五百二十四話 一夜目 その14

 ――動くな。


 胡桃沢さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。

 しほとの関係性を改善するために、何かしたいという感情はある。


 今までであれば、こういうときに俺自身が動くことで問題を解決してきた。

 でも、今回はそれができない。


 胡桃沢さんいわく、俺が悪いわけじゃないらしい。

 ……まぁ、厳密にいうのであれば、少なからず俺にも原因はある。


 しほに対して、甘すぎた。

 優しくしすぎたのだろうか……意図的にでない。自然に振舞って、そうなってしまったのである。


 だから、もし俺自身の手でこの件を解決するためにやるべきことは――しほに厳しく接することだろう。


 悪いことがあれば、悪いとしっかり伝えること。

 時には冷たくしてでも、ハッキリと指摘すること。


 それが、今のしほには必要なのだろう。


(そんなこと、できる気がしない……っ)


 でも、俺にはそういう行為が向いていない。

 そもそも、怒ることに慣れている人間じゃないのだ。


 そういう負の感情をうまく表現する方法が俺にはわからないのである。

 そして、しほもまたそういう感情を処理することが得意じゃない。


 胡桃沢さんの言う通り、愛されて育ってきた子である……負の感情に対しては過剰な苦手意識があることも、ちゃんと理解している。


 だから胡桃沢さんは『動くな』と言ったのだ。


 でも……何もしないでいることは、やっぱりできなくて。


(少しだけ……しほと話してみよう)


 胡桃沢さんと会話した後、しばらくしてからのことだって。

 時刻は日付を跨ごうとしている。深夜だけど、しほと梓はお昼寝をしていたので、たぶん起きているだろう。


 一人の部屋を割り当てられた俺と違って、しほと梓は相部屋にいる。

 自分の部屋を出て、彼女たちの部屋へと向かう……扉に到着すると、今度はちゃんとノックをした。


 昼間はいきなり入ったせいで、大変なことが起きた。


「っ……!」


 あの時の記憶は頭を振って思い出さないように気を付けておく。

 そんなことをしていたら、ドアがゆっくりと開いた。


「あら? 幸太郎くん、どうかしたの?」


 予想通り起きていたしほが、こちらを見てニッコリと笑った。

 その笑顔は相変わらず無邪気で……無防備である。


 緩い笑顔を見ていたら、なんだか気が抜けた。


「こんな夜遅くにごめん。ちょっとだけ、しぃちゃんの顔が見たくて」


「え? そうなの? じゃあ、どうぞっ。いっぱい見て?」


 ぐいぐいと顔を近づけてくる彼女に、頬が緩む。

 距離感は相変わらず近い。こうして接していると、関係がうまくいってないなんて思えないくらいに、しほは俺に気を許していた。


 本当は、もっとまじめな話をするつもりだった。

 でも……この笑顔を前に、自分のシリアスな感情が霧散しかけていることを感じた。


(俺に、この笑顔を壊すことなんて……できるのか?)


 いつだって、しほの笑顔を守るために動いてきた。

 そのためなら、なんでもできた。


 しかし、しほの笑顔を守るために、しほの笑顔を壊す……その矛盾が、俺の前に立ちはだかっていたのである――

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