五百六十四話 特別な人

 ――胡桃沢くるりという少女は、俺にとってやっぱり特別な人だと思う。

 なぜなら、彼女もまたしほと同じように俺を『好き』になってくれた人なのだ。


 俺のことを心から思っていることが、言葉の端々から感じた。

 しほと同じように、俺のことを大切に思ってくれていることが、伝わってくる。


 だからこそ、彼女の言葉は重く響いた。

 様子がおかしくなっていることを指摘されて、それは間違っているのだと説かれて、省みることができたのだ。


 胡桃沢さんがそう言ってくれたから、俺は自分の異変に気付いたのである。

 そして、彼女が発破をかけてくれたから、吹っ切れることができた。


 ようやく、いつもの状態に戻ることができた。

 色々なことを経て成長したというのに、退化していた俺を彼女が引き戻してくれたのである。


 おかげで、変なことをせずに済んだ。

 胡桃沢さんに止められていなければ、俺は大きな過ちを犯すところだった。


 もし、彼女が異変を指摘してくれなかったら……俺はしほと喧嘩する覚悟で話し合いをしようとしていた。


 いつまでも俺の思いを受け止めてくれない彼女に、強い言葉を使ってでも現状に変化を促そうと……そういう誤った考えを抱いていたのだ。




 ――そうした方が、物語的に正しいと思って。




 たしかに、すれ違いはラブコメにおいて定番のイベントである。

 雨降って地固まる。そのことわざの通り、すれ違いを経て関係性には変化があっただろう。


 でも、それは現実的に考えると……あまり良い手段じゃない。

 胡桃沢さんのおかげで冷静になれた今だからこそ、分かる。


 だって、しほは臆病な性格なのだ。

 根が明るくて、無邪気で、純粋で、だからこそ悪意には疎くて……争いごとに向いていない彼女にとって、喧嘩という存在はもっとも恐怖するイベントの一つだと思う。


 ……思い返してみると、俺はしほと喧嘩なんて一度もしたことがない。

 単純に喧嘩する理由も意思もなかったのでそれも当たり前だ。そして恐らく、だからこそしほは『中山幸太郎』を好きになってくれたと思う。


 喧嘩なんて絶対にしないような性格は、彼女にとって本当に心地よかったはず。


 穏やかな日々は、しほが心から望んでいたもので……手放す必要がないほどに、幸福なものなのだろう。


 だから、それを脅かすような悪手は選ぶべきじゃない。

 そもそも、俺も争いごとに向いていない性格なので、喧嘩したってうまくいくわけがない。怒り方が分からないのだから当たり前だった。


 そんな単純なことにも気づけないくらい、視野が狭くなっていたのだろう。胡桃沢さんには感謝しかなかった……ありがとう。おかげで、しほとの向き合い方が分かったよ。


 別に、難しいことなんてする必要はない。

 喧嘩する意味なんてない。俺が伝えたい思いは、ただ一つなのだから。


「もしもし? しほ、ちょっといい?」


 胡桃沢さんと話を終えた後のこと。

 俺の様子が元に戻ったことを確認した彼女は、早々に部屋を出て行った。その直後に、俺はしほに電話をかけた。


「あの、いきなりで申し訳ないけど……俺の部屋に来れる? ちょっと、顔が見たくて」


 そう伝えると、しほは『すぐに行く』と言って電話を切った。

 足を運んでもらうのは申し訳ないけど、しほは梓と相部屋だからなぁ……今は二人きりになりたいので、彼女を呼び出したのである。


 さて、と。

 改めて、しほと向き合おう。


 物語の中にいる『しぃちゃん』ではなく。

 俺の目の前にいる『しほ』と、ちゃんと話をしようか――。

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