五百五十四話 退化

 部屋に戻って、倒れこむようにベッドに身を投げた。

 資産家の胡桃沢邸が所有するこのペンションにおいて、家具一つ一つですら高級そうな品で……もちろん、ベッドもふかふかでとても寝心地が良い。


 体が沈み込む、というよりは包み込まれるような感触だ。

 このベッドがあるにもかかわらず、昨夜は眠りが浅かった……ということはつまり、俺は相当思い悩んでいるのだろう。


(何が正解で、何が不正解なのか、よく分からないなぁ)


 この感覚は久しぶりかもしれない。

 自分の行動に自信が持てなくて、判断に迷ってばかりで、そんな自分自信に嫌悪する……これではまるで、しほと出会う以前の俺だった。


 行動の指針が定まらない。


 胡桃沢さんに対して、いつものように優しくふるまうべきか……冷たく接するべきなのか。


 しほに対して、過保護に接するべきなのか、あるいは信頼して放置しておくべきなのか。


 恐らく、どちらを選んでもどちらかが傷ついてしまうような相互関係にある問題なのだろう。

 だからこそ、人を傷つけられない俺にとっては苦難の選択となっていた。


 たとえば、胡桃沢さんに優しくしたとしよう。

 そうなると、俺を好きでいてくれるしほに対して失礼になる気がしてならない。だけどそれは、過保護に考えているだけだろうか?

 加えて、彼女の気持ちに応えられない以上、その恋心を無視しているようにも感じる。


 しかし、冷たくしたとしたら……胡桃沢さんはきっと、それはそれで傷つくはずだ。

 だって、彼女は何もしていない。

 俺に好意を抱いているだけ、というかそう俺が思い込んでいるだけと言う可能性も否めない。


 しほを信頼して、今の問題を放置したとしよう。

 全部に気付かないふりをして、いつも通りに接して……でもそれで、何が解決する?

 胡桃沢さんの思いも、しほとの中途半端な関係性も、解消されることなく時間が過ぎていくだけだ。


「くそっ」


 ベッドに仰向けに寝転んで、天井を睨んだまま、小さく悪態をついてみる。

 自分自身に腹が立っていた。いつまでも優柔不断で、決断力が低くて、思い悩んでばかりの自分に嫌気が差す。そして、自己嫌悪している自分にまた気付いて、更に自分を責め立てる。


 しほと出会うまで、何度も何度も繰り返していた自己の否定。

 最近はすっかり忘れていたこの感覚を思い出したおかげで、気分は最悪だった。


 ちゃんと成長したはずなのに。

 変化していると思っていたけど、俺はなぜ変わってない?


 モブみたいな俺は、成長して『中山幸太郎』となった。

 その過程で自己否定はなくなったと思う。


 でも、人間はいつまでも同じ状態ではいられない。

 少しのきっかけで、変化する……だとするなら、変わっていないわけじゃなくて。


 つまり、俺は退化している?

 成長と同様、退化もまた変化の一つ。


 色々な仮定を経て、俺は……かつての自分に近い性質を再び手に入れた、ということか?


 だとするなら、バカげている。

 しほと出会う前までの俺なんて、要らない。


 こんな俺なんて、イヤだ。

 ……と、またしても自分を拒絶してしまって、大きなため息がこぼれた。


 これは、ダメだな。

 いくら考えても、結論なんて出ないだろう。


 だって俺は、自分の考えを失ってしまっているのだから――。

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