四百三十五話 しぃちゃん

 しほが俺の呼び方について真剣に悩んでいる。

 唇を尖らせて、左上の方を見ながら、ぶつぶつと呟いて考えていた。


「『こーくん』をこえるようなやつ……うぅ、あんまりないっ。いっそのこと『お兄様』って呼んじゃおうかしら」


「変な誤解が生まれそうな呼び方だね」


「そうよね……あと、『妹』はあずにゃんだけの特権みたいなものだから、たぶん怒られちゃうし」


「梓にも変なこだわりがあるよなぁ」


 たまにしほが冗談で『おにーちゃん』と俺に言うことがある。

 その時、彼女は烈火のごとく怒るのだ。何やら侵されたくない領域があるらしい。


「『先輩』も、ちょっと違うなぁ」


「このままだとしほが後輩になる可能性も低くないけど」


「べ、勉強はちゃんとします……それはさておき!」


 成績のことは考えたくもないようだ。速攻で話題を変えていた。


「分かった! 『司令官』なんてどう?」


「肩書が重いかな」


「じゃあ『提督』!」


「重さが変わってない」


「わがままね。だったら『プロデューサー』でもいいのよ?」


「しほがアイドルとかやるんだったらなれるように頑張るけど」


「無理よ、あんなに大勢の前で歌とかダンスとかできるわけないじゃない?」


「だったらプロデューサーにはなれないね」


 まるでゲームの呼び方を列挙しているような呼称だった。

 あだな……いざ決めるとなると、難しいのかもしれない。


 特に俺の名前は特徴がないので難しいのだろう。


「ぐぬぬ……私のこの気持ちを表現できる呼び方が決まらないわっ」


 それと、しほの思いが強すぎる、というのもあるのか。

 俺たちの発想と、彼女の気持ちが釣り合っていない。だから難航しているのかもしれないなぁ。


「まぁいいわ。私のことはとりあえず後回しにして……そういえば幸太郎くんは、もう決まった?」


 ……やっぱりこの流れになるよな。

 しほだけがあだ名を決める――そうならないことはなんとなく分かっていた。


 きっと俺も、彼女の新しい呼び方を決めないといけない。

 そう思っていたので、あらかじめ考えていたものがある。


 正直なところ、俺に関しては迷わなかった。

 なぜなら、以前から『こう呼んでみたいなぁ』というものがあったのである。




「――しぃちゃん」




 ぽつりと、その名前を口にする。

 以前、しほの家で食事をした際、彼女の両親は二人をそう呼んでいた。

 親しみと愛情を感じる素敵な呼称だったので、俺も口に出してみたかったのである。


 はたして、どういうリアクションを見せてくれるんだろう?

 気になって彼女を観察していたら……しほはポカンと口を開けて目を丸くしていた。


 な、なんでびっくりしているんだろう?


「しぃちゃん、どうしたの?」


「…………」


「おーい。もしかして『しぃちゃん』ってイヤ?」


「…………」


「家族専用の呼び方であって、俺にそう言われると変な感じがするとか?」


「…………」


 三ターン、無言が返答される。

 ふむ、こうなったらあれだな。


 嫌がっている、というわけではないのかもしれない。

 だから俺の問いに返答できなくなっているのだと、そう気づいた。


「じゃあ、嬉しい?」


「…………んっ」


 そう聞くと、コクンと首が縦に落ちた。


「に、人間って不思議だわ……びっくりとうれしーを同時に感じたら、何も言えなくなっちゃうのね」


 良かった。

 どうやらお気に召したようである――。

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