サターン -SATURN-

中岡いち

第1話「二人」

 アルクラス・フィオス、十三才——彼は墓守をしていた。

 父親の仕事だった。

 しかし、戦争で死んだ。

 ——海軍に従軍していた為、船と共に海に沈んだ。

 遺体は見付かっていない。

 戦争が終わって二年程——しかし、父親の墓はまだ無い。

 十三歳の息子は墓守を続けている。足の悪い母と、まだ幼い弟の為に…………。



 敗戦の痕は生々しいものだった。アルクラスの暮らすこの小さな村でさえ、戦火の跡は相当なものだ。

 国内情勢は相変わらず安定していない。都会まで出稼ぎに行っている村の男達が月に一度帰ってくる度に村に情報が溢れるのだが、耳に心地いい話が持ち込まれることはほとんど無かった。

「ようアルクラス、これから仕事か?」

 いつも食料の買い出しに行く小さな店で、やはりいつものように店主のオヤジがアルクラスに話しかけた。

「そうなんだよ。学校が少し遅くなってさ……——町が賑やかじゃないか。みんな帰ってきたのかい?」

 小さな店だった。アルクラスのような子供が歩いても床の木の軋む音が店中に溢れる。洒落た照明のあるような店ではない。陽が傾き始めるこの時間ともなると、西日に微かに照らされているだけだ。

「昨日の夜にな。お袋さんの所には午前中に配達しておいたぜ」

「いつも助かるよ」

「何言ってんだ。大人みたいなこと言いやがって」

 そう言って店主は笑った。しかし、すぐにその表情は曇る。そして続けた。

「でもな……土産話はあんまり良くないぜ」

「仕事のこと?」

「だいぶ減ってるらしい……次に出稼ぎに行けるのがいつになるか、まだ分からねえんだと。都会が不景気じゃどうしようもねえなあ」

 しかし村人達にとって嬉しいのは、近くの町には決して入ってこないような貴重な食料品だった。父親の帰ってこないアルクラスの家とはいえ、近所の家々の好意は、幼い子供のいる貧しい家庭にとってはこれほど有難いものはない。国からの配給も乏しい中、その“お土産”がアルクラスの月に一度の楽しみだった。

 お菓子造りの得意な母は、足の悪くなった今でも、義務教育校に通う息子二人の為に台所に立った。“お土産”のあった日の夜は、いつもより甘い母のお菓子を二人で食べながら、母の聞いた土産話を聞くのだった。

 しかし母はあまり暗い話はしないのだろうと、アルクラスは思っていた。たまに町に買い出しに行った時に聞こえてくる話は、もっと嫌な話が多いからだ。そして、町もだんだんと人が減っているようにアルクラスは感じていた。仕事を求めて都会に移り住んでいるのだろう——そんな話をよく聞いた。しかし出稼ぎに行く男達の話を聞くと、都会がいい所ともアルクラスには思えない。テロや暴動も多いという。それが無い分、平和なこの村の方が幸せだ——アルクラスはいつもそう思っている。しかし、村の小さな義務教育校の同級生が少しずつ減っていくのは、やはり寂しかった。

 いつも、学校が終わって食料の買い出しをして家に帰ると、アルクラスはまっすぐ墓地へと向かう。十二月のこの頃になると、墓地へ着く時分はすでに空の一部がオレンジ色に変わり始め、その周辺の雲の影だけがやけにはっきりと見える。しかしその光景は、少し目を離すとあっという間に頭の上に広がり、気が付いた時には空全体を覆い尽くした。

 もうすぐ雪かな……そんなことを思いながら、アルクラスは墓を一つ一つ回り、枯れてしまった花束たちを集めた。一通り墓を回り終えると、決まって墓地の周りにある背の低い木製の柵を歩いて回った。不思議とその柵の辺りには、小さな動物の死骸が多い。それを見付けると、動物用の集合墓地に埋葬してやるのが日課のようになっていた。

