさを増長させ、自然の怖さを体感させる中、その音の中を隊長のウォーフは歩いていた。
作戦会議用のプレハブの建物に到着し、足が緩んだ途端に雪と風の塊が体を叩き付ける。一瞬で揺らぐ意識の中で、懸命に雪に埋もれた両足を踏み留まらせた。軍隊用の分厚いコートを着ているというのに、ウォーフにとってはまるで裸で突っ立っているような、そんな感覚さえ思わせる。当然と言えば当然だが、ライフルを持っていないのが幸いだとも思った。いつもの軽いライフルでは簡単にこの風に飛ばされてしまうことだろう。気温の低さが体——強いては手の鈍さを生むとすれば、それは容易に想像が出来た。
ましてや、もう一週間以上——日中でも氷点下のままだ。暖房設備といってもたかがしれている。多くの兵士が軍用車両や軍用ヘリでの寝泊りを余儀なくされたが、狭い車両内での少人数ならまだしも、広い輸送ヘリ内で寝泊りをする第一六部隊の苛酷さは相当なものだ。スペースが広ければ広いほど、天井が高ければ高いほど、暖められた空気は余分な空間に留まり続ける。その空間は広がりそうで広がらない。冷たい空気に冷やされ続けるからだ。しかもそれが目に見えないことが、隊員達の苛立ちを高めた。足元にはなぜか、常に冷たい空気が淀み、自然に対しての人間の無力さを感じさせる。
準待機中とはいえ、それほど隊員達に緊張している様子は見られなかった。今はイザルよりも天候の方が脅威に感じられていたからだ。イザルはこれを機に軍備を整えているに違いない。上層部はそう思っていた。それは隊員達も同じだ。この最悪の天候の中、イザルが攻撃を仕掛けてくるとは思えなかった。窓から外を窺うのも形だけ……どうせ吹雪で外は見えない。窓からの光景では、視界は限りなくゼロに近かった。窓に当たる雪はすぐに溶け、それを免れたものだけが窓枠にしがみつき、徐々に窓のガラスを狭めていく。
そんな、薄暗く、時間さえも忘れてしまうような寒さの中、コンツァードだけは銃器の手入れに余念がない。愛用の重機関銃を、この日もバラしては組み立てる。余分に飛び散った火薬を拭き、汚れた潤滑油を新しくする。元々扱いに慣れたタイプの重火器だけに、その流れに無駄は無い。コンツァードの所属していたような特殊部隊では、そういったことも他の兵士以上の厳しさだった。その中で鍛えられてきた。自分自身も重火器の一部になれるように教えられ、少なくとも今のコンツァードはそれに何の疑問も持たないでいる。“人間”としてではなく、“兵士”として育てられてきた。
しかし前回の世界戦争でサターンが敗戦を迎えたことで、コンツァードの中に何か別の感情が芽生えた。それはマースに対しての憎しみだった。確かに元々は敵同士……しかしコンツァードの中にある憎しみはそこから来るものではなく、戦後のマースのやり方に対してのものだ。だからと言って、反政府——反体制活動に身を投じる気にはなれなかった。子供じみた無駄なことにしか思えなかったのだ。そしてそれと同時に、コンツァードは兵士だった。兵士にとっては、国家に逆らうなどということは考えられない行為だ。相容れない感情の狭間での葛藤を繰り返しながら、コンツァードは再び戦争を迎える。反体制活動を非難することで自分を納得させてきた。戦争が始まったことでその成否を問われる。そして未だに、その答えは出ていない。コンツァードもまた、せめぎ合い続けていた。
そのコンツァードは、部隊の中では孤独な存在だ。決して誰とも親しもうとはしなかった。それを分かっている隊員達からすれば慣れたものだが、何も知らない新兵達にとってはコンツァードはやはり怖い存在だ。人を近付けたがらない冷たい空気があった。それは数か月程度で慣れるものではない。
かつてはアルクラスもそうだったが、いつの間にか無関心でいられるようになった。しかしツーベルの一件以来、完全に無関心という訳にもいかなくなったのは事実だ。スタコブもガランも、それは同じだった。
