五百十九話 一夜目 その9
俺はしほに対して『怒り』という感情を抱いたことがない。
意見が食い違いことは時々あるけれど、言い争いにまで発展したことはほとんどない。
いつも受け入れてばかりいた。
彼女の意志を尊重して、たとえおかしいと思った行為に対しても仕方ないと笑って流していた。
それで良いと思っていた。
だけど、それだけでは、良くなかったのかもしれない。
「もちろん、怒ることが正しいと言いたいわけではないわよ? あんたにそういう感情が似合わないことは分かっている。だけどね……怒るほどの感情がないということが、問題なのよ」
怒りを放出することが求められているわけじゃない。
怒りが生まれることがない――それが胡桃沢さんにとっては、あり得ないことのようだ。
「人は誰だって間違える。あたしも、あんたも、それから……霜月だってそうでしょ?」
ああ、その通りだ。
しほだって、間違えるに決まっている。
でも、俺は彼女が間違えていることに気づいたことがなかった。
「もしかしてだけど……中山って、霜月のことを特別視しすぎてるんじゃない? 意識的にか、無意識にかは分からないけど、あんたを見てると……ちょっと、霜月に対する態度が度を過ぎている」
「……そんなに、俺の態度って変かな」
「霜月に対して優しすぎると、あたしは感じる」
その指摘に対して、反論するのは簡単だ。
そんなわけないと一蹴して、聞こえないふりをして、無視をしてしまえばいい。
そうすれば、今までと同じような日常を過ごせる。
でも……胡桃沢さんが、それを許してくれなかった。
「自覚して。あんたが、おかしくなってしまっていることに」
だって、彼女は――真剣だから。
強い思いが、言葉に宿っている。
重い。
胡桃沢さんの言葉は、軽い気持ちで拒絶できるほど軽くない。
だから、俺は逃げることすらできなかったのだ。
「…………」
無言で、その場に立ち尽くす。
真夏。吹き抜ける風がかすかに冷たいとはいえ、寒さを覚えるような気温じゃない。
それなのに、背筋が冷たかった。
自分でも、顔色が悪いことが分かる。
それくらい俺は、動揺しているのだろう。
「しほのことを、俺は……っ」
特別だと、思い込んでいたのだろうか。
いや、分かっていたつもりではあるのだ。しほが普通の女の子だって、分かっていたはずなのに……どうしてこんなにも、彼女を肯定してしまっていたのだろう?
神格化していたのか?
しほのことを愛するあまり……深く思いすぎた結果、愛情が違い形に捻じ曲がったのだろうか。
意識的なものじゃない。
無意識に、しほに対する感情が変化していたとするなら――それは良くない傾向だろう。
「このままでいいの?」
いいわけがない。
俺としほが歩む道の先には、はたして理想の『幸福』が待っているのか?
「間違っていることにすら気づかない霜月と、間違っていることすら認識できない中山は、きちんと愛し合うことができると思う?」
――できる!
そう言いたい。でも、口が動かない。
本心から、そう思えていないせいだ。
そんな俺を見て、胡桃沢さんはあきれたようにため息をつく。
「……あたしの勝手な予想だけど、このままだと中山が先に壊れちゃうんじゃない?」
俺が、壊れる。
「今はまだ、小さな歪みかもしれない。でもそこから亀裂が入って、壊れていく……今も少しずつ、あんたがおかしくなっているように、あたしには見えている」
そんな未来が、現実になったら……そう考えただけで、ゾッとした――
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