 柵を見回って墓地の入り口に戻ってきた頃には、辺りのオレンジ色の空気もうっすらと暗くなり始め、夜の入り口に差しかかっていた。

 見慣れない車だった。入り口の横に停めてあるその車は、お世辞にも真新しい物ではない。光沢の無くなった独特の車の表面がそれを感じさせた。昨夜の雨で相当道も悪かったのだろう。長旅のせいか車は乾いた泥だらけだ。そして、その横に立っている軍服の若者││軍人であることは分かるが、それほど大きな体でもない。線の細い印象だった。しかし足元だけは、車同様に乾いた泥にまみれている。荒れた山道を、ただ車を走らせてきただけではなさそうだ……。

 アルクラスは父の海軍の軍服しかしらない。しかし何度か町で見かけた軍服だ。アルクラスは近付きながら、若者に声をかけた。

「軍隊の人か?」

 若者もアルクラスに気が付いていたらしく、さほど驚きもせずに答えた。

「陸軍だ」

 あれが陸軍の制服か……。

「どこだっていいや。俺の父さんは海軍だったんだ。だから俺も海軍に入る」

 アルクラスがそう言うと、若者は、枯れ花を抱えたアルクラスの姿を見ながら応えた。

「海軍か…………若いな……君がここの墓地の管理を?」

「海軍に連れて行かれるまでは父さんの仕事だったんだ。まあ、ほとんど家にはいなかったけどさ……俺がやるしかないだろ」

 アルクラスの父——アーカイオスは、海軍高等大学を卒業して自ら海軍に入隊したのであって、海軍に強制招集されたわけではない。しかしアルクラスはいつもそう言ってしまう。

 アルクラスは両腕で抱えていた枯れ花を墓地の入り口の端に置いた。いつもそうしておいて、帰りに村の焼却炉まで持っていく。

 陸軍の若者は、それを見てから、ゆっくりと言った。

「お父さんは、前の戦争に行ったのかい?」

「戦争が始まったらすぐに連れてかれたよ。まだ……帰ってないけどな」

 若者は何も聞けなくなったのか、アルクラスから目を逸らした。しかし、それに気付いていないのか、アルクラスが口を開く。

「あんたはどっから来たのさ。この辺の感じじゃないけど……」

「ガーシュウィンだ」

「ずいぶん遠くだな。しかも大都会じゃないか」

「もう都会なんて言うのも恥ずかしいよ……治安も良くはないしな……」

「……噂には聞こえてくるけど、そんなのヒドいのか?」

「不景気が長いからな……こんな愚痴を言っても……」

 アルクラスは若者の表情を見て、少し声のトーンを上げて言った。

「何しに来たのさ。こんな田舎の村なんかに……」

 すると若者は、車に視線をやって答えた。

「ここで……母の埋葬をしたい……」

「母さんの? なんでこんなとこで——」

「頼む……」

「俺は別にいいけど……葬式は済んだのか?」

「葬式代が無いんだ……ここなら、埋葬代が安いって聞いて……すまない……」

 今度はアルクラスが何も聞けなくなった。そして泥にまみれた車に視線をやり、軽く溜め息をつくと、言った。

「細かいことはいいよ」

 車に近付きながら続ける。

「この車だろ? 運ぼうぜ。どうせ俺達しかいないんだ」



 確かに安い棺だ——埋葬を終えて立ち上がった時、アルクラスはなぜかそんな現実的なことを思った。そして——これだってそうじゃないか——そう思いながら、墓標になる板を土に差し込む。