そんな形に出来ない不安のようなものを、ウォーフの存在が押し上げる。もしかしたら、隊員達に素顔を見せないのは、コンツァードよりウォーフの方かもしれない。彼もまた、コンツァードと同じく、素顔を必要としないタイプの軍人だったのだ。その立ち回りがコンツァードほど派手ではないだけだ。誰もその素顔は知らず、しかもコンツァードほど関心を持たれない。アルクラスはそんなウォーフの殻を被ったようなところが好きではなかった。
そのアルクラスが気持ちを許すのはスタコブとガランくらいなものだ。新兵は入れ替わりが激しすぎて打ち解ける暇もない。現在の部隊の新兵は三名——いずれも入隊した頃のアルクラスのように若く、そして何かに押さえつけられているかのように暗い……自分達から口を開くことはまず無かった。暖房用の機械が、輸送ヘリのエンジン音よりも大きな駆動音を出し続けているが、その音の割に効果は感じられない。足元の空気の冷たさを体全体で感じながら、先の見えない重い空気の中で会話を続けるのはアルクラス、スタコブ、ガランのいつもの三人だけだ。
「人を探してるんですよ」
アルクラスのその言葉に応えたのはスタコブだった。
「俺達にその話をするってことは、軍人か?」
「はい。陸軍なのは間違いないんですが、戦争前に数回会っただけなので……」
「俺も軍人になって長いし、あちこちの部隊を渡り歩いたが……お前もだろ?」
そう言ってスタコブが顔を見たのはガランだ。
「そりゃまあ、俺も何か所かにはいましたけど、少尉ほどじゃありませんよ。正式に入隊した頃には前の戦争は終わってましたからね。タイミング的に新兵の期間も長かったですから」
「たぶんですけど——」
アルクラスがガランに向けて続ける。
「ガラン一等兵と同じくらいの年齢だったはずです。現在の階級までは分かりませんが……」
「名前は?」
スタコブのその言葉に、アルクラスは一瞬だけ間を空けた。
「……ロザリス・シオンです」
目を閉じて首を傾げるスタコブ。ガランは温かい空気で淀んだ天井を見上げる。
先に口を開いたのはスタコブだった。ガランに顔を向ける。
「お前は? 聞いたことあるか?」
「いやあ……残念ながら……」
応えたガランは天井の空気を恨めしそうに眺めたままだ。その姿をしばらく見ていたスタコブは、アルクラスに顔を戻して言った。
「俺も聞いたことねえなあ。数回会ったって……何者だ?」
「そうだよ。何者なんだそいつ」
ガランがアルクラスに顔を下げて言葉を繋げる。
アルクラスが応えた。
「ただの知り合いですよ。陸軍だったんで、もしかしたら知ってるかと……」
それに応えたのはスタコブだった。
「部隊の数と兵士の数と、で考えたら、まず見つからんな。偶然同じ部隊に配属されれば話は別だが……なにせ前の戦争と違って、今回は海外もあるからな」
「そうですよね……」
そう呟くように言ってアルクラスがついた溜め息は、瞬時に白い霧となって消えた。その光景をゆっくりと眺めてから、スタコブが口を開く。
「……戦争が終わったら、探してみるといい……お互い、生きてたらな……」
「——息子だよ——」
ガランが唐突に口を挟み、続けた。
「アルギス・シオンの……」
「……アルギス……?」
スタコブが小さく呟くが、ガランは構わず続ける。
「陸軍高等大学で同期だ——同姓同名じゃなければ……」
「そこまでは……」
アルクラスのその呟きのような言葉にも、ガランは構わず続ける。
「学校じゃ有名だったぜ。——過激な連中のカリスマ——国家反逆罪で投獄されてる英雄の息子だったからな……よく退学させられなかったもんだよ。金か権力か知らねえが……」
するとスタコブが言葉を繋げた。
「……思い出したよ。アルギス・シオンなら覚えてる。よくニュースにもなってたからな……反政府組織のトップだろ?」
