if ~もしも霜月さんが『モブ』と出会わなかったら~ その9

 どうやらしほは、思ったよりも勢いよく転んでいたようだ。

 手のひらは擦り傷だらけで、膝は血が滲むほどに皮が裂けている。


 青年から借りたハンカチで汚れを拭いた。

 応急処置としてはそれだけでも十分だろう。だが、青年は更に絆創膏を貼ってくれた。


「はい、これでいいよ」


「……絆創膏なんて持ち歩いてるの?」


「心配性なんだ。数枚だけど、いつでも使えるように財布に入れてる」


「……あなたと同じように、こういう機会を狙って絆創膏を持ち歩いている、ナンパ好きな男性と出会ったことがあるわ」


「へー。そういう手口もあるんだ……世の中は広いなぁ」


「……あなたもナンパ目的?」


「あはは。ナンパできる人間だったら、もうちょっと明るい人間になれてるよ」


 青年が軽やかに笑う。

 それを見て、しほは自分の態度が酷く素っ気ないことに気付いた。


(ダメだわ……クセが抜けない)


 いつも、他者を前にすると冷たく接していた。

 そうやって温度を低くしないと、痛みを鈍くすることができないから。


 とはいえ、その態度は失礼でもあるわけで。

 青年を怪しむような言動をしていることに自覚して、しほは俯いた。


(こういうことを、言いたいわけじゃないのに……)


 歯痒い思いに唇を噛む。

 青年に悪印象を持たれたくない――そう思ったがゆえに、彼女は落ち込んでしまう。


 しかし、彼はまったく気にしていないようだった。


「傷、深くはないけど……家に帰ったらちゃんと洗って、消毒した方がいいよ」


 様子を確認して、それからもう用事は終わったと言わんばかりに立ち上がる。

 やっぱり彼は、しほに下心があって話しかけてきたわけじゃない。


 ただ、心配しただけで……そして、大丈夫だとわかったら、もう十分なのだ。


「タクシー、呼ぼうか? まぁ、歩けない傷ではないけど……痛むなら無理しないで」


 そう言って、彼はしほから距離を取る。

 その様子を見て、彼女はなんとなくこう思った。


(もしかして、私が警戒したから……安心させるために、離れてくれてるの?)


 音が聞こえないから、彼の本心は分からない。

 でも、しほの冷たい言葉を耳にしてから、青年は距離を取ろうとしているように見えた。


 しほのことを優先して、彼は自らの行動を決定している。


 そんな人間、初めてだった。


「…………」


 思わず黙り込んでしまう。

 今まで、しほの周囲には自分本位な人間しかいなかった。


 一人称視点で、独善的で、良くも悪くも『自分』を強調する主人公しか見たことがなかった。


 彼らから身を守るために、彼女は自らを凍らせた。

 しかし、その冷気は自らを傷つける刃となり……そして今は、青年を拒絶する障壁になってしまっている。


(このままだと、彼は……)


 どこかに行ってしまう。

 それが怖くて、しかしどうしていいか分からなくてしほは何も言えなくなる。


 再び彼女は、氷のように冷たくなろうとしていた。


「ご、ごめんね? あの、うん……大丈夫かなぁ。いや、ナンパとかじゃないんだよ? 君が大丈夫なら、それでいいんだ。だけど、どうしても心配で……うーん、俺が男性だから警戒しちゃうのは分かってるんだ。君はすごく、なんていうか、綺麗だから。それは、理解してるけど……様子がちょっと、気になって」


 しかし、青年は……やっぱり、温かかった――。

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