「すまないな……ここにはこんな板しか無いんだ」

「いや……いいんだ……」

 若者は墓標の前にしゃがみ込むと、手に持った花束をその板の前に添えた。車で棺と共に揺られてきたからだろうか、その花たちも疲れているようにも見える。

 アルクラスは多くの埋葬を見てきた。棺の値段くらいは大体判るつもりだ。しかし、この若者の持ってきた花は、この村の人間が用意するものよりは明らかに高価に見える。

「名前は?」

 アルクラスは墓標の板を見ながら言った。

「シャークだ」

 若い兵士も、板を見ながら答える。

「明日にでも板に彫っておいてやるよ。帰りに紙にでも書いてってくれ」

「分かった」

 兵士が立ち上がる。アルクラスが兵士に視線を移して言った。

「あんたの名前は?」

「ロザリスだ——ロザリス・シオン……」

 若い兵士は、なぜか軽く目を伏せる。

「覚えておくよ。また来るんだろ?」

 アルクラスは兵士に背を向け、歩きながら続けた。

「俺はアルクラス・フィオスだ。忘れんなよ」



 一週間も経たないうちに、再びロザリスは墓地を訪れた。母の墓標の板には、しっかりと母の名前が掘り込まれている。決して綺麗な字とは言えなかったが、それでもロザリスは嬉しかった。

 そして彫りこまれた文字の影が、さっきよりも強くなってきたことにロザリスは気が付いた。

 暗くなり始めてきたな……。

「ちゃんと彫っておいたぜ」

 ロザリスの後ろから近付いてくるアルクラスの声だった。同時に足音も聞こえてくる。

 振り返ったロザリスは、アルクラスの姿が夕日に染まり始めているのを見ると——もうそんな時間か——などと、そんなことを思った。

「ガーシュウィンからだと、かなり時間もかかるんじゃないのか?」

 アルクラスはそう言うと、ロザリスの傍で立ち止まって続ける。

「まあ、俺も学校が終わってからだと、あんたの来るこの時間にはちょうどいいかな」

 片手には他の墓から集めてきた枯れ花が握られていた。

 墓標の前には、ロザリスの持ってきた真新しい花束が置かれている。やはり立派なものだった。決して安いものではない。少なくともアルクラスにはそう見えた。

 ロザリスは別段何も答えようとはしなかった。応えたくない訳ではなく、余計なことは喋らない——そういう性格なのだろうとアルクラスは思った。

「あんたなら、また来ると思ってたよ。遠くからここに埋葬に来る人間は、埋葬だけしてそれっきりってやつらもいるんだぜ。ま……色々と都合の悪いこともあるんだろうけどさ……だからってわけじゃないけど、あんたも滅多に来れないとしても気にすることはないよ」

 やはり、ロザリスは何も応えない。ずっと母の墓標を見つめたままだ。

 アルクラスが続ける。

「ここには、色んな奴らが眠ってるのさ」

 空一面が夕暮れに包まれていた。顔を上げ、そのオレンジ色の空を眺めながら、ロザリスが静かに口を開いた。

「もしも……また戦争が始まったら……この墓を守ってくれるか?」

 アルクラスは、少し間を空けてから応える。

「戦争? ……また戦争なのか?」

「いや、そういうわけじゃないんだ……でも、いつ来れなくなるか……」

「安心しなよ。墓を守るのが俺の仕事だ」

 安堵の溜め息だろうか、ロザリスは軽く息を吐くと、墓標に背を向けて歩き出した。

「帰るのか?」

「また来るよ」

 それだけ言って車に向かうロザリスを、アルクラスが引き留める。

「なあ兵隊さん。町まで乗せてってくれないか?」

 立ち止まり、振り返ったロザリスが応えた。

「この辺で町っていうと……」

「あそこしかないよ。ガーシュウィンから来たなら通ってきただろ。町って言っても、この村の中の“街”だけど……」

「…………」

「いいだろ? 今日は車も靴も泥だらけじゃないみたいだし」



 昔からの街と、その周辺の村々——この辺りはまさにそんな感じだった。街と言っても小さなもので、中心には車が二台擦れ違える——村で一番大きな——道路があり、その周りを石造りの建物が囲むように建っていた。道路も昔ながらの石を敷き詰めた物で、大きな都市部のアスファルトとは赴きからして違う。