耳にその言葉が届いたコンツァードが、一瞬手を止めて三人に目をやったことは誰も気付かなかった。
スタコブが続ける。
「確か、まだ死刑にはなってなかったと思ったが……」
「それよりも——」
ガランがアルクラスの方を向いて続けた。
「お前から息子のロザリスの名前を聞くとはな。その驚いた顔を見ると、素性までは知らなかったようだな」
「……ええ……そこまでは……」
アルクラスは心底驚いた表情で、半ば呆然としていた。
それに対し、ガランは複雑な表情だ。昔を懐かしむような、少しだけ優しい顔つきになるのをスタコブは見逃さなかった。
しかし三人の表情は直後の大きな音で変わった。
輸送ヘリの横の扉が開け放たれ、それまで低く響いていた外の風の音が冷たい空気と共に入り込む。一斉にその方向を見た隊員達の目の前を雪が舞った。
その雪と共に入ってきたのはウォーフだ。ウォーフが扉を閉めると、再び静かになる。急に大きな音を聞いたせいか、その前よりも外の音が低くなったようなそんな雰囲気の中、ウォーフが大きく溜め息をついてから口を開いた。
「出発だ。全員準備にかかれ」
「出発——?」
ガランのその言葉に、スタコブが続けて聞き返した。
「配置替えですか?」
「いや——」
ウォーフは即答すると、再び溜め息をついてゆっくりと続ける。荒れた天気の雪と風の中を歩いてきたせいか、まだ微かに息を切らしたままだ。
「任務だ——これから俺達は偵察任務に向かう。問題が無ければ二〇分で出るぞ」
全員の溜め息は、ウォーフの耳にも届いた。そしてコンツァード一人だけが溜め息を漏らしていないこともウォーフは分かっていた。
次に口を開いたのはやはりスタコブだ。
「少佐。この天候で偵察ですか? あまりにも——」
「目の前の山を越えればその天候も変わる——」
ウォーフが即答した。全員の顔を見渡しながら続ける。
「山の向こうにあるイザルの空軍基地に対する偵察だ。山肌に敵の部隊が展開されていないかも調べる。重要な任務だぞ。気を引き締めろ」
ガランが苦笑いを浮かべて立ち上がると、それを合図にしたかのように全員が腰を上げた。出発までに銃器のチェックをしておかなければならない。蒸し暑い真夏同様に、極寒の中でもそれは神経を使うものだ。偵察任務とはいえ、それだからこそ弾薬のチェックも怠れない。
急にザワついた中で、ウォーフはコンツァードに歩み寄って小声で囁いた。
「この状況だ。どの部隊の隊長も配置替えを期待して名乗りを上げない。買って出たよ……」
コンツァードは何も応えないまま、ただ口元に笑みを浮かべた。
やがて準備が整うと、輸送ヘリはプロペラの回る振動に包まれる。風のせいか、その音はいつもより小さく聞こえた。
ウォーフは操縦席との交信用のスイッチを押し、マイクに向けて声を張り上げた。
「視界が悪い。レーダーを頼りに無理はするな。ゆっくり行け」
機内の空気が重く張り詰めた緊張感を持っているのを、そこの誰もが感じていた。寒さだけではない。その場の雰囲気がピリピリと震える。全員が押し黙っていた。まだ夕方にもなっていない時間だというのに、暗い——空を飛んでいる独特の浮遊感が、時折強い風で遮られ、全員の体の中を嫌な感覚が通り過ぎていく。
この天候では、山肌を沿うような低空飛行は出来ない。かと言って、目の前にある高い山を飛び越えて行くには、あまりにも標高がありすぎる。可能な限りの低空飛行で谷間を進んで行くしかない。山を越える前に墜落するのを避ける為には、パイロットの腕を信じるしかなかった。
ベースキャンプから山脈の最も高い位置までは、上空での距離でおよそ一〇キロ——そこを超えると、ベースキャンプからの無線は殆ど届かない。高く長い山々が、自然をコントロールしつつある人類には大きな壁であり、その雄大さを感じさせた。
