第2話「前夜」

「彼は、まだいるのかね?」

 ルキノ・ヴィスコント——六八才を迎えたばかりの政治家の重鎮だ。選挙の度に政党を行き来するずる賢い政治家——しかしその向かいに座る過激派組織の幹部——バイク・ワイクスにとっては有力な後ろ盾でもある。二人は過激派組織のとある構成員のアパートの一室にいた。いつも決まった場所では会わない。

「ロザリス・シオンですか? 彼はなかなか有力な若者ですよ」

「それはそうだろう。アルギス・シオンの息子だ。彼と同じく過激であって欲しいものだな」

 ヴィスコントはそう言いながら、ニヤニヤと嫌な笑い方をした。

 過激派組織との繋がりは長く、深い。

 前の戦争が始まる前、世界中にユートピア思想が広がり、民主主義国家に対抗できる強力な思想として派生系としての社会主義国家が次々と生まれ始めた頃、サターン国内でも一種のブームとなってそれは勢力を伸ばした。

 王室による、民主主義とは違う主権国家を目指していたサターンにとって、“理想と現実”の狭間から“理想”だけを見上げるようなユートピア思想はやはり脅威だった。そんな頃、ユートピア思想に“現実”を夢見る反政府組織が“理想”の中で生まれる。しかしその誕生を支えたのは、“現実”に“理想”を見るヴィスコントのような政治家達だった。

 彼らは表向きの政治活動の裏で、資金、そして情報の面で反政府組織を支えていく——その中で台頭してきたのがアルギス・シオン——ロザリスの父親だった。若者が主体の組織の中にあって、台頭時に三十才を過ぎたばかりのアルギスのカリスマ性は類稀なものがあった。豊富な知識に加え、強力なリーダーシップと行動力が、アルギスを伝説的な英雄へと押し上げていく。しかしそれもまた、ヴィスコントの政治団体の策略に過ぎなかった。

「あいつは、凄い奴でしたよ……」

 昔を懐かしむように、バイク・ワイクスがゆっくりと間を空けてから応えた。ワイクスは、自分達の行動や“活動”がヴィスコントのような政治家のシナリオで作られていることまでは知らない。

「彼が逮捕されたのは……あれはいつだったかな……?」

 落ち着き払ったヴィスコントの質問に、ワイクスはすぐに応える。

「戦争が始まってすぐでした……やはり有名になりすぎてマークされてたんでしょうか……結局、国家反逆罪ということでしたが、どうにも私は……今でも裏切り者がいたような気がしてなりません」

「とは言っても皮肉なものだな……逮捕されたことで、彼のカリスマ性は更に大きくなったよ。それでいいんだワイクス君……若者達には、いわば“英雄”が必要なんだよ」

「しかし先生、もし裏切り者がいるとしたら今後もいつ危険が——」

「この間も逮捕者が出たばかりだ。そっちは私がいつものように対処しておくよ。組織の幹部まで昇格した君にも色々と不安はあるだろうが……それよりも君自身のことを考えたまえ」

「私ですか……?」

「そうとも……いいんだ……彼は“英雄”にしておきたまえ……これからは君がリーダーシップを発揮する番じゃないかね——?」

「しかし私は……」

「まあいい、これからも君には色々と頑張ってもらうことになる。それより次の“活動”だよ。ワイクス君。しっかりとまとめてもらわないと困るよ」

 ワイクスはヴィスコントのその言葉を聞きながら、少し大き目の封筒を取り出した。

「あのビルの建築時の見取り図を入手しました。出来て半年程ですから、ほぼこのままかと……」

 ヴィスコントは、ワイクスの取り出した封筒の中身だけを受け取り、軽く見ただけで、それを目の前のテーブルに置いた。

「来月にはまた選挙だよ……」

 ヴィスコントは軽く溜め息をついて続ける。

「マースの子分のような、あんな政党が支持を伸ばしておる……なぜだろうなワイクス君。我々の“活動”は国民の支持を得られていないということかね——?」

「そんなことはありませんよ先生。ユートピア思想こそ“理想”であり“現実”です。国民だって——」

「しかし……私のような裏の顔を持つ政治家もだいぶ減ったよ……戦後すぐに比べたらな。戦前から戦中戦後とあれだけ盛り上がったというのに、大衆とは飽きやすいものだ。私もあちこちの政党を渡り歩いたが、もう行ける所も少なくなった。そろそろ安定した政権に腰を据えなくてはな……それに、今の党首はどうにも合わなくてな……」

