五百七十七話 いつの日か
中山幸太郎は『物語を見る』ことができなくなった。
そして、物語思考さえも捨ててしまった。
その上、悪意の感情も消失しており……今の『中山幸太郎』は、ただの穏やかで優しいだけの、どこにでもいるようなありふれた高校生でしかない。
つまり、もう物語を生み出せるような存在ではなくなったのだ。
もちろん、それらは俺が無意識下に選択したことである。
こういう存在になりたいと願って、実現させた『理想の現実』だ。
しかし彼女は、その現実をくだらないと唾棄する。
「毒にも薬にもならない存在になってしまって、非常に残念だよ」
責められているのは分かる。
恨み言をぶつけられているのは、肌で感じる。
しかし、怒るような気分にはなれない。
だって、俺に馬乗りになっているメアリーさんは……泣いていたから。
「今のキミは嫌いだ。昔のコウタロウが好きだった……現実を直視できないような、弱いキミが愛しかった。あのままでいてくれたなら、シホでさえ見捨てるようなどうしようもない存在でいてくれたのなら……ワタシがキミを幸せにしてあげられたのにっ」
「……ごめんね」
「どうして媚びた? キミの……自分の物語を、否定するなよっ。最悪、ワタシなんて選ばなくても良かった。ワタシがいくら不幸になったところで構わない。『コウタロウの物語』が面白くなれば……モブのままのキミが報われたなら、それだけで良かったのに!」
モブの中山幸太郎が紡いだ物語、か。
もう二度と俺が読みたくないそのシナリオを、メアリーさんはずっと大切に抱えていたのかもしれない。
だから今回の海水浴でも、色々と仕掛けてくれたんだ。
モブの中山幸太郎が、報われるために。
「主人公に抗って、モブのまま幸せになる物語が見たかった。でもキミは、普通の少年になることを選んだ……読者が感情移入しやすいような、ありふれた存在でいることに迎合した。キミの魅力だった『物語視点』を放棄して、シホが好むような『甘いラブコメ』であることに妥協した」
「……そうだね。俺はもう、幸せであることを一番と思うようになった。復讐とか、懲悪とか、因果応報とか、そういうことに価値はないと考えている……そういう人間に、成長した」
「いや、退化だよ。多くの人にとってそれは『成長』に見えるだろうけどね。ワタシから見ると、それは退化であり、劣化でしかない」
メアリーさんは妥協しない
物語に夢を見る彼女は、決して俺の言葉に納得しない。
「――ワタシは、諦めない」
大粒の涙をこぼしながら。
しかし、表情を歪めることなく、ただただ泣く彼女は……痛々しくも、どこか目を奪われた。
これは、彼女の執念。
夢を諦めないクリエイターの妄執だ。
「いつか、ワタシが一番に面白いと思う最高の物語を……作ってやる」
俺とは違うのだ、と。
過去を否定して捨てた俺に対して、彼女は全てを抱えたまま手放さないと宣言した。
「そして、再びキミに出会ってこう言うんだ……っ」
そのセリフは、メアリーさんの十八番である。
いつからか聞かなくなったそのセリフは、久しぶりで懐かしいけれど……どこか嬉しくなるような、そんな一言だった。
「――ざまぁみろ、ってね」
……うん。そうだね。
いつの日か、ぜひとも聞かせてほしい。
「キミが大人になって、年を重ねて、シホと幸せな家庭を築いて、過去のことを忘れるくらい穏やかな日々を送っている最中に……ワタシが現れて、信じられないくらいに最高な物語を聞かせてあげよう。そして、キミに物語を捨てたことを後悔させてやるさ」
そうしてようやく、メアリーさんは俺の胸倉から手を離した。
言いたいことは全て言い終えたのだろう。彼女は無言で立ち上がって、そのまま歩き去って行ってしまった。
ペンションとは反対の方向に、まっすぐ……輝く金髪は、すぐに夜の闇へと消えた。
後に残るのは、遠くの方でキャンプをして騒いでいる人たちの喧騒と、海岸に際に押し寄せる波の音だけであるだけである。
メアリーさんなんて最初からいなかったのでは……と、思わせるくらい呆気なく彼女はいなくなった。
だけど、俺の胸元に残った涙の痕はしっかりと残っている。それこそが、彼女がここにいた証拠だ。
それにそっと触れて……俺もまた、ゆっくりと立ち上がった。
「……ごめんね、メアリーさん」
ぽつりとそう呟いて、俺もまた歩き出す。
ペンションの方へと、まっすぐに。
メアリーさんへの思いを振り払うように、早足で。
俺は物語を捨てて、現実へと進むのだった――
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