『——無線の有効領域を越えます——』
スピーカーからパイロットの掠れた声が響く。それは同時に、敵の領空に入ることを意味する。当然、隊員達の緊張は高まった。
「偵察レベルを三から四へ——」
ウォーフのその言葉を合図に、全員がライフルのグリップに手をかけた。それを確認するかのように、ウォーフが続ける。
「全員、窓と音を注意しろ」
ベースキャンプでの待機レベルは二——そこから敵の領域に移動を開始する時点でレベルは三になる。敵の領域内ではないが、攻撃を受ける可能性のあるレベルだ。敵の領域に侵入した段階で四となり、敵を発見、もしくは敵からの攻撃を受けた時点で最高レベルの五に上がる。
隊員達にとって次のレベルは戦闘を意味していた。しかも味方への無線は届かず、悪天候のせいで視界も最悪……特に入隊早々に編成されたばかりの三人の新兵にとっては、その恐怖は相当なものだろう。
一人の新兵の足が震えているのに気が付いたのはスタコブだった。それが寒さだけの理由でないことは簡単に想像がつく。しかもまだ若い。入隊したばかりの頃のアルクラスと同じくらいだろうか。スタコブはいつもとは違い、やけに悲しい感情が沸き起こってきている自分に気が付いた。若くして戦場にやってきた少年兵に対する同情だろうか。アルクラスと同様に多くの若い兵士達が目の前を通り過ぎて行った。しかし今までにこんな気持ちを感じたことはなかった。
年をとったせいかもしれない——そんな風に思ったスタコブの耳に、ウォーフの声が届いた。
「レーダーに敵の姿はあるか?」
『——いえ——ありません——』
スタコブは震える少年兵に話しかけた。
「実戦は初めてだったな」
強風で機体が浮き上がるように大きく揺れる。その中で、少年兵は顔を上げた。
「……はい」
「名前は……」
「サッカス・バル二等兵です」
「そうだったな。サッカスか——この年になると忘れやすくてな」
スタコブが口元に笑みを浮かべるが、その少年兵の表情は動かない。構わずスタコブは続けた。
「敵と交戦状態になれば、相手しだいでは俺はそこの機銃を使うことになるだろう——」
スタコブは輸送ヘリに四機装備されている機銃を指差して更に続ける。
「そうなったら、お前達は弾倉の交換をするだけでいい。身は低くしたままでいろ。そうすれば敵の弾には当たらない」
スタコブはそこまで言ったところで、アルクラスも自分と同じように新兵に優しい眼差しを向けていることに気が付いた。
こいつも、成長したもんだ——そう思ったスタコブは、再び笑みを浮かべた。
「ベースキャンプとの交信は?」
マイクに向けらえたウォーフの声だった。
『——完全に——出来ません——』
「よし、烽火を上げていいぞ」
のろし——? コンツァード以外の全員が、一斉にウォーフを見た。
その直後、窓から白と赤の回転等の灯りが交互に機内に入り込む。
「雪もだいぶ弱くなってきた——」
ウォーフはそう言って立ち上がり、続けた。
「これで相手も見付けやすいはずだ」
その横では、座ったままのコンツァードが重機関銃を肩に立てかけ、黙って他の隊員達を見ている。状況を呑み込めない隊員達が作ったしばしの間の後、最初に口を開いたのはスタコブだった。
「よく……分かりませんが少佐……あの回転灯は——」
「白旗だ」
「——白旗?」
ガランのその言葉を無視するかのようにウォーフが続ける。
「あれは国際連合で定められた戦時下に於ける降伏もしくは投降のサインの一つだ」
誰も、口を開けずにいた——。
「我々第一六部隊は、これよりイザル空軍基地に投降——“亡命”をする」
——瞬時に立ち上がったガランがライフルを構える——しかしその銃口がウォーフを捉えた時には、すでにコンツァードの重機関銃がガランに狙いを定めていた。
そして先に口を開いたのはコンツァードだった。
「上官に銃を向けるとはなあ……銃殺刑に値するぜ」