「お任せ下さい先生。部隊の編成も出来ていますし、当日までのスケジュールも問題はありません」

「今回の計画は初期段階から君が造り上げてきたものだ。期待してるよ……ワイクス君」



「三階建てで、各フロアも決して狭くはない——」

 ワイクスは若い構成員達を前に声を上げた。

「久しぶりに大きな計画だ。そしてこれを成功させることで、流れは大きく変わる」

 ミーティング用の地下室——ガーシュウィン郊外のスラム街、戦時中にかなりの痛手を被った地域だ。戦後、放置され続けたこの地域は、自然とスラム街へ変貌していった。砲弾を浴びて崩れかけた建物が並ぶこの場所には、警察もあまり近付こうとはしない。そんなとある建物の狭い地下室だった。

「各自の役割はさっき説明した通りだ。今回も期待して下さっている先生がおいでだ。君達に頑張ってもらいたいと、全員分の特別手当も用意して下さった。存分に働いてくれ」

 いつもの小さな“活動”とは本当に違うようだ——部屋の一番奥にいたロザリスは、そう思いながら、久しぶりに自分が興奮しているのを感じた。

 とある政党の、政党ビルへの襲撃——二十名以上の構成員で組織された部隊の大規模な計画だ。世の中の風潮を考えても失敗は許されない。来月の選挙で大きく世論が動いてしまう前に、早急に手を打たなければいけなかった。世間の関心は“華やかな民主主義”に傾きつつある。

 民主主義の大量消費と経済の空洞化が世界恐慌を生み出し、それが世界戦争への第一歩だった——少なくともロザリスはそう考えていた。そんな民主主義なんかに浮かれているから国民が堕落していくんだ——マースの思う壺だ——このロザリスの考えに最初に同意してくれたのは、ヴァン・ハイクだ。そして自分の意見に賛同してくれる人間がいることは、ロザリスにとって大きな励みになった。しかしロザリス自身、ユートピア思想の“理想”と“現実”の距離、そして強引にその距離を縮めようとする矛盾点に気が付いていない訳ではなかった。

「部隊数は全部で四部隊——第一部隊と第二部隊は地上の正面玄関からの突入になる。この辺りはほとんどがガラス張りだ。トラック二台で同時に突っ込む。第三部隊はヘリで屋上から進入する。第四部隊は地下だ——地下の配電用の通路から地下一階のフロアに侵入してくれ。“活動”の決行は明後日の午後二時。白昼に大規模な計画を行うのは、我々の“活動”の意味を世間に知らしめる為である」

 ワイクスの説明は続いた。

 ロザリスは第四部隊の部隊長に任命されていた。小さな“活動”での隊長クラスは何度か経験していたが、今回のような大規模な“活動”では初めてだった。

 解散の直後、ロザリスはワイクスに呼び止められた。

「“先生”は、かなり君に期待しておられたよ……もちろん君のお父さんのこともよく御存知だ」

 ロザリスはその“先生”を知らない。もちろん名前すら一部の幹部以外には秘密のままだ。ただ、ロザリスの父親が活躍していた戦前からの繋がりであることだけは知っていた。

「君の目覚しい活躍にも大変御喜びでね。実は君のお父さんの出獄にも尽力して下さっている。ただ、相変わらず難しいということだけは分かってくれ……」

 戦争のキッカケの一つにもなったユートピア思想の台頭時、その風潮を先導した過激派組織の幹部——そんな政治犯が出て来られるとはロザリスも思ってはいなかった。ましてや反政府勢力の中では、戦争が終わった今でも伝説的な人間だ。ロザリスもワイクスから何度か同じような話をされているが、最近は社交辞令のようなものだと思うことにしていた。