「この辺は、昔からあまり変わってないのか?」

 アスファルトの舗装道路とは違い、やはり凹凸のある石の道路は車の揺れと振動が大きい。少しハンドルを取られながらも、ロザリスはその独特の光景に情緒を覚えた。

「らしいぜ。母さんが言ってた。店はどんどん減ってくけどな」

 それは見るに明らかだった。カーテンの閉められたままの多くのショーウィンドー……元々何を売っていた店なのか、朽ちた看板だけでは判別出来ない所が多い。しかも、所々崩れた建物も目立つ。そしてそれは、老朽化の崩れ方ではない。未だに残る戦争の傷跡の一部だった。

「田舎の町や村にも空爆があったと聞いたが……酷いもんだな……」

 すると、あまり感情の籠らない言い方で、少し間を空けてアルクラスが応える。

「やっぱりマースは凄いな……あんな大国が相手じゃ勝てるわけなかったのかもな……都会の方じゃ、マースの軍隊が今でもいるんだろ?」

「まるで植民地のようだよ……あいつら……」

 助手席のアルクラスは、横目でロザリスの眉間のシワを見て思った。

 都会の人間か…………。

「俺は学生兵だったから殆ど後方支援しかしてない……なんだか、何もしないで戦争に負けたような気がして……」

「陸軍高等大学か? いいなあ、俺も早く行きたいよ」

「海軍希望なら海軍高等大学か……大丈夫さ。戦争が終わってから、陸海空の高等大学はどこも入学希望者が減ってるそうだし……戦争に負けたら、この国はどこもマースの息がかかってる。軍の高等大学だっておなじだよ……マースを嫌ってる人間は多いからな」

「そうなのか……でも……ムリだよ……ウチみたいな貧乏な家じゃ学費が払えないだろうし……」

 ロザリスは少し間を置いて応える。

「学費か……そういえば、今の学費は分からないな。でも……軍隊なんて、戦争が終わると給料も満足に出ないもんだぜ……母さんだって、元々は戦争の時の傷が悪化してあんなことになったのに、国は何もしてくれないのさ……軍人って、国の為に働けばもっと感謝されるのかと思ってたよ……」

「…………」

 アルクラスは父親のことを思い出した。終戦から二年が経って、最近になってやっと“戦死”の通知が届いたくらいだった。

 ロザリスが続ける。

「俺は政治家になるんだ」

「政治家? 兵隊やめんのか?」

「今は無理だ。でも……もう少しして経済が上向きになって、そうしたら金を貯めて、普通の高等大学の政治経済学部に入るつもりだ」

 ロザリスの目の色が変わっているのを、アルクラスは見逃さなかった。

 ……こいつもか…………理想だけ見てたって…………。

「ここでいいよ。そこの店だ」

 車が停まり、アルクラスは助手席を降りた。

 突然、慌てたようにロザリスが言葉をかける。

「帰りはどうするんだ?」

「いいさ。いつも歩いて来てるんだ」

「そうか……」

 不思議な寂しさが、一瞬だけアルクラスの意識の端を擦り抜けた。

「それより、いつでも花持ってきなよ。墓参りくらいはちゃんとするもんだぜ」

「そうだな……また来るよ…………」

 ロザリスの車は、石の道路をガタガタと言わせながら走り去って行った。



 地球暦三六二七年十二月——。

 約三年に及んだ、世界戦争の終結からおよそ二年——。

 マース、ネプチューン、ビーナス——いずれも大国である三カ国が主導権を掌握していると言ってもいい国際連合——その国際連合との戦争で痛手を負った王族国家サターン——その首都ホルストは、内戦の様相を呈していた。

 首都及びその周辺地域の治安を維持しようとするマースの治安部隊と、それに随行するサターンの治安部隊——その植民地支配の様な現状に不満を持つ多くの国民が、国内の至る所に配置された軍隊と治安部隊に対して牙をむいた。

