if ~もしも霜月さんが『モブ』と出会わなかったら~ その8
――静かだ。
彼が近くにきて、しほは改めてそう思った。
不思議なことに、彼の周囲には音がない。
彼自身からも、それから他の音でさえも、この青年が近くにいるとフィルターがかかったかのように静かになる。
こんな人間は、初めてだった。
だから、気になって仕方なかった。
「や、やっぱりどこか悪いのかな……救急車、呼ぼうか?」
座り込むしほの横で、彼は寄り添うように身をかがめて手を差し伸べている。
決して他意はない。しほが可愛いから優しくしている――そんな『音』は彼から聞こえなかった。
「……ううん、呼ばなくていいわ」
首を横に振って、それからちょこんと手を伸ばす。
ゆっくりと彼の手を掴んで、確信した。
(この人は、違う)
先程、男性モデルに肩を抱かれた時は嫌悪感で体が冷たくなるほどだった。
しかし、彼の手に触れると、冷たくなるどころか温かくなって――否、それ以上の『熱』を感じた。
(『特別』な人なんかじゃ、ない)
常に、主人公のような人間ばかりが救おうとしてきた。
頼んでもいないのに、彼女を勝手にヒロインに仕立て上げて、強引に手を掴んで引き起こすような男性としか出会ってこなかった。
だけど、彼は違う。
特別性なんてない。薄い顔立ちで、印象的な特徴なんてないし、万人がイケメンと認識できるような顔立ちでもない。中肉中背の、どこにでもいるような平凡な青年だ。
でも、だからこそ彼からは『温もり』を感じた。
「……顔色、思ったよりいいね」
少し黙っていると、不意に彼がこちらの顔を覗き込んでいることに気付いた。
しほの美貌に見惚れている――わけではない。彼の目は、決してしほの外面に惑わされない。
「突然転んだからびっくりしたけど、まぁ……救急車は大げさかな。ごめんね、妹にもよく怒られるんだけど、ちょっと心配性みたいなんだ」
彼の声は、透明だった。
主人公たちのような、相手を飲み込む黒い音ではなく、むしろ受け入れてその色に染まるような綺麗で繊細な声で、彼は言葉を紡ぐ。
「…………」
その音があまりにも心地良くて、しほはついつい黙り込んでいた。
もっと、彼の音を聞いていたかったのだ。
「わっ。手、傷だらけだ……膝も痛そうだね。ちょっと、こっちに寄れる?」
珍しく隙だらけのしほを前に、しかし青年は穏やかである。
自分が握る手が汚れていて、傷だらけで、血が滲んでいようと、彼はその手を離さない。
その手をいたわる様に引いて、道の隅に誘導。
身を任せて、言われるがままに縁石に座ると、彼はカバンからハンカチと飲みかけのペットボトルを取り出した。そのハンカチを水で湿らせてから、しほにそれを手渡す。
「使用前のハンカチだから、汚れてないよ。ちょっと染みるかもしれないけど、これで拭いて」
「……いいの? 汚れるわ」
「え? 別に気にしないよ」
「でも……気が引けるわ。汚れたままでは、返したくないもの」
「それなら、あげるよ。大したものじゃないし、家で捨てていいから」
違う、そうじゃない。
洗って返したいと、その一言が口に出来なくてしほはモヤモヤ――していることに気付いて、彼女は唖然とした。
(あれ? なんで私、普通にオシャベリできてるの?)
他人を前に、こんなに自然に会話出来たことなんてない。
ましてや、男性を前にこんなにも自然体でいられたことなんて、人生で一度もない。
挙句の果てには、モヤモヤという『感情』を抱くなんて……しほは自分が、信じられなかった――
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