「——もう上官じゃない!」
ガランの叫び声が続く。
「裏切りだ! 反逆罪だぞ!」
「そういうの——」
あくまで冷静な口調のコンツァードが続けた。
「お前、好きなんだろ? 憧れてたんじゃねえのか」
「なんだと……?」
「出発前はそんな口振りだったぜ」
「ふざけるなっ!」
「そういうお前みたいなガキ臭い奴が嫌いでなあ……お前は最初から、亡命前に殺してやるつもりだったよ」
コンツァードの指が引き金を絞る僅かな音が耳に届いた瞬間、ウォーフが低く言った。
「やめろ——それは俺が判断する」
コンツァードは微動だにしない。黙って重機関銃を構えたままだ。
「少佐——」
立ち上がり、ガランの横に立ったスタコブが穏やかな声で続ける。
「あまり事を荒立てたくはない……説明をお願い出来ますか?」
「説明?」
ウォーフは小さくそう言うと、珍しく口元に笑みを浮かべて続けた。
「お前達は……どうも思わないのか?」
誰も何も応えない。
全員が何かを分かっていた。
それを感じてか、ウォーフが続ける。
「俺達の国と、あのマースのやり方にお前達は満足してるのか!」
ウォーフが自分の感情を露わにするのを、アルクラスは初めて見た。
「だからって——」
スタコブの言葉をウォーフが一括して遮る。
「いいか! 俺達の国は戦争に負けただけで、尊厳までをあいつらに奪われた訳じゃない! 悔しくないのか! 虐げられるだけで! あいつらの言いなりだぞ! 植民地じゃないか!」
違う……——アルクラスはその言葉を呑み込む——。
何が違うのか……どう違うのか……アルクラスにはそれが分からない……。
そして、いつもより低い声で口を開いたのはスタコブだった。
「……戦争に負けるってのは……そういうことなんじゃないのか……」
ガランが一瞬だけ目を動かしてスタコブを見る——スタコブの目は、いつもと違った……。
「戦争そのものがおかしなものなんだ……許される理由なんかどこにも無い……負けた後の屈辱を覚悟出来ないなら、戦争なんか始めなきゃいいんだ……!」
スタコブのその低い叫びが、しばしの静寂を生む……。
その中で、アルクラスは思った……違う——。
「軍人が……戦争批判か……!」
静寂を破ったそのウォーフの言葉に、スタコブが再び叫ぶ。
「違う! 過去の戦争を批判してるんじゃない。覚悟を持って戦争を始めるなら、結果を受け入れる勇気も必要だと言ってるんだ」
違う…………。
「それじゃあ今のマースの植民地政策を受け入れろというのか。国が虐げられてるんだぞ! なぜそれを許せるんだ!」
「……戦争は……」
その小さな呟きのような言葉がアルクラスのものであることに、その場の誰もがすぐには気が付けなかった。
「……国家のものだ……」
アルクラスは更に呟くように続ける……。
「……国民のものじゃない……」
唐突なアルクラスの声に、ウォーフですら言葉が出ない……。
「……国が勝手に始めるんじゃないか……国民が始めたわけじゃない……国民はいつだって、国のプロパガンダに踊らされるだけだ……民主主義だ社会主義だって言ったって、流行りのユートピア思想なんて過激なだけで……政治や外交の最終手段が戦争だっていうなら、どこの国にいたって同じじゃないか! 俺達が戦争をしたがったわけじゃないのに! 国が勝手に始めた戦争の結果を——何で国民が受け入れなきゃならないんだ!」
父親の顔が、アルクラスの頭に浮かんでいた……貧しい思いをさせている母……その中で生きるしかなかった自分と弟……アルクラスには、その全てが悔しかった……。
——父さんは……何の為に死んだんだ……。
「家が貧しくなかったら軍人になんかなるものか……子供の頃から人を殺してもいいなんて教わったことは一度もなかったんだ! どうして今は人を殺してお金が貰えるんだ! 何か——間違ってるんじゃないのか!」