 行政機関等に対するデモから発展した暴動。更には反政府系の過激派組織によるテロ行為。国内情勢を反映した地下組織である為、普通の国民との繋がりは根深い。国全体の貧困も、皮肉にもその現実を後押ししていた。

 しかしそんな状態では、当然国内情勢は衰退していく。その影響を受けてか、政治の世界でも、半年持てば長いと言われる短期政権が繰り返された。もはやそこにイデオロギーというものは存在しない。駐留するマース軍が、眉唾の民主主義を維持しているに過ぎなかった。

 首都ホルストの郊外にある街——ガーシュウィンにロザリス・シオンは一人で暮らしていた。公務員である軍人とは言っても給料が入るのは最近では二ヶ月に一度。決して立派な住いではない。レンガ造りの古いアパートの狭い部屋だ。しかもガーシュウィンの外れに建つ静かなアパート。しかしロザリスは、最近まで母と二人でここに暮らしていた。

 戦争が終わり、政治家と国民の目が国内にばかり向けられている状態で、ロザリスのような軍人の仕事は少なかった。週に二日、定期的な訓練が行われるだけで、それに裂く国家予算も決して少なくはない。退役する兵士が増えても、その現状に変化は無かった。例え軍人であっても、ロザリスのような新兵は多くの国民と同じように配給に頼っているのが現状だ。今のこの国の殆どの国民がそうであるように、軍隊で働いている国家公務員であるはずのロザリスも低所得者の一人だった。

「どうせ半年もしない内にまた選挙なんだ。政治家だけで勝手に決めりゃいいじゃねえか」

 ロザリスによくそう言うのは、ヴァン・ハイク——三十一才。気のいい男なのだが、少々口は悪い。ロザリスの部屋の隣に引っ越してきて一年程になるが、ずっと無職のままではそれも仕方のないところなのか、ロザリスに向かってよく愚痴をこぼした。無精髭にボサボサの髪、服も皺だらけ。しかしロザリスもその男が嫌いではない。余計なことを喋らないロザリスに嫌がりもせずに声をかけてくれるからだ。愚痴をこぼしたい気持ちは、ロザリスもまた同じなのかもしれない。

「またそんな難しい本なんか読みやがって……政治家にでもなろうってのか?」

 いつものように窓際のベッドに、壁に背を当てて足を伸ばして座っていたロザリスに向かって、ノックも無しに部屋のドアを開けたヴァン・ハイクが毒づいた。ロザリスに近付きながら、手にしている本のタイトルを覗き込む。

「“民主主義と資本主義の対立構造”? なんだそりゃ、義務教育しか知らねえ俺にはさっぱりだな。軍人だったら戦車とか拳銃とかよ……」

「それなら訓練で勉強出来るさ」

「そりゃあそうだろうが……お前さんはどっちなんだ? マースが持ち込んだ民主主義か? それとも流行のユートピア思想ってやつつか?」

 ロザリスは窓の外に目をやる。正午独特の晴れやかな日差しが辺りを覆っていた。軽く溜め息をついてから応える。

「またその質問かい? ハイクさん。俺はどっちが正しいのか勉強してるだけさ」

「ユートピア思想がいいって言ってる奴らがデモだの演説だのってよくやってるじゃねえか。詳しいことはさっぱりだけどよ——何だか話が上手過ぎる気がしてなあ……」

「それは民主主義だって同じだよ。元々この国はマースなんかの掲げる民主主義と戦争をしたようなものじゃないか。でも軍事力に負けたのであってイデオロギーに屈した訳じゃないよ。王家の政治力を奪ったからって、それはそう簡単に変わるものじゃないさ」