 とは言っても、ロザリス自身がその“先生”に助けられてここまで来られたことは、ロザリス本人にも分かってはいた。本来ならば、カリスマ性を持った政治犯の息子が陸軍高等大学を退学もさせられず、ましてや無事に卒業して陸軍に入隊というのは、この国では考えられないことだ。現に似たようなことを理由に退学や除隊をさせられるケースを、ロザリス自身何人か見てきた。入学直後に戦争が始まり、そして父が逮捕された。当然身内が調査されたが、アルギス・シオンに傾倒する人間達によって、その息子——ロザリスは守られてきたのだ。もちろん“先生”が動いていたのだが、その頃のロザリスはそのことを知らない。直接動いていたのは陸軍高等大学の教授だった。

 陸・海・空軍の高等大学は通常の高等大学とは違い、軍隊に入ることを前提とした高等大学である為、当然国立である。そこの教授となればやはり厳格な審査があるのだが、この国の至る所に入り込んでいるユートピア思想は、陸軍高等大学もその例外ではなかった。一般国民にもだいぶユートピア思想が浸透していた時代だけに、政治家や高等大学教授の中にもかなりの人数がいたらしい。もちろん“先生”のように隠れて——ではあった。政党を率いて表立ってユートピア思想を訴える政治家が、反政府・過激派組織と一線を引いていた事実もある。同じユートピア思想をベースにしていながらも、政治家達にとっては過激な思想と見られたくない側面もあったのだろう。

 ヴィスコントのような政治家達にとっては、ユートピア思想は過激な若者達を引きつけて反政府勢力を増大させる為の道具に過ぎない。決してユートピア思想に傾倒してる訳ではない。その政治家達に踊らされて革命を信じる人間達が、ロザリスのような“カリスマ”を見逃す筈がなかった。ロザリスもまた、父親同様に利用されているだけなのかもしれない。ロザリス自身も、大人達をどこまで信用していいのか分からないでいた。

 そのせいだろうか、ロザリスにとってヴァン・ハイクという男はとても純粋な大人に見えた。少なくとも、ユートピア思想に寄りかかっているだけの過激な大人とはどこか違った。

 そしてその男——ヴァン・ハイクは、ロザリス達が地下室に籠っている夜、一人の男と会っていた。

 首都ホルストを挟んでガーシュウィンとは反対側になる都市——ラヴェルの郊外。起伏の激しいこの辺りには山が多い。平地に大きな街があるのとは違い、山々の間を縫うように街並みが点在していた。どこの街並みも少し外れるだけで山沿いの静かな所に出る。

 そんなとある場所に、今は使われなくなっていた小屋があった。元々山間部ということで、この地域で木材の運搬が盛んだった頃に使われていた物だが、時代の流れか、戦争とその後の不景気の煽りか、管理する者もなく放置されている小さな板張りの粗末な小屋だ。辺りには街灯も民家も無い。しかし、男二人が密会をするには最高の場所だった。

「しかし、他に場所はないのかねえ」

 フリーのジャーナリスト——ウラサス・バークが白い息を吐きながら小屋に入ってきた。二五才という割には、仕事柄のせいか老けて見えるタイプだ。すでに白い物が頭に少しだけ見えている。