そう叫ぶアルクラスの耳に、小さな声が、微かに届いていた。その場に似つかわしくない優しい声だ。しかし次の瞬間のウォーフの声で、それは掻き消される。
「そうだアルクラス——貧しさは資本主義の象徴そのものだ。貧富の差を生むだけなんだ。それなのに、国民が国を変えようとする力をマースが抑えてる……」
……アルクラス……アルクラス……。
その小さな声は、アルクラスの耳元で続いていた。
ウォーフの声が続く。
「しかし他の国はどうだ。革命を成功させて、国民が自分達の国を取り戻してるじゃないか。もう民主主義や社会主義の時代じゃないんだアルクラス」
近くの小さな声が、やがてはっきりと聞こえた——構えたライフルで口元を隠したガランの声だった。その声は、あそらくアルクラスにしか届いていない。
「……アルクラス……落ち着くんだアルクラス……あいつに丸め込まれたらダメだ……」
しかしガランの目は、しっかりと銃口を向けた先を捉えている。
ウォーフの言葉は続いた。
「俺達もその革命の波に乗るんだよ。愛国心を取り戻すんだ——」
「だったら——」
ガランが、今度ははっきりとした口調でウォーフに応えた。
「自分達の国で革命を成功させたらいい。“革命”が好きなのは、お前達の方なんじゃないのか?」
直後——重い銃声が空気を切り裂いた——。
ガランの横を通り過ぎたその音は、ガランの背後で人が倒れる音に変わる——唯一人、アルクラスだけが後ろを振り返った。新兵の若者が一人、壁に押し付けられるようにして座り込んでいる。
「諦めな——」
そう言ったコンツァードが、張り詰めた空気の中で続けた。
「この至近距離で俺の重機関銃だ——生きてねえよ。ツーベルの時と同じさ」
コンツァードがニヤリと笑うのを、ガランは見逃さない——。
アルクラスは他の新兵二人が硬直したまま立ち竦んでいるのを見ながら、言葉に迷った。
どうすればいい……こいつらを守らなければ……——。
ガランのライフルを構える両手に力が入る——引き金を少しずつ絞り始めた——。
「文句はねえだろウォーフ少佐——」
コンツァードが更に続ける。
「面倒だ——こいつら、どうせ“ダメ”だぜ」
しかしウォーフは何も応えない。
それを確認するように、少し間を空けて続けるコンツァード。
「パイロット二人と俺達二人……充分だろ? こいつらを殺せば、俺達は行方不明の戦死者。生かして帰せば俺達は亡命者……どうする?」
すると、ウォーフはゆっくりと腰のホルスターから拳銃を取り出した。
それを見たスタコブも腰に手をかける——。
アルクラスは動かない……ずっと考えたまま……。
ウォーフは右腕をまっすぐ前に出し、その銃口をスタコブに向けて言った。
「どうする——?」
スタコブの手はホルスターにかかり、ガランのライフルの銃口はウォーフとコンツァードを行き来する——。
ウォーフが、再び口を開いた。
「どうする? 少尉……イザルなら……ノンキャリアのアンタだって、正当に評価してくれるはずだ。あの国に、国民の上下は無いんだ」
「ユートピア思想か……」
スタコブは、まるで吐き捨てるようにそう言うと、手をかけていた腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。しかしまだ腕と同様に、その銃口は床に向けられたまま……。
「……ユートピア思想をベースにした社会主義……」
スタコブは呟くようにそう言うと、続けた。
「どの国の革命も武力革命だ……理想だけを掲げて、結局は無難に社会主義に偏って……人を武力で抑え込むことでしか革命を実現できなかった奴らに……何が革命だ……出来るものか——」
スタコブの右腕が上がる……。
アルクラスは、ただ、考え続けた…………。
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