「王様が殺されなかっただけでも良しとしようぜ。殺された国もあるって言うじゃねえか」

「この国を植民地にする為に恩を売ったのさ、マースの奴ら……」

「やっぱり難しい話だな。もう三十過ぎたってのに、二二のお前に勝てねえんだから情けねえや」

 そして部屋を出ようとしたヴァン・ハイクは、ふと立ち止まり、思い出したように続ける。

「お袋さんの埋葬……ちゃんとやってきたのか?」

「ハイクさんに聞いた所に行ってきたよ……」

「少し遠いかもしれねえが、あそこならちゃんと見てくれるよ。俺の親父とお袋もあそこでな……」

 ヴァンは滅多に見せることの無い、何かを回想するような寂しげな横顔をロザリスに見せた。

 ロザリスは、口の悪いこの男が、やはり嫌いにはなれなかった。



 夜の銃声は、なぜか響く——ロザリスにはそれが以前から不思議だった。銃から微かに立ち昇る煙が浮き上がって見えるのはその煙が白いからで、明るい日中はあまり目立たない。しかし夜の銃声を聞いていると、まるで昼と夜の空気が全くの別物なのではないかと思えるほどだ。

 その夜もそうだった。そしていつものように、引き金を引いた直後は、やはり時間が止まったように感じる。あるいは、急に時間の速度が遅くなるようだ。まるで自分が時の流れを掌握しているような、そんな錯覚だ。ロザリスは夜に暗殺をする度、いつもそんなことを感じていた。

「政治家が——護衛もつけないで夜にこんな所を歩くから——!」

 仲間の一人がロザリスの背後でこう呟くと、ロザリスの腕を引いて続ける。

「——いくぞ……急げ!」

 ロザリスは両手で銃を持ったまま、仲間達の後に続いた。

 小走りに歩きながら銃を腰の後ろにしまうと、被っていた帽子を深く下ろす。やがて路地を抜けて通りに出たロザリスは、仲間達と同じように下を向いてゆっくりと歩き始めた。

 すぐに前方からのけたたましいサイレンが空気を包み、男達の意識に突き刺さる。緊張が体の隅々までをも掴むようだ。

 やがて警察車両が向かってくるが、ロザリス達の脇を猛スピードで走り抜けて行った——。

「早すぎるぜ……もう通報されたのか——」

 仲間の誰かの小さな声が聞こえた。すると別の誰かが囁く。

「……いや……違うな——」

 振り返らずに、まっすぐ遠くなるサイレンの音を聞きながら続ける。

「——別のチームだ……」

 その声が、全員の神経の強張りを僅かに解きほぐす……。

 ほぼ同時に動いていたはずの別働隊だとすると、警察の動きが早過ぎる。それはロザリスにも想像が出来た。しかし“活動”直後の合流は禁止されているため、ロザリス達にはどうすることも出来ない。

 そしてロザリス達は、予め決められた場所で予定通りにバラバラに歩き出した。いつものように、やはり事前に決められたルートで帰路に着く。ロザリスはこの瞬間が嫌いだった。背後で銃声が聞こえ、闇雲に走って逃げたこともある。そしていつも寝付けないまま朝を迎えるのだ。みんな同じだろうか——ロザリスはそんなことを思う時もあるが、不思議とそのことを誰にも聞いたことがない。誰もが話したくないことなのか、暗黙の了解なのか……ロザリスもなんとなくではあるが、それを確かめるのは躊躇していた。

 そしていつものように頭の中で情報ばかりが膨れ上がったまま、ロザリスはアパートに辿り着いた。すでにほとんどの部屋の明かりは消されている。唯一ヴァン・ハイクの窓だけは明かりが漏れていた。しかも窓が少し開いたままだ。