「相変わらず文句の多い奴だな」

 小屋に元々あった物なのだろう——テーブルを挟んで椅子に座っているヴァン・ハイクが椅子を軋ませながら続けた。

「一時間も人を待たせやがって……早く座れ」

「しかも寒いぜ」

 ウラサスはテーブルを挟んでヴァン・ハイクの向かいに座って体を震わせた。その様が、部屋に唯一のローソクの灯りの中で照らし出され——そして震える声で続ける。

「夏は暑くて冬は寒い。ホルストからは遠い。酒も無けりゃ女もいねえ。そろそろ場所変えようぜ」

「こんな場所だから都合がいいんじゃねえか」

「どうだか……人の目を避けたければ人混みが一番いいって話もあるぜ。それに、そろそろ一年だ。たまにこういうのは場所変えしねえとな」

「俺はまだバレちゃいないようだが」

「そうじゃなきゃ困るぜ。ま、アンタの内偵もそろそろ終わりに出来そうだしな——コレだよ」

 ウラサスは上着のポケットから小さなカセットテープを取り出してテーブルに置いた。そして続ける。

「ヴィスコントを内偵してる時に盗聴したテープだ。会話の相手はバイク・ワイクス——アンタが内偵してる“アルギス・シオンの息子”——が所属してる組織の奴だよ。聞けば判るが、かなり大規模な計画らしいぜ。決行日は明後日、白昼堂々——アンタも動くなら早い方がいいだろうな。治安統制課の連中がウズウズしてるぜ。この間だって情報がありながら二人とも殺されちまったしな……」

「三人は逮捕したさ。もっとも、俺のミスじゃないがね」

「動くのは治安統制課か……一年前にアンタが俺に接触してくるまでは、正直俺も保安調査員なんて噂だけかと思ってたよ」

「嬉しいね。それが俺達の仕事だよ。当日の実働部隊は俺達じゃない。だから政治家が何人殺されようが、俺には関係ないね」

「怖い男だねえ……保安調査員てのはみんなそうなのか?」

「どうかな……少なくとも俺は国なんか信じちゃいない。マースなんかに媚びを売って民主主義に頼る気もなければ、ヴィスコントのようにユートピア思想に深々と浸る気もない」

「ヴィスコントもユートピア思想に傾倒してる訳じゃなさそうだけどな……その内クーデターでも起こして独裁政権でも造るつもりか……だとすると、あいつにとってはユートピア思想なんてただの材料ってことなんじゃないのか?」

