五百七十四話 モブのままで

『物語が見えない』


 以前までは見えていたはずのストーリーが、もう俺には読めなくなっている。

 物語的な思考はできる。しかし、以前はもっと物語がちゃんと見えていたはずなのに、今はもう感じ取れない。


 だから俺は、胡桃沢さんに叱られるまで混乱してしまっていた。

 物語を読めなくて、誤った選択をしようとしていた。

 以前までの……モブとしていて生きて、物語がちゃんと見えていたころの俺なら、間違えることなんてなかったはずなのである。


 少なくとも、しぃちゃんと喧嘩する案を思いつくわけがない。

 ましてや、彼女を傷つけることを思いついて、実行しかけていたなんて、ありえない。


 しぃちゃんが、俺と仲良くなった影響で『他者の音を聞き分ける』というスキルが鈍くなったように。

 中山幸太郎は『物語を把握する』スキルが失われていたのだ。


 ある意味では、劣化している。

 いや、もしくは……これは、進化なのだろうか。


 いずれにしても、俺はメアリーさんと同じ視点を持つことができなくなっているわけで。


 つまり、物語を見捨てて現実を選んだわけじゃない。

 物語が読めないから、現実を選ぶしかなかったのである。


 この、退屈でつまらない駄作こそが、俺にとっての人生になったのだ。


「コウタロウ……キミはそれでいいのか?」


 残念ながら、俺にはメアリーさんの見えている景色がもう見えない。

 だけど、物語的な思考は理解できるから、共感だけはしてあげられる。


 彼女の言いたいことも、なんとなく分かることはできた。


「この結末で、俺は十分に幸せだよ」


 つまるところ、俺たちの物語は既に終わっていたということだろう。

 今はただの後日談でしかなかったのだ。故に何も起こらず、大きな盛り上がりもなく、このまま終幕を迎える。


 それで、いいんだ。


「またコウタロウは、全てを否定して終わるのかい?」


「……否定、か」


 その問いかけに、俺は小さく笑うことしかできなかった。

 だって、彼女の言う通りだから。


「物語的な思考を持つ自分を否定して、それで終わりって……救いようがないだろっ」


「うん。そうだね……でも、そうした方が幸せなんだ」


「……結局、キミは自分を否定する道を選ぶ。今までもそうしてきたように、最後までずっと……肯定されることを、選ばなかった」


 ――思えば、そうだった。

 しぃちゃんに肯定されても、俺は……あまり自分を肯定することは、できなかったかもしれない。


 だって、仮に自分を肯定できていたのなら。





「……モブのままでも、ワタシはキミを愛していたよ」





 もしかしたら、メアリーさんを選んでいた『物語』もあったのかもしれない。

 しぃちゃんですら絶対に認めてくれなかった『モブ』を、メアリーさんは肯定してくれた。


 面白いと、そう言ってくれた。

 ……もちそん、その愛は純粋で綺麗なものじゃない。


 恋愛的な感情とは程遠いだろうし、あるいは執着に近い偏愛なのだろう。

 ただ、それでも……俺は自分を受け入れられたなら、しぃちゃんじゃなくてメアリーさんを選ぶ道だって、あったと思う。


「変わらないでほしかった」


 しぃちゃんは言ってくれた。


『ありのままの幸太郎くんが好き』


 って。

 でも彼女は『モブの俺』が好きとは一言も言ってない。

 むしろ、モブであろうとする俺を、彼女は拒絶していたくらいだ。


 だからこそ、その言葉は……正直なところ、心に響いた。


「モブのままで、いてほしかった」


 卑屈で、惨めで、自己嫌悪ばかりしていたあの頃の俺を、メアリーさんは愛してくれている。


 ごめんね。

 メアリーさん……本当に、ごめん。


 その気持ちに応えてあげる未来も、もしかしたらあったのかもしれない。

 でも、今の俺にはそれができないんだ。


 だってもう、あの頃の『卑屈でモブみたいな中山幸太郎』は、もういないのだから――

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