 今夜も冷えるっていうのに——ロザリスはそんなことを思いながら、それでも現実に帰ってきたような安堵感を覚えた。

「遅かったじゃねえか」

 足音で気付いたのか、部屋のドアを開けようとしたロザリスに、自分の部屋のドアから首だけを出したヴァン・ハイクが声をかけた。

「暗い顔だなロザリス。珍しく酒でも飲んできたのか?」

「それなら明るくなるさ」

 ロザリスはドアの鍵を回しながら、ヴァン・ハイクの方に顔も向けずに苦笑いをしてみせる。

「そうか? 俺は飲むと嫌なことばかり思い出すぜ」

「やっぱりあんたは難しい人だよ……俺はこれからさ」

 そう言うとロザリスは、ジャケットのポケットから小さな酒ビンを取り出して見せた。

「それより気を付けなよロザリス。今夜も警察が稼ぎ時ときてやがる……物騒なもんだ……この間みたいに軍隊が動き出す程じゃなければいいんだが……」

「……そこまでじゃないさ……」

 ロザリスはそれだけ言うと、部屋に素早く入ってドアを閉めた。

 いつものように、二日以上経ったら情報を仕入れる——ロザリスはそのことだけを考え、酒ビンをベッド脇のテーブルに置いた。

 まだ気持ちは落ち着いてはいない……神経は研ぎ澄まされたまま……外の微かな風が窓を擦る音でさえ、今のロザリスには自分の身の安全を脅かすものに感じられた。

 そして、その夜も眠りにはつけないまま…………。



 翌朝、ロザリスは早くから部屋を出た。微かに残ったアルコールを頭から振り払うようにしてロザリスはアパートの階段を駆け下りた。

 外に出ると、吐く息が一段と白い。夏とは違う、冬ならではの朝の強い日差しがロザリスの頭に突き刺さる。まだ早朝ということもあってか、辺りの人影は疎らだ。もっとも、街中から距離のあるこの地区は、日中でも決して人通りが多い訳ではない。

 例え寝ていないとは言っても、やはり朝の空気は不思議と気持ちがいい。その空気を大きく吸い込むことで、ロザリスは頭の中の嫌な感覚を消し去れるような気がしていた。しかしそれが毎度のことであるのも、またロザリスには分かっている。

 ごまかしているだけだ……体の中に嫌な感覚が蓄積されていくようだった。それが増えていく度に、その感覚に鈍くなっているような気もする。ロザリスの中には、それを“容認”する者と“拒絶”する者が同居していた。ロザリス本人は、そのどちらかを追い出そうとは思っていない。なんとなくその方がいいような、そんな気がしていたからだ。理由は自分でも分からない。いつかどちらかがいなくなるとしたら、残るのはどちらだろうか……今のロザリスは、自らそれを選択する“勇気”も“愚かさ”も持ち合わせてはいなかった。

 石の歩道をしばらく行くと、やっと人と車の数が増えてくる。周りの雰囲気も早朝から朝に変わり、ロザリスはそれに紛れることで、なぜか気持ちが楽になる自分を感じた。

 たまにロザリスが顔を出す店がある。ある程度の物が一通り手に入る小さな店だ。そういったことに関しては物臭なロザリスには丁度いい。買い物を楽しむタイプではない。小さなパンを二切れ、紅茶の小ビンを一つ、それと小さな缶入りのハチミツを一つ——いずれも生前の母の好きな物だった。レジの近くでいつもの新聞を手に取り、店主の前に置いた。