「その時は情報収集の方は頼むぜ。治安統制課が暴れたくてウズウズしてるだろうからな」

 そう言うとヴァン・ハイクは立ち上がった。テーブルの上のカセットテープを上着の内ポケットに押し込む——。

「情報は交換だぜ——ハイクさんよ」

 ウラサスは座ったまま言った。

「悪いが、今回は何も無くてな」

「情報が無い時は——」

「分かってるさ」

 ヴァン・ハイクは内ポケットから分厚過ぎる封筒を出してテーブルに置いた。それを見たウラサスは、封筒を素早く手に取りながら呟く。

「本気かよ……」

「本気さ……一年も内偵なんかしてると飽きてきてな。これが最後かもしれない」

「治安統制課が本気なのか? それとも保安調査員のアンタが本気なのか——?」

「どっちかな……これでも俺は公務員だからな……」

「ふざけんな。アンタみたいな悪党公務員がいてたまるか。職務を遂行してるようで、どうにも国の為に働いているようにも見えねえ。アンタの目的って何なんだ——?」

 ヴァン・ハイクは何も応えずに背を向けると、小屋のドアを開けた。ウラサスもどうせ応えないであろうことは判っていたのか、無言で封筒を上着のポケットに押し込んだ。

「スクーターで来たのかよ。寒いはずだ」

 先に外に出たヴァン・ハイクの声だった。

「次からは車にしな。寒いって理由で遅刻されちゃかなわん」

「俺の唯一の足をバカにするな。スクーターの方が色々と仕事がしやすいんだよ」

 ロウソクの火を消したウラサスが外に出てきて応える。

 ヴァン・ハイクは自分の車に近付きながら言った。

「車を買え——さっきの金で二台は買えるぞ」

「二台? ホントかよ——」

 ウラサスはポケットに手を入れると、改めて封筒の厚みを確かめる。それから続けた。

「——それより、アンタの名前いつまで偽名使わなきゃねえんだ? 明後日のが終われば解放かよ」

「アイツらがミスしなければな……シオンの息子さえ逮捕出来れば……それとも、また新しい偽名になるか……」

「チッ……こんな所で密会しなきゃねえわけだぜ」

 ウラサスは冷えきったスクーターに跨ると、大きく溜め息をついてからヘルメットを被った。そしてしばらくの間、遠ざかっていくヴァン・ハイクの車の灯りを見送っていた。

 保安調査員——ガス・シャビルか……奴は何者なんだ……。



 朝——どしゃ降りの雨の音でロザリスは目が覚めた。薄暗いせいか、時間の感覚が鈍い。早朝の暗さとも違う。壁の時計を見ると、八時三〇分を回ったばかり。そして、その場の空気に突き刺さるような強い雨の音。まるで、この部屋だけが外の世界から隔離されてしまったかのような、そんな不思議な雰囲気をロザリスは感じていた。

 冬には珍しい大雨だった、まるで夏の夕立を思わせるような、そんな激しい雨だ。

 雪になるよりは良かった——ロザリスはそう思いながら、昨夜のことを考え、明日のことを思った。深夜、日付の変わる頃に集合場所に集まる——最終ミーティングから準備に入り、朝には食事を取り、各部隊が移動を開始——。

 何も問題は無い。特別不安が大きい訳でもない。もちろん大きな計画であることにプラスして、初めての部隊長——いつもよりは多少だが緊張があるのは当然であろう。しかし妙なところで落ち着いている自分も、ロザリスはしっかりと感じていた。この日はゆっくりと体を休めて睡眠を取っておかなければいけない。

 外は大雨——出掛けない理由にもちょうどいい。まだ起きたばかりのせいか、あまり空腹感も無い。

 雨の音に掻き消されたのか、ロザリスの耳にはドアをノックする音が届いていなかった。何度目かのノックの音と共に声が聞こえた。

「ロザリス、起きてるか?」

 いつもと変わらないヴァン・ハイクの声だった。途端にロザリスは、過激派組織のメンバーである自分から現実に引き戻される。ロザリスは黙って立ち上がり、ゆっくり歩くと、ノックの音に続いてドアを開けた。

「おうロザリス。もしかして起こしちまったか?」

「いや、ちょうど起きたところさ」

「それなら良かった。久しぶりに飯でも食いに行かねえか? この雨じゃどうせ仕事なんか見付からねえ」

 雨でも理由にしないとやっていられないのだろう——そうロザリスは思った。

「いいねハイクさん。ちょっと待っててよ」

 上着と財布だけを取りに、ロザリスは室内に戻る。再びロザリスの心理は雨の音に占拠されそうになる。そんな大雨だというのに、ヴァン・ハイクの誘いは嫌ではない。

 外に出ると思ったよりも肌寒い。やはり、まだ春には遠い。

「こんな大雨じゃ、雪の方が良かったかな」

 ヴァン・ハイクが傘を差しながら呟くように言った。

「積もっても大変だよ」

 同じく傘を差しながらロザリスがそう応えると、ヴァン・ハイクは即答する。

「家に籠ってる理由が出来るじゃねえか」

 ロザリスが何も応えないまま、二人は歩き始めた。

 確かに、と言うより当然のようにこの日も寒い。しかし雨のせいだろうか、身を切るような寒さではない。足元が少しずつ濡れていくのを感じながら二人は歩いた。雨は一向に弱まりそうもない。不思議と風は無かった。

