五百五十八話 主観のないモブキャラ

「いきなりどうしたの? 一緒に朝ごはんを作ってた時はいつものあんただったのに」


 胡桃沢さんは気付いている。

 俺が色々と思い詰めていることを察していた。

 どうやら彼女は俺のことを心配して部屋を訪れてくれたらしい。


「……俺はいつも通りだよって言ったら、どうする?」


「信じるわけないじゃない。いつもの中山の言葉なら信じてあげてもいいけど、今の状態のあんたよりは、自分の感性の方が信じられるわ」


 嘘は通じない。

 はぐらかそうとか、欺こうとか、その場しのぎでどうこうできるような相手じゃない。


 胡桃沢さんは、とても聡明な人だから。

 あのメアリーさんですら一目を置かざるを得ない存在である。


 俺程度の人間が抵抗しても、ことごとく看破されるだろう。

 それが分かっているので、俺は早々に諦めて素直な感情を言葉に出した。


「……分からないんだ。自分のことなのに、自分が分からなくなっている。いつも通りのつもりなのに、いつも通りじゃない」


 まぁ、別に自分の状態を隠したいと思っているわけではなくて。

 あまり積極的に答えたくない理由は、俺自身ですら自分の身に何が起きているのか、うまく説明できる自信がないからだ。


「体調が悪いとか、許せないことがあったとか……何かがあったわけじゃないの?」


「そういうわけじゃない、と思う」


 断言できない自分が情けないとは思うものの、だからと言って自分の状態がよく分かっていない以上、やっぱり自信はない。


 もしかしたら、俺が気付いていないだけで体調が悪いのかもしれない。

 あるいは、何かしらに腹を立てていたり、ショックを受けていたりする可能性だってある。


 でも、心当たりがないので、やっぱり俺に何かが起きたわけではない……と、客観的にそう判断することしかできなかった。


 体調ですら、主観で理解していない。

 今の俺は、第三者の視点でしか物事を見えていないのだろう。


「変ね。明らかに様子がおかしいのに……もしかして、霜月と喧嘩したとか?」


「しほと?」


 喧嘩、か。

 これからするかもしれないとは思っていたけど、実際にまだそうなってはいないわけで。


 俺の状態に彼女が大きな影響を及ぼしていることは間違いない。でも、そのきっかけがしほとは限らないので、やっぱり俺には歯切れの悪いことしか言えなかった。


「しほとは……いつも通りだったよ。うん、彼女はいつも通りだった」


 物足りないくらいに、いつも通りで。

 俺がこんなに思い詰めているのに、彼女はいつも通りあどけなく、愛らしい。


 俺たちの関係に、変化はない。

 そう、思っていたけれど。


「……ねぇ、そういえば気になってたんだけど」


 腑に落ちない。

 そう言いたげな表情で、胡桃沢さんは俺にこんなことを問いかけた。


「どうして霜月の前では『しぃちゃん』って呼ぶのに、彼女がいないと『しほ』になるわけ? なんだかそれって、おかしいと思うけど」


 呼び方に違和感があるのだと、胡桃沢さんは言った。


 たしかに俺は、しほの前でだけ彼女を『しぃちゃん』と呼ぶ。

 なぜなら、彼女がそう呼んでほしいと求めたから。


「愛称で呼ぶくらい仲良しなら、別に変える必要ないじゃない。今更、恥ずかしいわけでもないでしょう?」


「うん。恥ずかしくは……ないよ」


 じゃあ、なんで?

 俺はどうして、わざわざ呼び方を分けている?


 その理由は、もちろん俺には分かっていない。

 しかし、胡桃沢さんは何やら思い当たる理由があるようだ。


「もしかして、あんた……霜月のことも、見えてないわけ?」


 胡桃沢さん、だけじゃない。

 しほのことも、見ていない?


 もちろんそんなつもりはない。

 でも、胡桃沢さんにはそう『見えて』いるようだ――

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