「最近はどうだ? ロザリス」

 古い年代物のレジのボタンを叩きながら、店主は覇気のない質問をする。

「ダメさ。相変わらずだよ」

「昨日の夜も騒がしかったが、軍隊からは呼び出されねえのか?」

「俺は治安部隊に配属されてるわけじゃないからね……」

 ロザリスは胸ポケットから紙幣を取り出して続けた。

「俺も、商売でも始めようかな」

「よせやい。この不景気じゃウチだっていつ潰れるか分かりゃしねえ」

 コインと紙袋を受け取りながら、ロザリスは応える。

「頑張ってくれよ。この紅茶はこの店にしか無いんだ」

「ま、なんとかな……いつも助かるよ」

 御座なりの会話かもしれない。しかしロザリスにとっては、こういう何気ない会話をする時が、唯一生きていることを実感出来る時間でもあった。

 昨夜のあれだけの“活動”の後だ。街中にも警察官の姿が見える。すぐに新聞を広げてみたい衝動に駆られながら、ロザリスは来た道を戻った。焦っても仕方がない——それはロザリスにもわかっていた。どうせ全てが報道される訳ではない。詳細はいつものように闇の中、で済まされた。それを掘り下げようとする者もいない。どうせすぐに同じような事件が起こる——もはやロザリス達の“活動”は、この国の日常の一部になりかけていた。

 ロザリスが参加しているような反政府系の過激派組織は一つだけではない。正確な数は警察ですら把握していなかったが、その詳細を追っているのは警察よりも内閣府が直轄する“保安課”だった。ほとんど諜報活動に近いと言われるその国家組織の詳細は、国民にはあまり知らされていない。国民の目に触れることの少ない組織だけに、秘密のベールは益々厚みを増していった。その保安課の入手した情報によって動く実働部隊と言えるのが“治安統制課”だ。軍隊で組織された治安部隊とは違い、やはり闇の中で動く機密組織——ロザリス達のような過激派組織にとっては、保安課の保安調査員と共に最も気を付けなければならない相手だ。

 そういった組織に対しての情報の漏洩を恐れてという為もあるのか、過激派組織の内情の詳細については、ロザリスのような構成員ですら知らない部分の方が多い。ロザリス自身、構成員の人数すら確認したことがない。幹部クラスの人間に関しては、会ったことのない人物のほうが多いくらいだった。構成員が全て揃っての集会などありえない。各人が決められた人間とのコンタクトしか出来ない仕組みだ。情報も全てその中で管理される。少なくともロザリスが所属する組織はそんなルールだった。しかも“活動”の後はすぐに計画から離れる——その結果等について、新聞報道等で得られない情報については二日間の間を空けることが原則とされていた。したがって、ロザリスはまだ動くことが出来ない。

 アパートに着くなり、階段を足早に駆け上がる。部屋に入ると紙袋から新聞とパンを取り出し、口にパンを咥えたまま新聞を広げた。昨夜の記事を探しながら、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。

 母の好きだった紅茶とハチミツは、まだ紙袋の中だ……。

 やがて、小さな記事を見付ける。それは昨夜の“活動”によって二人の政治家が殺害されたことを伝える内容だった。暗殺は成功したが、どうやら別働隊に逮捕者が出たらしい。“数名”というだけで名前等の詳細は載っていなかった。もちろん、別働隊メンバーのリストをロザリスは知らない。そのせいか、仲間の逮捕よりも気になったのが、その事件の取り上げられ方だ。

 小さすぎる……——ロザリスがそう思ってしまうくらいに、確かにその記事は小さかった。というよりも、最近のテロ事件の記事は日毎に国民の興味を失わせていくものになっていた。よほど派手な事件でない限り、これでは見逃してしまっても不思議はない。確かにロザリスの組織に限らず、最近の過激派組織による要人暗殺は増えていた。しかしマスコミの扱いは減る一方。

 年に二回から三回の“税金の無駄遣い”と揶揄される選挙が行われて政権交代が繰り返される中、政治家が自らの知名度を保つのは難しい。投票率も回を増す毎に落ちていく。政治に対する不信感は、もはや国民の意識の中で“諦め”に変化していた。多くの政治思想を持った過激派組織は国民のそうした“不信感”から生まれる“反政府気運”をベースとしていたにも関わらず、気が付いた時には、そのベースそのものが危うくなっていた。もしくは、そういう流れに持っていく為の内閣府の情報操作か……。

 政府の中に埋没しているだけの政治家——それだけでなく、政治家そのものをターゲットにしていた反政府勢力——国家と反国家勢力——共に、目的を失い始めていた……。

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