 そして、ただただ強い雨が辺り一面を覆い尽くす中、二人はとある店に到着した。二人で何度か来たことのある店だ。

 ヴァン・ハイクは席に着くなりコーヒーを注文するとタバコに火を点けた。やっと落ち着いたような、そんな表情で大きく煙を吐き出す。そして言った。

「お袋さんの墓参りには行ってるのか?」

 するとロザリスは目を細め、少しだけ間を置いてから答える。

「あまり、行ってないんだ……」

「山の方はそろそろ雪が積もり始めるぞ。今の内に行っておくといい」

 目の前にコーヒーが二つ運ばれ、その湯気が二人の前に広がるのを見ながらヴァン・ハイクが続けた。

「ま、俺もしばらく行ってないから人に偉そうなことは言えないけどな」

「御両親の?」

「ああ、俺がまだ子供の頃さ……あの村の産まれでな……」

「そうだったのか……」

 ロザリスは墓守の少年を思い出した。

「あそこなら、墓標の板だって古くなれば新しくしてくれるし……こっちに暮らしてる親戚に育てられて、何とか高等大学も出させてもらったが、今じゃこのザマさ」

「前は何の仕事をしてたんだい?」

「色々さ。肉体労働ってやつだな——それより今まで聞いてなかったが、親父さんは……?」

「……戦争で死んだよ」

 お互い、嘘をつくのには慣れていた。

 しかしヴァン・ハイクは、決して明日の“活動”のことを聞くようなことはしなかった。今更、必要な情報は無い。全て掴んでいる。新たな情報を掴む為にロザリスを誘った訳ではなかった。ヴァン・ハイクとしてはこれが最後になるからだ。後は、自らが明日の行動を確実に実行するだけだった。

 軽い朝食をとり、二人は店を出た。雨が少しだけ弱くなっているのを感じながら、ロザリスは傘を広げて言った。

「いつもの店で買い物をしてから帰るよ。紅茶がなくなったから……」

「そうか……雨が弱くなってきたが、もしかしたら雪になるかもしれねえ。気を付けて帰れよ」

 二人は店の前で別れ、それぞれ逆方向に歩き出した。

 しばらく歩いたところで、ヴァン・ハイクは二つのビルの間の細い路地に入ると、そのまま立ち止まった。やがて、それを追いかけるように一人の男が路地に入るとヴァン・ハイクに近付く。レインコートのフードを深々と被ったウラサスだった。

「傘も差さないで何やってんだ。誰が見たって怪しいぜ」

 そう言うヴァン・ハイクに、寒さで震える声のウラサスが応える。

「スクーターだからな。それにどうせこの雨だ。誰も他人のことなんか見ちゃいねえよ」

「同じ情報屋としては、どうかと思うがな。店の中にまで入ってきやがって、これ以上何を探るつもりだ。情報ならお前が調べ上げたもので充分じゃないか」

「あいつらの“活動”に関してはな。でももう一つ——俺は同じ情報屋としてアンタに興味があるのさ。ガス・シャビルさんよ」

「何が目的だ——それとも裏切りか?」

「バカ言うなよ。アンタが何をしようとしてるのか知りたいだけさ」

「俺の仕事は知ってるだろ?」

「ああ、お陰で何度もスクープを物にさせてもらったよ。——でも何か変だ……何か企んでるようにしか思えねえ」

「根拠はあるのか?」

「俺の“感”さ……もしかしたら、デカいスクープになるかもしれねえからな」

「はやく帰って明日のスクープの準備でも——」

「それにさっきの会話だ。あの“息子”と世間話するために朝食か?」

「俺が最新の情報を聞き出せなかったのさ」

「笑わせんじゃねえよ。お前が自分で言ったんじゃねえか。情報は昨日ので充分だ——少し……“息子”に肩入れし過ぎに見えるな……」

「全て推測か……情報屋の“感”ほど充てにならないものはないな」

「アンタだって同じ情報屋じゃねえか。何をやろうってんだよ」

「忙しいから先に帰るぜ。お前も忙しいだろうが」

 ヴァン・ハイクの名前でロザリスの内偵をしていた内閣府保安課の保安調査員——ガス・シャビル。

 内偵の為にロザリスの隣の部屋に引っ越して一年近く——無職のただの男を演じてきた。実際には国立の高等大学を主席で卒業し、国家戦略府警察省を経て内閣府保安課に配属されたエリート官僚である。本当の住いは首都ホルストの高級住宅街。二才年下の二九才の妻と三歳になったばかりの娘がいた。時に危険を伴う諜報活動を主体としている為、自宅周辺には常に内閣府治安統制課から手配された護衛用の人間が、一般人を装ってウロウロしている。警察省ではなく治安統制課の人間が護衛を行っているのには別の理由もあった——見張りの役目である。

