五百五十五話 他者思考

『中山幸太郎らしさとは?』


 改めて、自分を見つめてみると……その空虚さに嫌気が差して、なんだか気持ち悪くなった。


 しほと出会って、色々あって、変わったと思っていたけど。

 やっぱり、違う。中山幸太郎という存在に劇的な変化は訪れていない。


 小さな変化はたくさんあるだろう。成長した部分もたしかに存在する。

 だけど、中山幸太郎は結局のところ、俺でしかない。


 まぁ、違う人間になることなんてできないので、大きな変化がないのは当然ではあるのだろう。


 それでも、変われていた気がしていたのは……たぶん、細かい部分を気にしなくなっていたからだ。


 しほと出会って、自分のイヤなところばかり見ることをやめた。

 だから、見えなくなっていた。逆に自分の良いところばかりを見ていて、そのおかげで俺は変われていると錯覚していた。


 もちろんそれは悪いことなんかじゃない。


 自分の都合のいい部分だけを見ること。

 自分の視点こそが、世界の全てであること。

 その一人称の思考は、俺が焦がれた求めていたものだ。


 他者を介さずに自分を形成することができれば、自己を否定することもないのだから。


 一時期は、俺も一人称で物事を考えることができていた。

 色々なことを乗り越えて、成長していた。


 でも、それは張りぼてにすぎなかったのだろう。

 少し自分を疑った瞬間に、張りぼては壊れてなくなった。


 そしてまた、俺は自分の本質を向き合うことになっている。


 中山幸太郎は、結局のところ……どう足掻いても、三人称視点の人間なのだ。


 いわゆる『他者中心思考』なのである。

 自分ではなく、他人を中心に考えることが俺の本質なのだ。


 言葉を選ぶ時、普通の人間は自分の意思を優先するだろう。

 でも俺は、他者の意思を優先してしまう。


 何を言えば、相手が喜ぶのか。

 どう伝えれば、相手が嫌な気分をしないのか。


 自分よりも他者を優先してこの思考こそ『中山幸太郎らしさ』なのだ。


 俺の中に何もないわけじゃない。

 でも、存在するものにすら、中身が詰まっていない。


 他者を介さないと形にならない俺の本質に向き合ってみると、やっぱり苦しかった。


 空虚だ。

 俺の中身は空っぽで虚しい。


 だから自分に価値を感じていない。

 大好きな人にいつ見限られてもおかしくないと、不安になる。


 そのせいで、しほのことに過保護になる。

 嫌われたくなくて、過剰に優しくしている……のだろうか?


 そう理由付けできてしまう『中山幸太郎らしさ』にため息が出た。

 胡桃沢さんに居心地の良さを感じたのは、恐らく――嫌われても構わないと思っているからに過ぎない。


 俺が好きなのは、やっぱりしほだ。

 でも、好きだからこそうまくいかない。


 この感覚が、苦しくて仕方なかった。

 俺はいったい、どうすればいいんだろうか――。

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