四百三十六話 『しほ』よりも『しぃちゃん』がいい理由


「ねぇねぇ、幸太郎くん?」


「なに?」


「もう一回呼んで?」


「しぃちゃん」


「…………もう一回!」


「しぃちゃん?」


「あ、あと一回だけ!」


「しぃちゃん……って、さすがに呼ばせすぎじゃないか?」


 もう十回くらい『しぃちゃん』を繰り返している。

 それなのに、一回呼ぶごとに彼女は嬉しそうに破顔するのだ。


「にへへ~」


 ……こんな笑顔は初めてだ。

 ほっぺたを押さえているのは、顔が溶けるのを防ぐためのように思えるくらいに、表情が緩みきっている。


 よっぽど嬉しかったらしい。


「幸太郎くんにそう呼ばれるとなんだかすごく新鮮だわ」


「いつもお父さんとお母さんに言われ慣れているのに?」


「パパとママとはちょっと違うものっ。こう、なんていうか……ドキドキする」


 なんだかこっちが照れるほどの喜びようだ。


 正直なところ……俺としては『しほ』も『しぃちゃん』も然程変わらないような気がしていた。

 だから、呼び方に関しては深く考えたことがない。

 でも、彼女にとってはこの些細な違いが大切みたいだった。


「『しほ』って呼び方はね、竜崎くんもしてたのよ」


 ……なるほど、そういうことか。

 彼女が『しほ』よりも『しぃちゃん』を喜ぶ理由は、あいつにあるようだった。


「残念ながら私は彼と幼馴染だったでしょう? だからなのか、すごく馴れ馴れしくて……許可した覚えもないのに呼び捨てにされていたの」


「竜崎も悪気はなかったと思うけど」


「まぁ、私も別に『すごくイヤ!』って程ではないと言うか、そこまで彼に関して感情が動くことがなかったのだけれどね? でも、呼び捨てってどうしても印象が悪かったわ」


「そうだったのか……なんかごめん」


「いいえ、幸太郎くんは悪くないわ。全部竜崎くんのせいよ」


 今日はやけに竜崎がディスられていた。

 可哀想だけど……同情はしない。今までの行動が悪いんだから仕方ないことである。


「だから『しぃちゃん』が嬉しいわ。とっても仲良くなれた気がして胸がポカポカする」


「そう言ってくれると嬉しいよ。しぃちゃん」


「うんっ!」


「でも、まだ呼び慣れてないからたまに忘れるかもしれないけど、それは怒らないでくれよ?」


「んー、どうかしたら? たぶん拗ねると思うけど、ぜんしょ?するわ」


「善処、ね」


 前向きに検討してくれるならいいか。

 いずれ、この呼び方も口に馴染んで、無意識のうちに彼女を『しぃちゃん』と呼べるようになるはずだ。


 だから、これからはなるべくそう呼ぼうと、心に決めた。


「それで、しぃちゃんは俺のことをなんて呼ぶか決めた?」


「うふふ♪ そうね、しぃちゃんは……うーん、どうしようかしら? しぃちゃんはすごく迷っちゃうわ」


 しぃちゃんの一人称がしぃちゃんになっていて、しぃちゃんと呼ばれることがとても嬉しいみたいだ……うーん、しぃちゃんと連呼しすぎてちょっと頭が混乱してきたけど、まぁいいや。


 しぃちゃんが幸せそうだし、細かいことは気にしないでおこう。


「幸太郎くんは何がいい?」


「自分で自分のあだなを決めるのは恥ずかしいけど……しぃちゃんだけの呼び方とかなら、嬉しいかな」


「私だけ……私だけが呼べるあだな――分かった!!」


 そしてついに、彼女の考えもまとまったようだ。

 果たして彼女は、俺のことを何て読んでくれるのだろうか。





「『ダーリン』ってどうかしら!?」





 …………。

 いやいや、ちょっと待って。


「早くない? 階段を五段くらい飛ばしてるぞ」


 実はまだ付き合ってすらいないのに。

 しぃちゃんの心はもう、結婚しているようだった――。

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