if ~もしも霜月さんが『モブ』と出会わなかったら~ その10

 生まれて初めて『音』のない人間と出会った。

 こんなに、隣にいて居心地が良い人間と出会ったことがなかった。


「行かないで」


 溶けていく。

 凍った心が、解けていく。


 無意識だった。

 何も考えることなく発した言葉は、彼女らしくない……懇願の言葉だった。


「まだ、行かないで」


 一言では足りない。

 二言継ぎ足して、あろうことか彼の洋服の裾を掴んで、その時にやっと自分が何をしているのかに気付いたしほは、目を見開いた。


「…………ぁっ」


 慌てて手を離して、青年の顔を恐る恐る見上げる。


 隙を見せてしまった。

 弱さを曝け出してしまった。


 経験上、こういう時に男性は獰猛になる。

 学生時代、幼なじみの少年に何度も苦労させられたトラウマが、彼女の温度を下げようとする。


 しかし、彼の優しさがそれを許さなかった。


「分かった」


 小さく笑って、縁石に座るしほの横に彼は立つ。

 さりげなく、通行人の視界から守る様に位置をズラして。


「君が嫌じゃないなら」


「嫌……じゃない」


「そっか。じゃあ、もうちょっとここにいようかな。あー、でもあんまり長くはいられないかも? 迎えに行かないといけない人がいて」


「誰かと待ち合わせしてるの?」


「待ち合わせっていうか、呼び出されたというか……まぁ、数ヵ月ぶりだから、ごはんでも食べようっていうことかな?」


 ごはん。

 その単語を耳にして、しほはふとスタジオで遭遇した男性モデルを思いだす。

 女性と交友する場として、食事の席は多く利用されるらしい。


 だとしたら、この青年にはもしかして?


 そんな疑問が浮かんだ瞬間にはもう、しほはそれを口に出していた。


「相手は彼女さん?」


 何故か、心が大きく鼓動した。

 知ることが怖いような、だけど知らなければならない、という矛盾した感情が沸き起こる。


「え? あー、えっと」


 あまりにもしほが食い気味に聞いてきたからだろう。

 青年は少し戸惑いながらも、ゆっくりと質問に答えてくれた。


「彼女じゃなくて、家族だよ。妹がいるんだ」


「……そうなのね」


 その一言で、安堵した。

 同時に、自分の言動が恥ずかしくなって、しほは俯いてしまった。


「べ、別に、その、変な意味はないわ」


 動揺のせいか、彼女は聞いてもいないのに言い訳を始める。

 そんなしほを、青年は微笑ましそうに見ていた。


「恋愛に興味深々な年齢だろうし、恥ずかしがらなくていいんじゃない? ……まぁ、語れるような経験がないことは、申し訳ないけど」


「……興味があるってわけでは――」


 ない。

 そう言い切ろうとして、ふと青年の語り口がどこかおかしいことに、しほは気付いた。


「恋愛に興味津々な年齢って……私、もう成人してるのよ? そんなに可愛い年齢ではないわ」


「え!?」


 しほとしては、軽い指摘くらいのつもりで発した言葉だった。

 普段から、幼く見られがちではある。18歳とか、その程度に思われているのかな……と、予想していたのだが。


「高校生くらいかなって思ってた」


 彼は、しほのことをかなり若いと勘違いしていたらしい。


「……ちなみに何年生?」


 三年生なら許そうと、寛大なしほは思っていたが。


「一年生」


 迷うことなくハッキリとそう告げた青年に、しほは思わずほっぺたを膨らませてしまった。


「もう大人だもんっ」


 その顔は、残念ながら大人には見えなかった――

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