五百五十七話 何も見えていない
なぜ、今なのだろう?
「ちょっと時間が空いたから、急にあんたと話したくなって」
不自然なタイミングで現れた胡桃沢さんは、少し照れくさそうな表情で椅子に座った。俺も体を起こしてベッドのふちに座ったものの、未だ動揺は消えておらず……返答にもたついていた。
「う、うん。そうなんだ」
やっぱり、この登場は違和感が強すぎる。
だって、タイミングがあまりにも中途半端なのだ。
時刻は十一時五分。
何かを仕掛けるには時間帯が早い上に、先ほどナンパというイベントが起きてからあまり時間も空いていない。
物語には緩急が必要だ。イベントが詰まっていると、窮屈な息苦しさを与えてしまう。ナンパを終えて、しほとの関係に確執があることを示し、胡桃沢さんの今後についての伏線も張り終えている現状、彼女が登場する必要性がない。
胡桃沢さんとの物語を進めるのは、もっと後でいい。
少なくとも……しほとの関係性に変化が生じるまでは、現状維持で十分なはずだ。
だというのに、彼女は現れた。
この登場に『第三者の意思』が感じ取れない。無意味で、不必要な場面に思えてならなかった。
うーん……とりあえず、彼女の出方を探ろう。
その意図を見ることで、あるいは何か意味を見出すことができるかもしれない。
「……ねぇ、やっぱりおかしいわ」
結論を出して、顔を上げた直後。
胡桃沢さんは俺を見て、不可解そうに首を傾げていた。
「おかしいって、なにが?」
「あんたに決まってるじゃない。中山……あんたの様子が、変なのよ」
深紅の瞳がまっすぐ俺を見つめている。
その視線はなんだか居心地が悪くて、反射的に目をそらしそうになった。
でも、次の言葉を耳にして、俺は目をそらすこともできなくなった。
「あたしを見てない」
小さな声だ。
しかし、その言葉は鋭く、俺の心を容赦なく貫いた気がした。
「いえ、正確には誰も、どこも見てない。焦点があってないのよ……帰ってきてからずっとおかしい」
自覚はない。
今だってちゃんと、胡桃沢さんを見ているつもりだ。
「もちろん、目が見えていないって話じゃないから。物理的に見えていないということじゃなくて、比喩表現として見ていないという意味よ」
もちろん彼女の言いたいことは分かる。
理解していると示すためにも頷いたけど、彼女はなぜか丁寧に説明してきた。
「つまり、中山があたしと向きっていないのよ。あたしだけじゃなくて……そのほかのこと全てに対しても、無機質な気がしたの」
「言いたいことは、分かってるつもり……だけど」
「本当に? じゃあ、答えて。中山は、ちゃんとあたしのこと見てた?」
「いや、そんなつもりはなくて……見てない訳じゃ、なかったと思う」
嘘をついても仕方ない。だから正直に伝えた。
でも、答えを聞いて胡桃沢さんは呆れたように息をついた。
「はぁ……さっきのあんた、何分黙り込んでたか分かってないの? 十分間、ずっと押し黙って俯いてたけど、それでもあたしと向き合ってたって言えるわけ?」
その指摘に、ハッとして壁掛けの時計を確認すると……たしかに、時計の長針が十五分を過ぎていた。
先ほど見た時は五分だったのに、いつの間にか十分が経過していたのだ。
その間ずっと、俺は自分の思考に没頭していたらしい。
「あえて何も言わずに見てたわ。あんたの様子を、ね……だからあたしには分かる。中山が、急におかしくなったことを」
今度はもう、反論できなかった。
自分では取り繕えているつもりだった。頭の中は混乱していても、いつも通りを演じられているはずだと思い込んでいたけれど。
どうやら俺は、様子がおかしいみたいだ――。
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