 保安調査員が内偵・調査を行う相手は反体制的な思想を持つ人物、組織であるのだが、現在はそのほとんどがユートピア思想を主流とする反政府・過激派組織、もしくはそれを援助する人物だ。そういった人物・組織と直に接触することが多いだけに、保安調査員自身が思想的に影響を受けて感化されることを、国だけでなく保安課自体も恐れていた。それだけ国がユートピア思想を危険視しているとも言えるだろう。

 ガス・シャビルがヴァン・ハイクとしてロザリスと接触し、感化されたのかどうか……それはウラサスにも半信半疑ではあったが、一年近く彼と接してみて思うのは“何か大志を抱いている”ということだけだ。民主主義やユートピア思想のような既存の型にはまったものではなく、何か“大志”を持っている——ウラサスにはそう思えてならなかった。

 そしてウラサスは、ガス・シャビルという男に興味を持った。しかしウラサスはこうも思った。もしかしたら、自分もガス・シャビルの持つ“何か”に感化されたのかもしれない、と……。



 時間的に薄暗くなり始める頃に雨が弱くなり、雨音が静かになったかと思うと雪になった。最初は雨で濡れた路面の上で落ちては消え、落ちては消え……しだいにシャーベット状の路面になったかと思うと、辺りが暗くなる頃にはそれの出す音も変化を始め、やがて一帯は、白く静かになる。

 ロザリスが車でアパートの前を通った時、ヴァン・ハイク——ガス・シャビルの部屋の窓から明かりは漏れていなかった。微かな寂しさを感じながら、そのまま車を走らせるロザリス。

 ガスは、そのロザリスの車を背中で見送っていた。レインコートのフードを深く被り、霧のように辺りを包む無数の大粒の雪に紛れながら、その雪の間を縫うようにして、遠ざかる車の灯りに目を配り続ける。

 なるほど、レインコートのフードってのはこういう時には使えるもんだな——そんなことを考えながら、ガスは両手でレインコートの襟を持って軽く広げ、コートにまとわりついた雪を払った。すでにガスの口の周りに無精髭は無い。

 ロザリスがどこに向かうかは判っていた。その理由も知っている。事前に逮捕しようとすれば、そのチャンスはいくらでもあった。ロザリスを足掛かりにして組織の中枢に入り込めたかもしれない。しかし、ガスの計画の中にそれは無い。もちろんシナリオ通りに進む保障もない。全ては明日だった。明日の朝には部屋も引き払わなければならない。荷物は殆どまとめてある。残るは“決行”の時の為の準備だけだ。

 ガスは道路沿いのとある店の前に備え付けられている公衆電話の受話器を手に取った。素早くボタンを押す左手に、まるで綿のような雪が積もり始め、それはまるで何かを邪魔するかのようだ。

 受話器の向こうの相手は妻のジェイスと娘のパルだった。数ヶ月に一度、自宅にはほんの少し立ち寄るだけの生活が続いていた。電話も滅多に掛けることが出来ない。今回も約一ヶ月ぶりの電話だ。自宅に戻ったのは三ヶ月も前になる。

「明日の夜には全て終わって……家に帰れるよ」

 それだけ言うと、ガスは受話器を置いた。

 ガスはまるで、自分が雪の中に埋もれてしまうような、そんな錯覚を覚えた。たった今聞いたばかりの、妻と娘の声がしだいに遠くなっていく…………。

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